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けあらしの朝 28  作者: 翼 大介
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人生迷い道

 仕事は相変わらず忙しく慌ただしい。余計なことを考えている暇などないから就業中は釣りはもとより富美恵の事も頭に浮かんだりすることはない。そんな日々を過ごしていると季節の移ろいにも目を留めることもなく時間は無機的に過ぎてゆくばかりだ。営業で外回りをしていた頃にはそうした変化を感じ取るアンテナが自然と立ったものだが内勤の仕事になってからは単に暑い、寒いを口にするだけで視覚的、嗅覚的なことを進んで働かすということがほとんどなくなってしまった。あるとすれば今年から再開した魚釣りの時くらいなものだろう。その釣りも6月に行った施津河での釣行を皮切りに10月中旬の女川湾でのメバル五目釣りで釣行は5回を数えたが初挑戦となったメバル五目釣りで博之は予想を越えるインパクトを感じることとなった。一度に5尾ものメバルが鈴なりに掛かったり、時には岸壁からは望めないサイズの黒ソイがヒットしたりとカレイ、アイナメ釣りを主体にしてきた博之には大袈裟ではなく革命的な出来事であった。

(仕事が思うようにいかないのは一緒だが釣りに関しては仙台に居た頃より充実感は間違いなくある)

しかし今の同僚達と釣りを楽しむペースをつかみかけたところで無情にも竿納めとなる12月を迎えた。それでも最後の釣行を終えてタックル一式をメンテナンスしながら博之はあらためて今年は良い1年を過ごせたなと振り返った。釣りはもちろんのこともう一つ画期的な出来事だった富美恵との再会も生活にメリハリをもたらす要因になっていた。間もなく彼女と初めて言葉を交わしてから1年になる。向こうは忘れているかも知れないが博之は日にちをしっかりと覚えていた。あの日を境に間近に迫っていた由里子の命日やらQCサークル発表会の資料作成に追われて沈み淀んでいた気持ちがいささか和んだ。博之は勝手に記念日と位置づけて今年のカレンダーには赤い丸印まで書き込んでいる始末だ。佐久間に仲立ちしてもらった飲み会以降も博之は富美恵との連絡をマメに取り続けて、二人だけで会うこと数回。電話で話した回数は両手では足りない。交際相手でもないのにこの回数はどうなのだろうかと疑問ではある。しかし博之の一方通行かというとそうでもなくて富美恵から電話が掛かって来たことが何回かあったのだがこのことが博之を悩ませていた。冷静に思い起こせば彼女が電話を寄越すのはただとりとめのない話をしたかったとかという時に限られている。そこに自分に思いを寄せているといった感情は微塵もない。どこにもぶつけようもない哀しみや寂しさを博之相手にまぎらわしているに過ぎないことは分かっているがそれでもなお部屋に一人でいる時はいろいろと考えてしまう。

 (彼女は予定通りならば来年の4月には施津河を離れてしまう。そうなったら俺の心にまた穴が開くだろう。釣りをするだけではもはや満たされ足りないんだよ)

 博之が自身に問えば富美恵に対して恋愛感情が沸いているという答がすぐに返って来る。だがそれは現実には成就しないものなのだ。ならばどうすればいい。博之は今飲んでいる酒の勢いで思いきった手段に出る決意を固めた。

 (無謀なのは承知だが俺は彼女に想いをぶつける。4月なんてすぐにやって来る。ならば燻った気持ちのまま去られてしまうよりは当たって砕けた方が悔いが残らない)

 博之は矢も盾もたまらずに潮時表を手に取った。調べるのは月齢である。 

 「告白するなら星空の下がいい。それにいつもは昼夜問わず行くのは海ばかりだった。たまには山にも足を向けたい。海に魅せられたとはいえ彼女も由里子と同じく海のないところの出身だ。そして少しでも綺麗な星空を見るために里山であっても新月という条件の方がベストだ。あの場所は一度由里子と一緒に行ったがそこで華々しく散ってやろうじゃないか」

 博之は独り言を言いながら新月の前後の期間を確かめるとカーテンを開けた。かすかに見える魚市場の灯りがいつもより華やかに思えた。







 その日は華々しく散るどころか思いが通じてめでたくカップルの成立といった演出こそが相応しい夜空が広がっていた。博之は反対に道化役にはなおさら持ってこいではないかと開き直りそのものの心境で空を見上げながら、けせもい駅のターミナルで富美恵の到着を待っていた。瞬くような星空が広がる初冬の夜は冷え込みも強い。博之は列車から降りて来た富美恵が両手を口に当てて息を吹き掛けながら改札を出たのを見計らって富美恵のもとにかけつけた。

 「今夜は冷えますね。だけどすっかり晴れ上がり星空が綺麗です。いつもドライブは海ばかりでしたからたまには里山へ行って星空を眺めませんか。実は今日ちょっと仕事で嫌なことがあったものですからあちこち走りたい気分になれないんです。僕の自分勝手な都合を押し付けるようですみません」

 「分かりました。うん、気持ちは理解出来ます。働いていればどうしても毎日が平穏ってわけにはいかないですものね。それに私も久しぶりに山の空気を吸いたいなと思ってました」

 博之が仕事で嫌なことがあったというのは里山へ行く口実を作るための嘘であったのだが富美恵は難色を示すことなく了承してくれたことに心の中で第一関門突破だなと呟いた。

 「それじゃあ行きましょうか。40分ほどで着きます。そこは街の灯りに邪魔されることもなく綺麗な星空を堪能出来るので考え事やボーッとしたい時、そして今日のように仕事で嫌な事があった時に訪れる場所なんですよ。それで急遽決めました」

 嘘の上塗りのような話をしてしまったがこれから訪れようとしている場所はけせもいに帰ってから何度か足を運んでいたから全くの嘘ではない。特にM食品に採用が決まる前までの不安定な気持ちで過ごしていた頃には海を眺めているよりずっと心が落ち着いた。そんなことを振り返りながら里山が近づくにつれてだんだんと民家の灯りも少なくなり静寂な空間が広がり始めた。

 (ここまで来たら後戻りは出来ない。それにしても人工的な灯りがこうも途絶えるとかなり精神的にキツいな)

 ダメ元と分かっていても意識過剰になったためか博之から言葉を発することがほとんど無くなった。富美恵もそれを察知したようで窓の方を向いてしきりに指先でガラスをなぞる仕草が増えた。目的地まではあと5分ほどだがこうした妙な緊張条件に置かれると5分という時間がやたらと長く感じるものであることを再認識出来た。だから博之が着きましたよと息も絶え絶え(第三者からすれば誇張と思われるだろう)

に言った時には脱臼するのではないかと思うほど肩の力が抜けたようだった。

 「突き抜けるようなパノラマが広がっています。すみません僕は先に会社での鬱憤ばらしをしたいのでちょっと大声で叫んで来ます」

 博之は草むらを掻き分けて出来るだけ車から離れて意味不明の言葉を叫んだ。その中に(俺は富美恵が大好きなんだよ~)というフレーズが混じっていたのだが声は幾重にも反響していたために富美恵に聞き取られることはなかった。 

 (ここまでは計画通りだ。だがしかし問題は車に戻ってからだ)

 星空の眺めは本当にこれ以上ないほどに綺麗で恋人同士なら夜が明けるまで留まっても不自然ではない。だが今の博之と富美恵は友人、いや、ただの話し相手に過ぎない。そんな間柄ならせいぜい30分が限界だろう。

 ところがそんな思惑とは裏腹に車に戻ると星座談義に花が咲いてしまい、あっという間に30分どころか気がつくと1時間近くが経過していた。(完全にタイミングを掴み損ねてしまった。もう諦めよう。いいさこのまま4月まで今まで通りの付き合いを続けるだけだ。悔いは残るが仕方がない。それよりもあまり遅くならないうちに彼女を施津河まで送らないといけないな)

 博之は自身の霞みがかった気持ちをいくらかでも落ち着かせようともう一度車を降りて今度は叫ぶのではなく小石を拾ってしっかり握りしめ思い切り放り投げた。真っ暗な空間に放物線を描いたはずだがその軌道はもちろん肉眼では視認出来ない。しかし草むらの中に落ちるバサッという音ははっきりと聞こえたがその音は博之にとっては決して心地よいものではなかった。最初に富美恵に言った仕事で嫌なことがあったという嘘。今行った石投げは偽りに満ちた自分の気持ちを誤魔化すために自身についた嘘を具現化したものだ。短時間に違う種類の嘘をついたことに全くなんて日なんだよと呆れながら車に戻ったがドアに手を掛けたところで一呼吸おいた。

 「いくら明日は休みとはいえそろそろ帰りましょう。もちろん施津河まで送りますがこのまま山越えをして国道を目指します。引き返すと時間が掛かりますからね」

 富美恵は納得したようにうなづくと博之に礼を言った。

 「今日はこんな綺麗な星空を見せて頂いてありがとうございます。それと今、投げた石なんですが見えなくてもかなり遠くまで飛んでいったのが音で分かりました。やはり野球やってただけに肩が強いんですね」

 「いや、僕はまだまだです。肩が強い人はいくらでも居るし第一に野球の技術が伴いません。仙台の野球チームではずっと補欠でした。そうだ今度バッティングセンターへ行きませんか。先だってバット買ったんです。野球はやる予定ないんですけどバッティングセンター備え付けのバットはどうもしっくり来ないので」

 「私はバッティングセンターへは二回ほど行きましたがほとんど空振りばかりでした。球技はバレーボールやっていたので道具を使ってボールを打つ感覚が今一つ掴めないんですよ」

 「なるほど、それは理解出来ます。僕は逆にバレーボールやバスケットボールは不得意なんです」

 博之はこの会話で自分が仕組んだ道化芝居に躊躇無く幕を降ろせるように思った。演出から何から全て失敗であったが芝居そのものはやれた。ただアドリブが多すぎたから思い描いたようなエンディングにならなかったのだ。そう考えてゆっくりと車を発進させた。以前の自分ならばもしかすると多少乱暴なハンドル捌きになっていただろう。思えばけせもい市に戻ってからというもの軽乗用車に変えたこともあるが運転がおとなしくなった自覚もある。営業車のハンドルを握っていた頃は取引先へと急ぐあまり、つい無茶な運転になることもあって交通違反切符を何度か切られたために免許更新はいつも長時間コースだったがそれもどうやら次回は短時間コースで済みそうだ。

 「こんな山道ですからラジオの電波の入りが悪いんです。富美恵さんの耳に合うかどうか分からないけどジャズフュージョン系のカセットテープに切り替えます。ノイズ混じりのラジオよりはマシでしょう」

 富美恵は何も言わなかったが、膝でリズムを刻んでいるところを確認出来たので不満を抱いた気配はない。

 (国道に出たら再びラジオに戻そう)

 博之も音楽に合わせ運転がリズミカルになり、終わり良ければ全て良しだなと思い始めたところにカセットテープの音をかき消すような爆音が後方から響いて来た。

 「何かしら、凄い勢いで近づいて来るようだけど」

 富美恵が不安混じりに首を傾げた時に博之はあることを思い出した。

 「オートバイですね。最近、市内でもこんな爆音が聞こえる。それとあくまで噂なんだけどオートバイの二人組に絡まれたあげく金品を巻き上げられた者も居るとか。犯人が捕まったという話もないからもしかしたらそいつら・・・・・あ、いえ心配しないでください。追い付かれたらやり過ごします。下手に停まって降りたりしなければ大丈夫でしょう」

 とは言ったものの博之は心臓が早鐘を打ち出し気が気でなかったが富美恵に不必要な不安を持たせないように表面上は冷静でいた。今日、三度目の嘘になるがこれはついていい類いの嘘だと自分に言い聞かせた。

 (軽乗用車ではすぐに追い付かれてしまう。そのまま抜いて行ってくれれば問題ないがそうでなかったらどうするかだ。待てよ、あれだ。かなり危険を伴うが他に思いつくことがないからやるしかない)

 妙案が浮かんだ途端にオートバイが二台背後に付かれた。どうやら抜き去るつもりはないようだ。助手席の富美恵の表情も青ざめている。

 (俺が弱気になるわけにはいかない。奴らの狙いは分からないが何か仕掛けて来たらやることはやらしてもらう)

 博之は富美恵に手短にオートバイがちょっかいを出して来た時にはそれなりの対処をすると言うために口を開いた。

 「もう少し行くと直線道路になります。仕掛けて来るとしたらそこだと思います。それで僕が考えているような状況になったら合図を出します。身体全体に力を入れて顎を引き踏ん張ってください」

 (直線で挟み撃ちして車を停めようとする可能性が一番高い。その時が逆にチャンスだ。しかし平野から教わったあれをこんな状況で使うことになるかも知れないとは)

 直線道路に入るやいなや二台のオートバイは博之の車の背後ギリギリにピタリと車体を寄せた。そのうちの一台がバンパーを擦るように軽くぶつかって来た。

 「富美恵さん、どうやら抜き去るつもりはないようです。おそらく一台が前に出て車をサンドイッチにして停めに来ると思いますがそうはさせません。今から思いきり加速します。さあ、さっき言ったように力入れて踏ん張ってください」

 博之はアクセルを目一杯踏んだ。それでもスピードは90キロを少し越えたくらいだ。嘲笑うかのようにオートバイの一台が前に出ようとしたその時に博之はパーキングブレーキを引いて急停車した。次の瞬間、二台のオートバイは後部バンパーにぶつかりクラッシュして横倒しになった。運転していた二人は宙を舞い激しくアスファルトに叩きつけられて転がったまま動かない。ほぼ博之が描いたシナリオ通りの展開になったが真っ先に心配すべきなのは富美恵だ。すぐさま助手席を見たが富美恵は顔色を悪くして肩で息をしているが急停車したこととオートバイがぶつかった衝撃によるむち打ちを起こした気配はないようだ。

 「どこも痛くありませんか。怖い思いをさせて申し訳ありませんでした。俺が迂闊に人里離れた場所なんかに来たのがいけなかったんだ」

 博之は唇を噛み締めながら絞り出すように言った。両手の拳はワナワナと震えて膝の上に置かれている。それを見た富美恵は息を整えながら博之に言葉を返した。

 「笹山さんの指示通りにがっちり踏ん張っていたから大丈夫、どこも痛めていません。だけどあのオートバイの二人は怪我してるんじゃないかしら。向こうの自業自得と言えばそれまでだけど」

 博之は富美恵が肉体的なダメージが無かったことに胸を撫で下ろしたがオートバイの二人組をそのままにしておくわけにも行くまいと考えた。いくら普段から交通量が少ない山道とはいえ、こうしているうちに誰かが来るだろう。現場を見られたら厄介なことになるかも知れないとすぐに行動に移した。車から降りると後部に積んである購入したバットを取り出して肩に担いだ。この行動に富美恵の表情が再び青ざめた。しかし博之は先ほどとは全く違うトーンで富美恵の顔を覗き込みながら微笑んだ。

 「心配しないでください。用心のために持って行くだけです。あいつらが倒れたままなのは演技ではないでしょう。だけど起き上がって反撃されたら僕一人ではこれで応戦するしかありません。それに軽く仕置きするくらいならバチは当たらないと思います」

 博之はツカツカと倒れている二人に近寄ったが立ち上がる気配はない。うめき声をあげながら転がっているところを見るとけっこうなダメージを負ったのは確かだ。バットのグリップエンドでヘルメットを小突いて反応をうかがうと身を硬くするのが感じ取れた。

 「お、おい。やめろ、やめてくれ。それは過剰防衛になるぞ」

 「そんなことは百も承知だよ。お前らの状態を確認しただけだ。このくらいなら打撲程度で済んだかな。立派なメット被ってるから頭は無事だろう。ああ、傷ついてないから頭はぶつけてないか。それよりなぜこんな結果になったか説明しなくても分かるよな。俺としてはこうするより他に方法がなかった。お前らのオモチャ、オートバイもぶっ壊れたようだがこっちもバンパーがボロボロだよ。まあそれはいいとして仕置きだ。尻を向けろ、ケツバットで勘弁してやる」

 博之は軽く素振りをするように二人の尻をパシリと叩くとヒィっという情けない声を発した。

 「俺はこれから国道に向かう。そしたら救急車の手配くらいはしてやるよ。だがお前ら狙ったのが俺で良かったと思うんだな。相手によってはこんなもんじゃ済まなかったかも知れないぜ」

 博之は見下したように言うと急いで車に戻ってエンジンが始動するかどうかキーを回した。追突された影響はないようですんなりと掛かりそのまま国道へ向けて走り出した。富美恵は落ち着きを取り戻していたので博之はあらためて平身低頭して今夜のことを詫びた。

 「そんなに謝らないでください。笹山さんが悪いわけではないのですから。でもあの二人は無事だったんですか」

 「痛がってたけど打撲程度でしょう。国道に出たら公衆電話で救急車を呼びます。ここまで他の車とはすれ違ってませんが後続車がいたなら先を越されるかも知れません。それは避けないと。しかし状況からしてどっちみち警察に連絡が行くでしょうから僕のことは知られます。そうなると富美恵さんにも迷惑が及ぶことになる・・・・・」

 「仕方ありません。連帯責任のようなものです」

 「連帯責任か」

 博之はぼそりと呟くとあとは無言を貫いた。ごちゃごちゃした頭の中を整理してある決意を固めるためだった。

 



 国道に出ると公衆電話はすぐに見つかったので急いで救急車の手配をした。山道を走っている途中で転倒したオートバイが目に入り側に男が二人うずくまっていて軽い怪我をしているようだということと大まかな場所だけ伝えて電話を切った。はからずもついた四度目の嘘だったが車に戻れば五度目の嘘もつかねばならない、そう、先ほどから考えていた決意表明を富美恵にしなければならないのだ。

 「とりあえず救急車は手配しましたけど僕らが絡んだ事故とは言いませんでした。どっちみち他の車両も巻き込んだことは知れますし、あいつらはナンバー見てるはずですから僕はすぐに割り出されます。そうなったとしても回避するためにやむを得なかった事を強調するだけです。それでも僕のやったことは危険行為であるのは否定出来ません。富美恵さんは連帯責任と言ったけどそうじゃない。会うのは今日で最後にしましょう。あとは4月までの間に施津河でたくさんの思い出を刻み込んでそれを新しい生活の糧にしてください。そして今日のことも僕のことも綺麗さっぱり忘れてください」

 淡々と話すつもりだったがそうはいかなかった。急ぐあまり舌がもつれ言い直したり声が上ずったり、時おり鼻もすすった。最後に言ったことは本心でないことが簡単に気取られたであろう。博之は富美恵から何を言われようが言い訳めいた真似はしまいと腹を括った。しかし富美恵は思いがけない言葉を博之へ返した。

 「何もかも勝手に決めないで」

 博之は富美恵が初めて見せる剣幕に思わずたじろいだ。しかしそれに続く言葉からは棘のようなものは抜き取られていた。

 「やり方は違ったと思うけど恭一さんだったらやはり許さずに行動を起こしたと思います。あの人は柔道と空手もやっていて腕っぷしも強かった。今日と同じ状況だったら車から降りてボコボコにしてたかも。普段は温厚なんだけど理不尽なことには烈火の如く怒る人でした。笹山さんも本当はそうなんじゃないんですか。格闘に代わる方法で私を守ってくれたもの。身体に力を入れて踏ん張ってと指示を出した時には覚悟を決めた思いが伝わって来るのを感じた。ただバットを持ち出した時にはちょっと驚いたけど。それで話は変わりますが私はここ1ヶ月くらいあれこれ考えてたんだけどもう迷わないことにしました。施津河での滞在を延ばします。笹山さん言ってましたよね。3年くらいのスパンで取り組むのもいいんじゃないかって、だったら施津河での暮らしを1年で区切る必要はないんです。このままでは4月から東京に戻ったところでまだリセットは無理な気がするし実家に帰るのは論外。それならば延長しても構わないんじゃないかと結論を出しました。晋作さんも直接口には出さないけど、まだ居てもいいんだぞみたいなニュアンスを言葉の中に感じることがあるんです。だから会うのは止めようなんて言わないでください。嫌だったら今までこうして会ってません」

 「富美恵さん・・・・・」

 「うん、笹山さんと会えなくなることもちょっとだけ寂しくなる、うん本当にちょっとだけなんだけどそれも滞在延長の理由の一つなんです」

 博之は面喰らうという言葉以外に思いつくものがなかった。まさか富美恵の方から4月以降も施津河に残ると言い出すことは考えててもいなかった。

 (ちょっとだけ寂しくなるなんて言われたらどう返したらいいんだよ。俺はちょっとだけじゃなくて太平洋がすっぽり入っちまうくらいなんだが)

 博之は小躍りしたい気持ちに駆られた。だがここで調子に乗って浮わついたことを言えば全てがぶち壊しになる。何しろ窮地とはいえあれだけ派手なことをやらかしたばかりだ。富美恵の言ったことはその嫌な余韻から逃れたいがために思わず出た台詞かも知れない。博之は車から降りて自販機から温かい飲み物を買って富美恵に一本手渡した。緊張感が切れたとたんに喉の渇きにも襲われていた。

 「本来なら今、富美恵さんが言ったことは僕が言わなければならないことでしたが言い出せないうちにあんなことに巻き込まれてしまいました。後出しのようで卑怯だと思われるのは覚悟して言います。富美恵さん、僕からもお願いします。どうか4月以降も施津河に残ってください」

 富美恵の顔色は普段通りに戻っていた。それで博之は嘘をついたことに対しての後ろめたさをどうにか消すことが出来た。相変わらず空には何事もなかったかのように星が瞬いている。博之はいつか富美恵に思いのたけを打ち明け、願わくばそれが良い形で成就出来ればと星に祈りながらハンドルを握った。




 「よお、退屈だろ。これでは軟禁と同じだもんな。しかし会社をクビにならなくて良かったよ。それが一番心配だった」

 事故から数日後の夜のことである。仕事帰りに佐久間が博之を案じて部屋を訪ねて来た。オートバイの二人組は救急車で搬送されたが怪我は双方とも胸部打撲と手足の捻挫でいずれも重傷ではなかったが、詳細はすぐに警察の知るところとなり博之はほどなく事情聴取を受けることとなったが隠し立てすることなくありのままを話し、救急車の手配も迅速に行ったことと相手が一方的に絡んだことによるやむを得ない手段であるとして厳重注意のみでおとがめなしということになったのだが、会社としては警察沙汰を起こす結果に至った事を重く受け止め1週間の出勤停止及び自宅謹慎を博之に命じたのである。

「本当に参りました。パチンコに行くわけにもいかないし外出するのは食糧の買い出しくらいですから、まあ反省文を書いて提出しないといけないんでそれでどうにか時間潰しになってます。しかし例の二人組、強姦が二件、カツアゲが三件の余罪があったとか。そんなヤツらに狙われたかと思うと今更ながらゾッとします。平野からパーキングブレーキを使ってわざと追突させるやり方を教わってなかったら餌食にされていたでしょう」

「だが、お前は車にバットを積んでいたんだろう。それで抵抗していたんじゃないのか。もしそんな展開になってたらやっぱり魚紳さんだぜ。石鯛釣り編で昼間、魚紳さんに面目をつぶされたチンピラ達がサングラスを直しに行った魚紳さんを夜道で待ち伏せしていたシーンがあっただろう。あの場面で魚紳さんは釣竿を武器に得意のフェンシングで戦い返り討ちにしたが釣竿だったからチンピラ達の痛手はそれほどでもなかった。だがバットの破壊力は釣竿どころじゃない、しかも野球経験者のお前が本気でぶっ叩いていたら反省文提出どころではなかったかもな」

「そうかも知れません。やるかやられるかどっちかだったでしょう。とても魚紳さんのように颯爽とかっこよく仕留めるなんて無理でした。ただですね今回の一件で富美恵さんとの距離がかなり縮まりましたよ。4月以降も施津河に残ってくれると言ってました」

「こんな時におめでたいこと言うヤツだな。そりゃ嬉しい気持ちは分かるが二人の好意には温度差があるんだろう。富美恵さんの滞在延長の理由だって心の整理がつかないからってことらしいじゃないか」

反論したいことは山ほどあるが博之は佐久間の話に黙ってうなずいた。どんな理屈をあてがったところで自分と富美恵はお互いのパートナーを亡くしたということで繋がっているに過ぎないのは認めるしかない。それを同志と表現するならば同士というもっと軽い言い方のフランクな関係に変われるチャンスも訪れたのだと博之は思いたかった。

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