消えた画家の妻
「山辺、細谷の居場所を調べ回っていた男の似顔絵を見せてくれよ」
城戸は、黒革の手帳を、他の証拠品のもとに戻して、山辺に言った。
「あ、そうだったな。忘れてたよ」
そう言いながら、山辺は、捜査本部にあるホワイトボードの側まで歩いた。それには、事件の概要がまとめられている。
山辺は、そんなホワイトボードから、磁石で張り付けられた一枚の紙を取り外していた。
城戸は、その紙を遠目ではあるが、じっと見ていた。その紙に描かれている似顔絵の男に、城戸は、見覚えがあった。
「この男だよ」
山辺に渡された紙を見て、城戸は、直ぐに似顔絵の男とは、田島の事であるとわかった。
「警部、これは田島ですよ」
門川も、すぐに気付いたらしく、見た瞬間に声を張り上げた。
「おい、田島って、城戸が言っていた田島の事か?」
山辺も、声を張り上げて、城戸に訊いた。
「ああ、そうだよ。これは、間違いなく資産家の田島だ。さっきも言った様に、『肥後の鶴』という絵を細谷から買い取った人間だ」
城戸は、至って冷静な様子で言った。
「なあ、山辺。この男が、細谷の事を調べていたのは、事件前日で間違いないな?」
次に、彼は、念を押すように山辺に訊いた。
「ああ、間違いないよ」
「警部、つまり田島は、事件前日に姿を消した際、熊本の阿蘇へ向かったんですね」
門川が、目を鋭くしていった。
「ああ、そういう事だよ」
「それにしても、何故田島は、細谷の居場所を調べ回ったんでしょう?」
門川は、落ち着いた口調で言った。彼は、冷静さを取り戻した様だ。
「やはり、今回の事件は、田島と細谷の仲間割れかもしれん」
城戸が、そう答えると、山辺が、興味津々の様子で、
「どういう事なんだ?」
と、言った。
「まず、細谷は、五か月前の田島との取引の事で、何者かに阿蘇まで呼び出されたんだ。恐らく、呼び出した人間は、五か月前に行われた、『肥後の鶴』の秘密の取引のことを知っていて、その真偽を確かめるつもりだったのだろう。それを察知した田島は、『肥後の鶴』の裏取引の発覚を恐れた。細谷が、熊本の阿蘇に呼び出されたらしいという曖昧な情報を手に入れ、田島は、突如として姿を消して阿蘇へ向かった。それは、恐らく細谷の口封じを図るためだろう。その為に、阿蘇で細谷の居場所を突き止めるべく、ホテルや旅館で訊き回ったんだ」
「宿泊先を突き止めた田島は、ずっと見張ってんだろうな」
山辺が、城戸の推理に補足をした。
「ああ、そうだろうな。その翌日の午前一時、田島は、ホテルを出て草千里へと向かう細谷を尾行したんだ。そして、細谷を呼び出した人間が現れる前に、口封じを図ったんだ」
「という事は、その細谷を呼び出した人間は、死体を見ているんでしょうね?」
門川が、顎に手を当てて、城戸に訊いた。
「ああ、見ているだろうね。だが、どうやら警察には通報していないようだ。怖くなって逃げたか、関わり合いになるのを避けたんだ」
城戸は、自信に満ちた口調でそう答えた。すると、彼の目が鋭くなる。
「今、五か月前の裏取引の発覚を恐れて、田島は細谷を殺したと言ったんだがね、発覚を恐れていたことは、他の事かもしれないよ」
「何なんだ?」
山辺が、興味を持った様子で、城戸に言った。
「これは、『肥後の鶴』の作者である天野の死が、殺人であった場合の仮定なんだが、田島は、天野を殺害したことが、細谷から発覚する事を恐れていたのではないかな」
「確かに、絵画の裏取引より、殺人の方が重罪だからな。そっちの発覚の方が、田島にとって不利だな」
田島は、肯きながら言った。すると、門川が、
「四ヶ月前に天野が殺害されたのは、田島と細谷による『肥後の鶴』の裏取引に気付いたからですよね?」
と、確かめるように訊いた。
「ああ、そうだよ。しかし、天野の口封じに関してもバレてしまい、細谷は阿蘇に呼ばれたんだ」
突然、山辺が表情を険しくした。
「すると、城戸。天野の事件について知った人間というのは、阿蘇の人間なのか?東京の人間なら、何故わざわざ阿蘇まで呼び出したのか、という話になるが―――」
城戸も、表情を険しくした。
「そこらへんは、調べてみないとな。まず、天野の死が事故だったら、今の推理は水の泡だ。だから、天野について調べてみたいんだ。今も冴子という妻は生きているようだから、自宅へ行って、天野が事故で無くなったという現場も見てみたい」
「それと、田島の行方も調べないとな」
城戸が肯くと、山辺は、近くでやり取りを聞いていた部下の井原に、田島を手配して、全力で捜索するように指示をした。
そして、もう一人の部下に、天野という画家の自宅がどこにあるのかを調べさせた。指示を受けた部下は、コンピュータに向かって座り、操作していた。
城戸は、それを見て、山辺も自分と同じようにコンピュータには疎いのか、と心の中で微笑した。
山辺が、調べ終わった部下の刑事から天野の住所を聞くと、
「城戸、早速天野の自宅へ向かおうか。天野の家は、高森町にあるそうだ」
と、城戸に言った。
高森町への道中、覆面パトカーの中で、城戸と山辺は後部座席に座った。
「城戸、今思い出したんだが、自分の部下が、田島と思われる細谷の居場所を調べていた人間には、連れが居たという証言があったよ」
山辺が、突然声を出した。
「一体、どんな連れなんだ?」
「それが、目撃者は、顔を見ていないと言っているから、どんな人間かわからないんだ。それで、その連れの人間は、田島の運転手をしていたようなんだ。目撃者が言うには、田島は、黒のレクサスで来たそうなんだ。その時、田島は助手席に乗っていて、運転席に人影を見たそうだ」
「その、黒のレクサスというのは?」
「レンタカーだ。それで、阿蘇のレンタカー屋を調べると、その似顔絵の男、つまり田島が黒のレクサスを借りていることが分かった」
「連れは一切姿を見せてないのか」
城戸は、悔しそうに言った。
阿蘇市から高森町へは、国道二六五号線で、阿蘇五岳の東側を迂回する。
南阿蘇鉄道の高森駅の前に広がる住宅地の中に、天野の自宅はある。
白壁に、黒い瓦を被った、こじんまりとした平屋建ての建物に、天野と書かれた表札があった。
覆面パトカーを路肩に止めて、その天野の自宅の玄関へと向かった。
山辺が、引き戸の横にあるインターホンを押した。しかし、返事がない。
二回、三回と何度も押すが、無反応に変わりはなかった。
山辺は、引き戸の磨りガラスを通して中を覗こうと、目を凝らしていたが、やはり中の様子はわからない。諦めて、玄関から建物のすぐ横を覗き込んで、黒い軽自動車が駐まっているのを見ると、
「おかしいな、車はあるのにな」
と、溜息をついた。
それでも、山辺は、未練がある様子で、引き戸の取っ手に手を掛けた。どうせ、鍵がかかっていると思い、力を入れて引き戸を開けようとした。
すると、引き戸は、大きな音を立てて開き、まさに暖簾に腕押しだった。
山辺は、興奮した口調で、
「おい、鍵が開いたままじゃないか」
と、言った。
「天野さん、いらっしゃらないんですか?」
建物の中へ大声で叫ぶものの、返事はいつまで経っても返ってこない。繰り返しても、結果は同じだった。
「あら、冴子さんがどうかしたの?」
遠くで、そんな声がしたので、道路の方を見てみると、曲がった腰に手を当てる老婆の姿があった。
その老婆の元へ、城戸が歩いて行った。
「お騒がせして申し訳ありません。我々は、警察の者ですが―――」
彼が身分を明かすと、微笑んでいた老婆の表情が固くなった。城戸は、それに構わず質問をした。
「天野冴子さんは、どこかにお出かけなさっているのですか?」
「それがね、冴子さんを最近見かけなくてね。私も、このあたりの人も心配していたんですよ」
「見かけなくなったのは、いつからですか?」
「私はね、毎朝同じ時間にこの道を散歩の途中で歩くんだけどね、その時、毎朝決まって玄関前を箒で掃く冴子さんに会うんですよ。ただ、四日の朝を最後に、見掛けなくなったんですよ」
「天野さんが、何日も家を空けるのは珍しいことですか?」
「珍しいって、そりゃあ冴子さんだって旅行の時ぐらい家は空けますよ」
老婆は、笑いながら言った。
「では、天野さんは、今もどこかに旅行中ですか?」
すると、老婆は、険しい表情に一変した。
「それがね、旅行でもないみたいなのよ。旅行に出る時は、隣に住んでるお婆さんに一言言ってから家を出るんですよ。それで、隣のお婆さんと私は友達だから、冴子さんはどうしたのと聞いてみたの。でも、そのお友達もわからないって言ってて、おかしいのよ」
老婆は、天野の事をひどく心配している様子だった。
「天野さんと、親しい方をご存じではありませんか?」
「親しい人?それなら、渡辺さんがいるわよ。阿蘇で、貸し別荘を経営している方なの」
木造の古めかしい家を指差しながら、老婆は言った。
城戸は、その老婆に礼を言って、背中を向けた。
「山辺、天野冴子は、どうやら四日から姿を消しているようだ。本人との接触は諦めて、冴子と親しいという人間に話を聞きに行こうじゃないか」
城戸に言われた山辺は、
「それなら、仕方ないな」
と、城戸の背中を追って、冴子と仲が良いという、渡辺の自宅へと向かった。