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騎士様たちが呼びに行ってくださる間に、目を瞑って、これからやってくる幼馴染の姿を瞼の裏に浮かべる。
喜んだ顔、泣いた顔、不機嫌な顔、たまに怒った顔。照れた顔、悲しんだ顔、悔しそうな顔、甘えた顔。
その中でも一番多かったのは、笑っている顔だ。
彼はいつもどんなに大変な時でも、私の隣にいるときは機嫌よくにこにこと笑っていた。
意外と器用で何でもできて、あれだけ綺麗な顔をしているのに、ちっとも優秀で素敵な男の子に見えないのは、あのへらへらとした気の抜ける笑顔のせいだと思う。
そんな、私という例外を除いて何事にも頓着しない彼の絶対の習慣は、私に「好き」を一日最低三回は言うことだと言っていた。
「そうしないとライラは俺のことすぐ放っておくでしょ」と言いながら、じゃれついて、抱きついて、隙あらばキスの嵐を降らそうとする。
欲求に素直で、悪く言えば堪え性がない。
もう何年前だったかな。
大きくなってそれをやるのは、変態か恋人だけなのだと諭したら、「え?ライラは俺の恋人でしょ?」とさも当然のように言ってきたから、「隣の家で過ごしてきたからずっと姉弟みたいに思っていた」と正直に答えれば、その日はショックでご飯も抜かして森に籠ってしまったっけ。
怒っても邪険にしても全然へこたれなくて、こちらが諦めてしまったことなんて数えきれないくらいあった。
周りからどんなに揶揄されようと、全然気にせず我が道――主に私の隣で忠犬どころか駄犬になるという意味だけど――を突き進んでいた彼。
今も昔も彼はあまり変わっていない。だから彼はずっとそういう――幼いままなのだと思っていた。
けれど違う、きっと彼は本当はずっと苦しい思いもしていて、それを私に隠していただけ。
馬鹿ね、苦しい時くらい私に頼ればよかったのに。
そんな時のための幼馴染なのだから。
そして、私はあなたの恋人なのよ?
あなた一人で苦しませることを「はいはいそうですね」って見過ごせると思っているの?
鬱陶しくて、暑苦しい。
両腕に抱えきれないほどのいっぱいの愛情を注いでくれてありがとう。
あなたのことが好き。
好きなんて言葉じゃ表せないくらい愛しているわ。
だから私も、覚悟はできたの。
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少し離れたところから王城の広間に向けて数人が移動してくる物音が聞こえて目を開けたとき、私の中に迷いはなかった。
騎士様たちに挟まれて連れられる彼は、つい半年前に会ったときよりも痩せ細っていた。金色の髪は心なしくすんでいるように見えるし、なにより溌剌とした様子がない。
あれほど無駄に、お日様のように輝いていた瞳は濁り、何を映すでもなく虚空を見つめている。
心が死んだって、きっとこんな感じなんじゃないかと思わせる様子の彼は、どうやら久しぶりに部屋の外に出るらしい。窓際から漏れる日差しに一度目を眇め、殿下の前でおざなりな礼をしてから、声を発するのも面倒そうに尋ねる。
「お久しぶりですね、王女殿下。俺に何の用でしょう?そろそろここから出ていけと仰るなら今すぐにでも出るつもりですよ」
「何を言っているんだ、カイリー。そのことなら何度も言っただろう?君はこの国を救った勇者として一生称えられる存在で、王城にいつまでもいる資格があると」
「称えられる勇者、ねぇ。……そんなもの俺にはどうだっていいんですよ。もう俺には――」
「そうかい?彼女が来てくれたのに?」
「……彼女?」
気だるそうだったカイリーの耳がピクリと動く。それから徐に顔を上げ、何か匂いを探るように鼻をこちらに向け、逆光で隠れる私の方に目を向け、その空色の瞳をこれ以上ないくらい見開いた。
「…………ライラ……?……ライラ、ライラ!そんなまさか……!」
バルコニーから部屋の中に一歩踏み出した私に、騎士様たちに支えられた体を振り切るようにして目の前まで来たカイリーが前かがみになって身を乗り出す。
そして顔を上げて手を伸ばして私に触れようとして、今度こそ愕然として動きを止めた。
「あなたの呪いを解きに来たの。あなたのメモを見て、何かあったに違いないって思ってここまで来たの」
「そ、その髪は――」
「髪、切っちゃった。ごめんね?」
伸ばそうとしてから躊躇って宙を彷徨うカイリーの手を自分から掴んで、自分の頬に寄せる。怯えたように引こうとする手の動きを知りながらわざと無視して、両手で包んで頬に擦りつける。
「会いたかった……会いたかったわ、カイリー」
骨ばっていて、記憶よりももう少し大きくなった愛しい人の手は、私を殴ったり突き飛ばしたりしなかった。
「俺――――っ、お前の顔なんか、一生見たくないって言っただろ」
その言葉はまだ変わらない。
けれど、顔は苦し気に、動けないところでもがく様に形のいい眉が下がっている。
「大体なに?そのみすぼらしい髪は。娼婦にでもなるの?そんな女、俺は願い下げ――」
「じゃあ、今度は私があなたを追いかけようかな。私はあなたが大好きだし、これからあなた以外の人を好きになることも出来そうにないから」
目を見開く彼に、にこりと笑って、伸び上って唇を重ねる。
ほんの短い間の重なりを終えて離れ、少しだけ意地悪っぽく笑うと、カイリーの目にみるみるうちに涙が溜まった。
「……そんな頭のやつにキスされたなんて俺の汚点だ」
「なら何度だって私で汚してあげる。そういうこと言う口は私が塞いじゃうんだから」
透明な涙と罵倒を零す彼をそっと抱きしめる。
「安心して?カイリー。あなたはもう呪いをかけられたことを人に言えるし、私が触れても、私を殴ったり、突き飛ばしたりしない。顔だって分かりやすいのよ?だってカイリーの顔は犬の尻尾みたいに素直なんだもの」
「……でも俺はもうライラに――っ、ライラに――っ、……言えない、何も言えない!」
「それももう平気になるわ」
「……え?」
例え私の気持ちが奪われたとしても、例えあなたのことが分からなくなっても、あなたはそんなことでは諦めないでしょう?
だってあなたは信じられないくらいしつこくて、鬱陶しくて、自分以外の人に私が構うのを嫌うんだから。
そんなあなたに、私はきっと辟易して、邪険にして。
そしてきっとまた恋をする。
「今度は私の番だから」
耳元で囁いてから、とん、と彼の胸を押して距離を取って一度満面の笑顔で彼を見た。
「愛してるわ、カイリー」
それから身を翻すと脱兎のごとくバルコニーに向かった。正確には、バルコニーに置いてある大釜に向かって全力で走る。
私の意図に気付いたのだろう、占い師様の「いかん!お嬢ちゃんを止めろ!」という声を後ろに、もう遅いのよと内心ほほ笑む。
窯に手を差し入れ不気味な緑色の液体を掬い、口の中に流し込む。
そこまではよかった。
けれど、強烈な苦みとえぐみに喉の奥が反射的に拒絶して飲み下せない。
手で口を押さえて、飲み下そうとしたその瞬間、腕を引っ張られ、お腹に硬いものが当たって鈍い痛みが走る。
「ライラは信じられない大馬鹿女だ」
みぞおちに軽い一発を食らっただけでそれが喉奥から手前に戻り、それを押さえようとした手を掴まれたその瞬間、ふわりと金色の前髪がおでこに触れた。
さっきとは比べ物にならないくらい強く唇が押し付けられ、こじ開けられ、腔内の液体が奪われる。
空気を求めて口を離した私の目の前で、幼馴染がバルコニーの床に崩れ落ちた。
次話が最終話です。今日の午後のいつかにはあげられます。多分。