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占い師様に手を引かれ、騎士様や侍女のみなさんの目を惹きながら、日の当たるバルコニーに置かれた大鍋の前まで歩み出る。
この場の景色に不釣り合いな大鍋の中には、長いこと流れの止まった澱みのように濃い緑色の液体が張っていた。その濁りと匂いに反射的に身構えると、占い師様が意地悪く、ひっひと笑う。
「お前さんがさっき、あの場で勇者の坊主への気持ちを捧げると言ったらこれを飲ませるつもりだったよ」
「これは、飲めるものなのですか!?」
「飲んでも死にゃしない。お勧めはしないがね。……これを飲んだら、本当にお前さんの心の中にある勇者の坊主への気持ちが吸い取られていただろうね」
この液体はやっぱり占い師様の作った不可思議な力のある得体のしれないものなのね。
冗談でも嫌な想像に身震いすると、占い師様の方は「まぁその前にここまで来させやせんがね」と呟く。
「来させない……?」
「簡単に捨てられるような気持ちほど軽いものはないよ。迷い悩んで苦しむ間に愛情は熟成される。それも分からずにほいほい気持ちを投げる娘っ子なんざここまで連れて来る価値もないんだよ……さ、そこに立って、中に両手を浸けるんだ」
占い師様の見守る中、窯の前に立ち緑色の液体に向けて両手を押し出す。
液体のように見えたそれは、先ほどまで煮立っていたのが嘘のように生ぬるく、そして液体というよりもぶにゃりと柔らかい塊だった。
「占い師様、これは一体――」
振り向きかけて、周りに誰もいないことに気が付く。
それどころか、周りの風景すら変わっていた。
鬱蒼と生い茂る森をかき分け、ようやく日の当たる場所に着いたところにある集落。遠くからあちらこちらに覗く背の低い木造の建物は、害獣避けの高い石柵のせいで屋根くらいしか見えない。
閉鎖的だと一目で分かる場所。それなのに、とても見慣れた安心できる風景――毎日過ごしてきた村の入り口の光景だ。
「私、なんでここにいるのかしら?」
首を傾げた時、目の前を金髪の背の高い青年が通った。
顔は緊張か不安かで強張り、美しい容姿がより人外じみて見える、見慣れた横顔よりも少しだけ大人になった精悍な顔。
「カイリー!」
今一番会いたくてたまらない幼馴染に向けて思わず手を伸ばすが、触れられない。
カイリーもその場にいる私に気づいていないかのように素通りする。
「カイリー、待って!」
追いかけて足を踏み出すも、地面のしっかりとした感触はなく、木に括ったハンモックで揺られているような不安定な感触しかない。
そのあたりでようやく分かってきた。
これは、きっと現実じゃない。
そう思ってゆっくりその感触に慣らすように足を動かした。きっと足を動かさなくてもいいのだろうけれど、歩いて追いかける方が落ち着く。
そうしていると自然とカイリーの背中に追いつき、おばさんに抱きつかれている姿が目に入った。
これがもし、カイリーの記憶……いえ、私の髪に宿っていたあの時の記憶なのだとしたら、きっと、と思っていたところで予想通り、人ごみをかき分けて、一人の少女が飛び出て来る。
亜麻色の長い髪を一つに結んで、白い頬を紅潮させ、名前の由来になったライラック色の瞳を期待と幸せに輝かせた若い女――そう、私だ。
自分を客観的に見るのは嫌なものね、なんて冷静に見ていたら、突如として胸の奥がわくわくと高揚し、甘酸っぱい気持ちが広がった。
自分の気持ちの急激な変化についていけずに一瞬くらりと気持ち悪くなるのをなんとか堪え、自分を見て喜ぶ特殊な性癖はないはずだと様子を窺い、ようやく、それが、カイリーの気持ちそのものだということに気付いた。
否応なしに胸が高揚し、泣き出したくなるほど興奮して、甘く胸の奥が疼く。
しかし、そんな胸の内を裏切るように、カイリーの顔が不快気に歪み、口が動く。
言われた言葉は、記憶の中には残っているが、今ここでは聞こえない。
聞こえて来るのは、カイリーの胸の中にある本当の言葉だ。
(ライラ!帰ってきたよ!その可愛い声で俺を呼んで!何度でも呼んで!)
瞬時に自分の吐いた暴言に生じる凄まじい自己嫌悪感と、目の前の愛しい少女を傷つけたことへの絶望、そして手を伸ばしたいのに伸ばせないことへのもどかしさ。
(行かないで、ライラ、待って!違うんだ!)
走り去っていく背中をただ見送るだけ。言いたい言葉は一向に外に出ずに内にこもって音として響き渡る。
自分の父親に糾弾され、殴り飛ばされた痛みよりも、ただただ自分の手で最も大事なものを傷つけたこと、魔女の予言通りになっていることに絶望した。
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それから二週間分を早回しで観ていくように、目まぐるしく周囲の光景が移っていった。
それなのに、私自身の記憶と照らし合わせて時間が進んでいるのが辛うじて分かる、というくらい、カイリーの視界は変わらなかった。
視線の先には、いつも長い髪を一つに結んだ少女がいる。
目にその姿を映しては恋い焦がれ、同時に思ってもいない言葉が出ることの悔しさに胸をかきむしられ、乱暴にしては自分の行動に嘆く。
(泣き顔でも怒り顔でも可愛いよ!何言ってんだよ俺、ライラはどんな人より可愛いのに!)
(ライラ以上に興奮する体なんてないよ!いつも理性が焼き切れないか不安で仕方ないんだ。それくらい近づいて、また触れたいんだ)
(触りたい触りたい触りたい)
(臭い?なにそれ!ライラの汗の匂いなんて嗅いだら俺……)
(ライラ、ごめん!一番好きな果物を食べさせてあげたかっただけなのに……俺は……!)
(何度でも名前を呼びたい、ライラ、ライラ、ライラ!)
(うるさいなぁって邪魔そうに、でも仕方なく俺のこと見る可愛いライラ。こっちを向いて)
(ライラ、俺に好きだって言って。またその可愛い声で俺を呼んで)
(思い上がりどころか、俺がライラのことを愛していることは絶対だ)
(ライラが望むことはなんでもするから!足舐めるでも尻に引かれるでもなんでもしたいと思ってるから)
(報いじゃないんだ、これは呪いなんだ、俺への呪いなんだ、気づいてライラ!)
くっつき虫のように私に付きまとっていたのだもの。彼の本音が、記憶にある彼の言葉なのか、それとも今ここで聞こえている言葉なのかくらい、直ぐに分かる。
これは紛れもないカイリーの本音。
どこまでも馬鹿で、執着じみていて、変態だと言われて邪険にされてもそれでもどこか純粋に私を追い求めてくれる幼馴染がそこに確かにいる。
(違う!全然違う!嫌いなもんか、誰よりも好きだ、愛してる)
(どうしてその当たり前の一言が言えないんだ、これまで息を吸うように言って来たのに!どうして今ここにいるのに手を伸ばせないんだ!)
(なんで伝えられない!こんなに、こんなに好きなのに)
(もう傷つけたくない。ライラ、俺に近寄っちゃだめだ。君を言葉でも、体でも傷つけてしまう。こっちに来ないで……)
邪険に腕を振り払われ、暴言を吐かれる理由が分からず、不信と悲しみを募らせた目の前の「私」の目を見るたびに心の奥が割れるように痛む。
仲の良かった友達にも「最低だ」と罵られ、可愛がってもらった村人たちに白い目で見られ、私の両親からは深い怒りを向けられ、自分の両親から「何があったの」「違うよな、何かの間違いだろう?お前がライラちゃんを嫌いになるなんて」と詰め寄られても、一言も説明できない無力感に苛まれる。
好きだと思うたびに出そうになる、嫌悪を示す言葉だけは、唇から血が出るほど強く歯を噛んでやり過ごす。
ギリギリと奥歯が鳴り、固めた拳は、握りすぎて伸びた爪で抉れて血が出た。
カイリーは、私が気づく可能性に賭けて村にやってきて二週間、その苦行に耐え続けた。
そんな悪夢にも思われる苦しみの中で、彼が耐え続けた理由はたった一つだった。
(ライラの傍にいたい。近づけないのなら、この視界に入れられればもうそれでいい)
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そんな想いで堪え続けて、あの日。
私がセナードに説得され、それを断ったあの日。
「どうしてもカイリーが好きなの」
「今はまだカイリーのことを信じたい」
物陰に潜んだカイリーの膝が、胸が、心が震えた。
そして同時に、もうここにいちゃいけないと思った。
(もう、俺のこれは治らない。なのにライラは信じてくれようとしている)
(このままだとライラが新しい人生を歩めなくなる)
(あぁライラ。俺も好きだよ。十七年、ずっと一緒にいたんだ。ここ二年いられなかったのは人生の損だと思ってる)
カイリ―が林の中に入って、毎日私のためにせっせと摘みためた木苺と集めた花を見やる。そして、ここに来るまででぐしゃぐしゃになってしまった紙を取り出し、なるべく平らなところに置いて、木炭を持った右手を左手で固定し、動かす。
見えない力と戦い、せめぎ合い、汗をかきながら。
私の言った「好き」の声だけを何度も何度も耳の奥で繰り返して。
一番伝えたかった言葉を、自分の字とは思えないくらいの汚さになったけれど、どうにか書きつけると、書いた紙を破ってしまわないようにすぐに籠の奥の方に突っ込み、自分から遠ざける。
(ライラ。俺の愛しい人)
(誰よりも、俺の手で、君を幸せにしてあげたかった)
(ふがいなくて、ごめん)
(ライラ、愛してる)
「お嬢ちゃん」
いつの間にか、目に写る風景は元のバルコニーに戻っていた。
とめどなく流れていく涙で視界がぼやけ、占い師様の落ち着いた声でようやくその事実に気が付く。
「聞こえたかい?」
声すら出せずに、ただ大きく頷く。
熱い涙が返事代わりに上から下へと流れては絨毯を濃く染めていく。
カイリーが私と目を合わせなかったのは、私に何か暴言を吐いてしまうのを防ぐため。
私を避けるのは、不用意に触れようとする私を突き飛ばしてしまうのを防ぐため。
何も言わずに後ろに立っていたのは――――彼が唯一私を害さずに傍にいるための方法だった。
彼がくれた溢れんばかりの愛情を――今度は私が示したい。
「う、占い師、様」
「……なんだい?」
上ずってなかなか出せない声のまま占い師様を呼べば、落ち着いた声音が返ってくる。泣き声にならないように一度、ぐ、と喉の奥で嗚咽を殺してから言った。
「カイリーに、会わせてください」