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「なぁライラ、もう諦めろよ」
二週間が経った時に、外のいい日差しの中で縫物をしていた私にそう声をかけてきたのは、村長の家の息子のセナードだった。
と言っても、これはセナードだけに言われた言葉ではない。
バレッタや他の村人たちはもう散々言われたことだし、両親ですら最近ではカイリーの名を聞くだけで顔をしかめる。カイリーの両親は息子を信じたい気持ちと、私への申し訳なさとで板挟みらしく、髪がところどころ白くなってしまった。
「諦めるってなにを?」
「カイリーが元通りになるってこと。もう二週間だぜ?戻らねぇよ」
「……戻るもなにも、何があったか分からないじゃない」
「でも何かあったら言うはずだ。それを何も言わねぇってことが何よりの証だろ?」
確かに、もし本意でないなら、「実はこういうことが」と説明してくれたっていいはずなのに、カイリーは誰にも何も言っていない。
今の彼の態度が、二年経って彼の私への気持ちが完全に変わってしまったことを意味するのなら、私は一体どうすればいいのかしら。
黙り込んで、縫物を続ける私の視界に、セナードの鳶色の瞳が映る。
「カイリーとの婚約、解消した方がライラのためだって」
「心配してくれてありがとう。でもどうするかは自分で決めるよ」
「このまま『あの』カイリーに無駄な望みを託していて幸せになれるとでも思ってるのかよ!」
「私の幸せなんて誰に決められることでもないわ!」
つい語調を荒げてしまい、すぐにごめん、と付け足す。
心配してくれている友達に当たってどうするんだ、私。
どうしようもなく荒れる内心を抑えるために、大きくため息をついた私の手をセナードが取った。
「ライラ。……今までライラが幸せそうだったから言わなかったけど、俺、ライラのことが好きなんだ」
「え……?」
「これまではカイリーが誰よりもライラのこと幸せにできると思ってたし、実際ライラもそう思ってただろ?でももう違う。……だからさ、俺のことも考えてくれない?」
突然の告白に目を丸くするしかない。
これはセナードに口説かれているということになるのかな。
でもセナード、そんな素振り一度だって見せて――あ、そういえば、セナードは私に気があるとかなんとか言ってたっけ。だから目を離せないとか、王都に行きたくないとか。
「俺のライラに関する鼻を馬鹿にしないで」
そう言って頬をぷくりと膨らませてむくれる彼の顔がはっきりと思い出せる。
あぁ、だめだ。私、どう頑張っても、何をしてても、彼のことしか考えてない。
あの時彼が何をした、どういう顔をしてた、どう思ってた……そんなどうでもいいようなことばっかり頭の中に浮かんで消える。
目の奥がじんと熱くなって、編んでいた布にぱたりと水滴が落ちた。
「……ありがとう、でもごめん、セナード。それは私には受けられない」
「ライラ……」
「私、どうしても。どうしてもカイリーが好きなの。その気持ちのまま流されちゃダメだと思う」
「その気持ちが強いのは知ってる。でも切り替えようって気すら起こらない?今の状態見てたら、誰もライラのこと、責めないぜ?……きっと、カイリー自身も」
落ち着いて尋ねてくれる声が優しい。この声に身を委ねられたらどんなに楽だろうと思いながら、手に乗せられたセナードの手をそっと片手で外す。
「うん。ただ私が嫌なだけなんだ。なんだかんだ生まれて十五年の付き合いだし、その期間ほぼずっとへばりつかれていたんだもの。たった二週間邪険にされたくらいで簡単には切り替えられない。粘着質な幼馴染のしつこいほどの愛情表現がね、私の心にも体にもへばりついてる。私も厄介なやつに憑りつかれたんだと思うわ。……だから、ごめんね、セナード。私、今はまだカイリーのことを信じたい」
「……そ、っか……」
取られていた手から、男の子の骨ばった手がゆっくりと離れていく。前かがみ気味だったセナードが落胆を滲ませた声で俯いたとき、セナードの後ろの物陰からがたり、と派手な物音がした。
はっとして顔を上げると、そこには唇を戦慄かせた幼馴染が立っていた。
こちらに歩み寄ろうとしたのか、向けられた足が何か見えない力に引き止められるように不自然に止まり、代わりに、苦し気に眉根を寄せたカイリーの口が音も出さずに動くのが見えた。
「カイリー!」
踵を返して走っていく幼馴染を感情のままに追いかけようとして、けれどたった今セナードに告白され、振ったところであることを思い出し、立ち上がったままその場で固まれば、行ってきなよと小さな声がした。
「ありがとう、セナード」
「……惚れてくれてもいいんだぜ?」
「……ばか」
顔を伏せて見えないようにしたまま、けれど確かな力で背中を押し出してくれる大切な友達がそこにいてくれた。
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カイリーが逃げた方向に行っても見慣れた後ろ姿はどこにもない。
それでも私には彼がどこにいるのか分かる気がして、迷わずに林の中を進む。
彼はさっき言ったのだ、『いまなら』と。
声は出ていなかったけれど、それでも確かにそう話していた。
きっと彼には何かあるのだ。
草をかき分け、林の中を歩み進んで、木苺の群生するあたりにつくと、案の定、そこに彼がいた。木苺の詰まった籠を前にしてこちらに背を向けた彼は、集めたらしい花を前に地面に蹲っていた。
金色の髪の妖精のようだった昔ならいざ知らず、大きく勇ましくなった体と勇者という称号におよそ似つかわしくないその姿は、どうしてだか、昔、あまりにもしつこくされて鬱陶しいと怒鳴った時に、「ごめん、ごめんライラ。お願い!嫌いにならないで!」と泣いて謝っていた姿と被る。
「カイリー」
「!」
呼びかけると、カイリーは立ちあがって籠と花と私の傍から猛然と離れた。そして、十分距離を取ったところで背中を向けたまま、「なんだよ」と堅い声でぶっきらぼうな返事をする。
「なに?何でも訊いて?俺の可愛いライラ」と甘ったるく呼ぶ稚き日の高い声が、耳の中にかき消える。
「この二年の間に何があったのか教えてほしいの。カイリーが何の理由もなくこんなことするとは思えない。なにか事情があるんだと思う。王様に脅されたの?お姫様に求婚されたの?それとも――他に好きな人ができて私のこと、嫌いになっちゃったの?」
「ち――――っ」
勢いよく振り返ったカイリーは、けれどそれを否定する言葉を発することなく私からすぐに目を逸らした。返事の代わりとばかりに違うことを話しだす。
「……俺、今日、村出るから。王都に行く」
「え……?」
「あっちの方がやっていける。この村に俺の居場所なんてない。……ここから俺がいなくなればお前も清々するだろ?」
容姿がよく、国を救った英雄でもある彼だ。きっと王都に行けばもろ手で歓迎されるのだろう。そしてきっと高貴で私よりずっと美しい素敵な貴族のお嬢様を見初めて、幸せな人生を送るのだろう。私のいない、派手で贅沢な家庭を築くのだろう。
そして私も、彼がいないだけのいつも通りの村の生活を送るのだ。鬱陶しく付きまとって邪魔ばかりして、私のご機嫌を窺う駄犬のような幼馴染のいない、平穏な生活を。
私の生活から、彼が完全に消える。
「……だめ」
「ライ――」
「そんなの絶対だめ!なんで!?理由を教えて!私のことを嫌いになったのなら今ここで振ってよ!私にあなたのことを忘れさせてよ、それか完全に憎むくらいにしなさいよ、ずるいわよ、あんなに未練がましく付きまとっておいていきなり手のひら返しなんて。だったらどうしてわざわざここまで来たの!?どうして王都から何カ月もかけてここに帰ってきたの!?ねぇ、答えてよ。お願い……!」
足を前に踏み出せば、カイリーが一歩下がる。頑なに距離を詰めさせないカイリーに苛立ち、走っていって胸倉をつかんで目の前に引き下げた。驚いた様子の彼の目を真正面から見て問いつめる。
「言ってよ。私の目を見て、嫌いになったって言ってよ」
「っ……!」
「それとも、私のこと、嫌いじゃないの?まだ私のこと好きなの?」
「……うるさいっ!これ以上何も言うな!もう俺に構わないでくれ!」
唇を噛みしめて、目を固くつぶった彼が、胸倉をつかんだ私の手を無理矢理離させた。
「……これで、いいんだ」
そして目を開けたその瞬間、確かに「いつもの」彼がいた。
開いた眼いっぱいいっぱいにまで涙を浮かべた、私に怒られて泣きそうなった時の彼が、そこにいた。
一瞬見せたその表情はすぐに消され、そして彼は足早に去っていった。
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彼がいなくなって急に全身の力が抜け、ぺたりと地面に座り込む。
どんな理由であれ、彼は私の引き留めを無視して行ってしまった。この場所は、別れの場所になったということだ。一度目は彼と二年前に口づけを交わして、再会することを約束した時、そして二度目は二度と会わないことを彼に告げられた今だ。
「……結局言ってくれなかったなぁ、理由……」
「別れ」なんて言葉を受け入れることができず、頭を違う方向に逃げさせるようと立ち上がって籠の置いてあるところまで移動する。
何気なく籠の中を覗き込むと、そこにはいっぱいに木苺が詰まっていた。
林で収穫した木苺は村のみんなのものだから勝手に食べてはいけないけれど、もうどうにでもなれやとやけっぱちになっていた私は籠に手をいれて口に一つずつ放り込んだ。甘いよりも酸っぱい味が舌の上で広がって、林の神様に怒られているような気がした。
けれどその酸っぱさが癖になってどうにもやめられず、お叱り覚悟で、一つ、また一つと貪るように食べていく。
私は木苺に限らず、ベリー類が大好きだ。
村でどうしても取れない種類なんて、年に一度食べられるかどうかのぜいたく品。
村に行商人がやってきたとき、カイリーは溜めてきた自分のお小遣いでそれを買って(カイリーが手ずから食べさせるという条件付きだったけど)全部私にくれていたんだよなぁ。
こないだ叩き付けられた果物の中にはその、村で採れない種類のものがいっぱい入っていたことを思いだし、もったいないことをしたなぁ、とあえて思考を遊ばせる。
もっと安い果物でも代用できたはずなのに、どうしてあれを叩き付けたりなんてしたんだろう。
そういえば、今日は、木苺摘みはお休みの日だったはずだ。だから、これを摘んだのは村の女性ではない――となると、やったのは一人しかいない、ことになる。
でもどうして?カイリーは木苺摘みが好きじゃないのに。
カイリーが木苺摘みを嫌う理由は、「面倒だから」とか「手が果汁で汚れるから」とか、「虫が怖いから」とかそういうまともな理由ではない。
「木苺摘みしてる時、ライラが俺のこと邪魔扱いするから。これのせいでライラは俺のこと構ってくれないんだ」
というあまりに下らない理由だ。
そのくせ、私もカイリーも木苺が大好物で、摘まれた後は競って食べた。
ちなみに競うのは、どっちが多く食べるかではなくて、「いかに私が持っている物をカイリーに食べられないようにするかで」だ。
「俺がライラに食べさせてあげるから、ライラは俺に食べさせて」
「なんでそんな面倒なことしなきゃいけないの、やだ」
「あ、ライラそれ食べちゃだめ!俺のっ!」
「あー指ごと食べられたぁ!」
「へへへーごちそうさまー」
「カイリーのばかぁ!返してよー!」
「だからその分俺が食べさせてあげるから!……ほら、甘いでしょ?」
「ん、甘い。美味しい。けど自分一人で食べられるからそんなことしなくていいの!」
「えー。俺はライラに食べさせてもらったら100倍甘く感じるのにー」
「何言ってんの、味なんて同じだよ」
「分かってないなーライラの味がするんだよー」
「なにそれ気持ち悪い」
「いいんだもん、ほんとだもん」
懐かしい思い出にぼうっとしながら散らばる花を見ていても、思い当たる節はある。
形が綺麗、匂いがいい、色が綺麗……そこにある花のどれもこれも、昔、私が何らかの理由で喜んでいたものばかりだ。
おかしい、何かがおかしい。
そこにある山盛りの木苺を見て、散らばった色とりどりの花を見て、段々と呼吸が荒くなっていく。
大体、彼はどうしてここに帰ってきたの?王都まで早くても三カ月はかかるはず、ここを通る馬車も少ないし、そもそも最後は山を自力で上らなきゃいけない。
おじさんに殴られた時も、水をかけたときも、どうして避けなかったの?あんなの簡単に避けられたはずでしょ?
村の人たちに詰られて、怒鳴られて、どうしてそれに一言も反論することなく甘んじて聞き入れていたの?どうして、二週間もそれに耐え続けたの?
私に対しても、他に好きな女性が出来たから別れようって言ってさっさと王都に帰ればよかったのに、なんであえて近くにいて私を見ていたの?
王都に行くって言ったよね?帰る場所は村だって思ってるってこと?
どうして私に一度も「嫌いになった」って言わなかったの?
震える呼吸を落ち着かせようと懸命に己を宥めつつ、次の木苺を摘まもうとした指が何か違う感触のものに触れ、かさりと音を立てた。
その違和感の正体を掴み、ちらりと目をやって、私は、あまりの衝撃にそれを落としかけた。
ひらひらと舞って地面の上に落ちる前にどうにか捕まえたのは、一枚のごわついた紙。
ぐしゃぐしゃになったそこには、歪んだ数文字があった。
村の手習いで優秀と褒められたほど綺麗な文字を書くあの子らしくない、汚い文字。まるで折れた腕を片手で固定して書いたかのような、自由の効かない腕で書かれたような文字に、胸が引き裂かれそうになる。
『らいら、あいしてる』
「……カイリーのばかぁ!」
林の中に響き渡るほどの大声で、私は叫んだ。