番外ー2
「ほぉ~勇者様はまた試練に挑まれている、と……」
「おじさん、声大きい!」
月に一度の行商のおじさんが商いにやってきたのは、お父さんがカイリーを家に招き入れてから一週間経った日だった。
行商がこの村に持ってくるものは、大抵この村では採れないものばかり――魚を干したものだとか、このあたりの山では採れない薬草だとか、王都で流行っている装飾品や布地など――だから、村長を初めとする男衆と村の特産品の買取の話を終えた後は、大抵女性が行商台に群がって、あれでもないこれでもないと月に一度の買い物を楽しむ。
私はと言えば、お母さんに言いつけられた干し果物を買いに来ており、装飾品を見に来たバレッタと一緒におじさんと話し込んでいるところだ。
その私の近くに、いつもならへばりついている元勇者様の彼はいない。それは、今おじさんとバレッタが目の前で楽し気に話している根本の原因のせいだ。
「なるほど、ライラお嬢ちゃんはまだ勇者様とはご結婚していないと。それは、勇者様の呪いで不憫な扱いを受けた娘を心配したライラお嬢ちゃんの親父さんの親心のせいだと。それで、親父さんが結婚を認める条件として出したのが――」
「『二週間、何があっても一切ライラに触れないこと』!」
さっきまできらりと光る紫の石のついた髪留めを見ていたバレッタが急にこちらに向き直ると、人差し指を立てて鼻息荒く説明する。
「呪いでライラに乱暴して暴言吐きまくったときでも、好きだという気持ちの代わりに嫌いだという言葉が出るのだけは意思の力で抑えつけたことを見込んで、意思の力を試すんですって。この二週間、ライラに絶対に触れなかったらカイリーの勝ち、ライラのお父さんはライラとの結婚を認めてくれる。代わりに、もし指の先一本でも触れたらカイリーとライラの婚約は解消。ライラは別の人に嫁がせるって。カイリーの愛の力を試されてますわよ~ライラさん」
「もう、バレッタたら。笑い事じゃないわ。これのせいでカイリー、『俺、呪いがない今、ライラとの間に障害物がないとライラの姿を目に入れた瞬間に触っちゃう。ごめんライラ、二週間は近づけない……!これは俺が考えうる中でも一番難関な試練だ……!』って涙ながらに言ってきたんだから」
「でも実際、この一週間確かに近づいていないわよねぇ。いつも鬱陶しいくらい近くにいるんだから、二週間だと分かっていれば逆に清々しいんじゃない?」
「……と、思うでしょう?そうでもないのよ」
「どういうこと?」
「……障害物の存在に頼って私に近づくのを避けているだけで、柱の影とか、木の高いところとかにはいて、暇さえあればこっちをじっと見てるの。目が合うとすぐに逸らされるんだけど、大抵視線を感じるから余計に鬱陶しい。この前なんか、家の窓におでこをくっつけてじぃっと中を覗いていたのよ?」
「それはそれは……もう一種恐怖すら感じるわね」
特にセナードを初めとした男の子たちと話していると、私……というよりも、私と話している相手への視線が強く恐ろしいものに変わっている。いわゆる殺意というものが混じったときに、その視線に耐えかねたセナードが身を潜めるカイリーにずんずんと近づいて
「お前馬鹿か!今のお前がいる状態で誰もライラに手なんか出しゃしねーよ!」
と頭を叩いていた。
「今日はいないの?」
「今日は村長の言いつけで一日忙しくしているはずだから、久々に私が解放される日なの」
「ぶわっはははは!あの男前の勇者様もライラお嬢ちゃんには形無しだなぁ!いやぁ、勇者様が苦しむ困難が魔女の呪い以外にあったとは!こりゃあ愛のサーガの一説に加わる新しい重要情報になる!」
話を聞いていたおじさんは呵呵大笑、お腹を押さえて野太い笑い声を響かせ、対する私の方は頭痛がして頭を押さえた。
現在王都では、王女殿下の予想された通り、「恐ろしい魔女を打ち倒した勇者と婚約者の純愛のサーガ」などという悪夢としか思えないものが流行りに流行っているらしい。
この村が閉鎖的で、物見遊山でやってきた王都の人間や旅人は中に入れないことから、この村への立ち入りが認められている行商のおじさんたちが、その最先端情報を仕入れて来る人たちとして王都でも有名になっているらしい。
王都に着いた瞬間に吟遊詩人やら町の噂好きたちが大量に集まるから商売繁盛だ、と、おじさんたちはほくほくの笑顔だ。
こういう話の情報料代わりに私とカイリーは普通の値段より少しだけ割引してもらっているので文句は言えないのだけど、それにしても話を聞くたびに王都にはしばらく行けないなと心を固めている。
「おじさん、いいから早く干しコクラの実をこの瓶いっぱいにください」
「はいよ」
「あ、私はこの髪留めをもらいまーす。おじさんたちが滞在する期間じゃあ、カイリーの試練の結果はまだ出てない頃だもの。次来た時に私が続報を教えてあげるわね」
「ちょっと、バレッタ!」
「おう、バレッタちゃん、期待してるぜ!」
お金を支払ってから行商台から離れ、次の仕事までの時間にカイリーのためにお菓子でも作ってあげるかな、と考えたところで大事なものを忘れていたことに気が付いた。
「いけない。私、ちょっと忘れていた用事を思い出しちゃった。バレッタ、先に戻っててくれる?」
「あら、森に行くの?私も一緒に行くわよ?」
「平気よ、ちょっとだもの」
「掟破りは怖いわよ?」
村はずれの森に向きを変えるとバレッタに止められる。
「森の中まで入るときは必ず二人以上になること」が村の掟になっているのは、林と違って森は深く、野生の危険な動物も多いので、命を落とす危険が高いからだ。
とはいえ、今回は森の入り口からそれほど遠くない所である上、いつも行き慣れている道だ。加えて昨日かなりの雨が降ったせいで足を踏み出せば靴が沈み込むほどに地面が水分を含んでいる。そんな日に森に入れば、服は泥はねや草の汁で汚れてしまい、これらはなかなか落ちにくい。
今日のバレッタのスカートが彼女のお気に入りの物なのは知っているから、それを泥だらけにするのを分かってなお彼女を連れて行くのは悪い。
「大丈夫、い、入口手前のところだし!中には入らないもの」
「そう……くれぐれも中に入っちゃだめよ!今の時期はイノシシたちも気が荒いんだから!」
「うん。すぐに戻るから!」
嘘をついて一人で森に入った私に、きっと森の神様から罰が当たった。
「……いったぁ……」
ぬかるんでいた泥に足を取られて見事に足を滑らし、森の斜面をひたすら滑り落ちた今、心からそう思う。
長いスカートがあちらこちらの枝やらなにやらに引っかかったおかげで滑り落ちる速度が落ちたためか、頭も打たず、骨を折った様子もないのは不幸中の幸いだった。
泥で汚れ、枝などで切り裂かれてぼろきれのようになったスカートに感謝しつつ、足の状態を確認する。
「っ、……あ――やらかしちゃったぁ……」
足や腕が切り傷だらけで血がにじんでいることよりも何よりも、足首を捻ってしまったらしいことが一番まずいことだった。手で足首を掴んだだけで痛みが走る今、到底立てる状態にない。
日が短くなってきている季節だから、それほど時間は経っていないはずなのに、ついさっきまで明るかった周りが徐々に陰っているのが分かる。
夜になれば夜行性の獰猛な獣たちが動き出すし、気温もぐっと下がる。転がり落ちる時に草の雨露で濡れそぼった体が冷えるのは間違いない。
「どう、しよう……」
遠くの方で聞こえるオオカミと思しき遠吠えの声や草が掠れる音が妙に大きく耳に響く。
体にくっつくほどに濡れた服の布地はところどころ私の血で赤くぼんやりと滲んでいる。
森の中に少し湿った、季節に合わせた冷たい風が流れ、草が揺れるたびに寒さでぶるりと体が震える。
血の匂いのする、弱った、動けない人間。
そんなもの、獰猛な動物たちに見つかったらおしまいだ。
早く村に帰らないと、と気を奮い立たせて立ち上がったが、右足首に鋭い痛みが走り、すぐに地に膝をついてしまった。
冷静に辺りの見渡し、自分の状況を認識すればするほど、身の内から恐怖が湧き上がり、心臓がばくばくと痛くなり、呼吸が荒くなる。
軽率な行動に出た自分を恨めしく呪いながら、こぼれそうになる涙をぎゅっと固く目を瞑って誤魔化す。
これほどまでに命の危険が迫ったのは初めてとはいえ、昔から泣きたくなるくらい困った時に瞼の裏に浮かぶのは、いつだって金色の髪の、間の抜けた笑顔を見せる、少し変態気味で、優しい幼馴染。
例え彼が今日村長の用事で私の傍にいなかったのだから気づくわけがないと知っていても、こんなに短時間で探しにくるわけないと思っても、助けを求めて呼ぶのは、彼の名前以外ありえなかった。
「カイリー……」
怖い、怖い。カイリー、助けて。カイリー。
近くの草を引きちぎるほど強く掴みながら、恐怖と不安に打ち勝つようにその名前を頭の中で繰り返す。
ちょうどその時だった。
祈るような想いに応えるように、微かに遠くの方から声がした気がした。
顔を上げて耳を澄ますと、それが気のせいでないことが分かる。
「ライラ、ライラ」と歌うように私を呼んでいた昔よりも低く、男らしくなってもそれでも紛れもない彼の声だと分かる。
その望みに縋った。
「カイリー!助けて!ここなの!動けないの!」
痛む喉の奥から振り絞るようにして、木々のざわめきに負けないように、声を張り上げる。
その名前を呼び続けて、それほど経つ間もなく、木々が風のせいでなく大きく動き、森の中で見かけることのない、濡れた金色が目に飛び込んだ。
「ライラ!!」
「カイリー、カイリー!!」
必死で探してくれていたのだろう、全身泥だらけにし、私を見た途端に緊張と不安で強張らせていた美しい顔を一瞬緩ませた幼馴染が差し出してくれた両腕に、私は迷うことなく飛び込んだ。