愛ゆえに
リューディア・ハイラは私が唯一友人になりたいと思った人間である。自分で言うのもなんだが、私は変わり者として有名だった。私は色々なことに好奇心旺盛すぎて、普通の貴族の令嬢としてはある意味優秀すぎたのだ。だから変わり者という称号は、私にとっては称賛にも等しいものだった。私は私に自信があったし、変わり者と言われても誰に迷惑をかけているわけではない。
そんな私だったので、私よりも優れていると思う令嬢に出会ったことはなかった。だから私には話し相手として満足できる相手がいなかったのだ。
そもそも貴族の女は貴族の男を立てなければならないので、あまり優秀では困るというのが定説なのだ。私はくだらないと思っていたが、それが世間なのである。
しかしリューディア・ハイラは貴族令嬢として非常に模範的でありながら、同時にひどく優秀な人間だった。彼女は自らの才能を隠し、しかし隠しすぎて侮られることがないようにするという、なんとも難しい調整をあっさりとやってのける人間だった。
そして、私と二人だけ――正確には私たちの従者もいれて四人――になると、彼女は自らの知識を惜しみなく披露してくれた。彼女だけが私と対等に話のできる人間だった。しかしそれほどの人間でありながら、リューディアは貴族令嬢らしい誇りと責任感を持ち、周りの人間を器用に欺いて普通という範疇におさまっていた。
彼女には敵わない。きっとこれからも敵うことはないだろう。しかし彼女と友人になってから気づいたのは、リューディアは気高いながら、なんとも自分に自信のない人間だった。誰も気づいていなかったが、リューディア本人と私だけは、彼女の脆さを知っていた。私はどちらかというと自分に自信を持ちすぎているタイプなので、リューディアが私を買っているのはそういうところなのだろうと思っていた。
彼女のことを語るにはもう一人の人物についても触れなければならない。それは彼女の従者であるエリアスだ。エリアスという男は、非常に見目のいい男だった。私が見る限り、ハイラ家の女使用人ほとんどがエリアスに恋心を抱いているように見えた。
そしてエリアスは非常に器用な人間だった。話を聞くところによると、エリアスはそもそもリューディアの話し相手としてリューディア本人に拾われたらしい。
私ですらも舌を巻くリューディアの話し相手となれば、かなりの知識が必要になる。エリアスは膨大な知識とそれを理解する頭、そして従者として必要な技術すべてを持っていた。
そしてエリアスはこれまた器用に押し殺していたが、リューディアに深い愛情を抱いていた。この男は従者としての一線を決して超えることはなかったが、リューディアに対する理解の深さと言えば、愛なしには不可能だろうという域であった。
しかしリューディアはそのことに全く気付いていなかった。何故ならリューディアは自分という存在に自信がなかったからである。しかし彼女は彼女なりにエリアスを気に入っており、だからこそある日私にこんなことを言ったのだ。
エリアスに興味はないかと。そして鑑賞用に、あるいは話し相手にどうかと。
エリアスのいない場で言われたその言葉で、私はリューディアが遠回しにエリアスを引き取ってほしいと頼んでいるのだと分かった。そしてそれによって私はハイラ家についてある程度調べ、リューディアと同じ結論に至った。
ハイラ家は保たない。
ひそかに進行した毒は水面下でゆっくりと回り、気づいたときにはもう手遅れだ。リューディアは没落の匂いを感じ取りながら、もう自分ではどうにもできないことも悟ったのだろう。
そこでエリアスを安全地帯に移動させることに決めたらしい。自分は船と共に沈む気だと言うのに、エリアスにそれを悟らせずに陸に上がらせるのだから、やはり彼女の手腕は見事である。
そうこうしてエリアスの引き揚げ作業を手伝ったのだが、私はエリアスだけを引き揚げる気は毛頭はなかった。ただ、その要となるエリアスにはしばらく黙っておいて遊んでもいいかなと思っていた。
ところが、だ。
そんなことは不可能になった。エリアスはリューディアの側を離れた途端、感情を押さえることを止めた。その激情はエリアス自身の身を滅ぼしそうであった。自棄になっていると言ってもいい。リューディアの側にいられなくなったこと、そしてなによりリューディアに捨てられたことが精神的にダメージが大きかったらしい。
「どうされますか?」
自分の従者にそう問われて、私はため息をついた。
「エリアスを呼んで。彼が無茶をする前に」
「男をからかうのはお止めになるのですね」
「今のあの男はからかうにはちょっと面白くないわ」
「そうでしょうね」
私の従者もまた呆れたようにため息をつきながら、それでもエリアスを呼びに行ってくれた。そして連れてこられた男は、みごとにすねている様子だった。
私に忠誠を誓う気がないのがありありとしている。常に完璧な従者であったのに、今はただ絶望と驚愕に打ちひしがれるただ一人の男だ。しかし私は逆にその様子に安心していた。リューディアに見捨てられた、という状況であるのにエリアスが全く動揺を見せずにこの家で淡々と働き出したらどうしようかとひそかに心配もしていたのだ。実際はその逆で、それがリューディアへの忠誠心をうかがわせる。
「しゃきっとなさい。リューディアを生かしたいのなら」
私は単刀直入に言った。何を言われてもどうでもいい、そんな風にさえ見えたエリアスは、リューディアの名を聞いてはじかれるように顔を上げた。
「リューディアはあなたを生かすために、陸に引き揚げさせたのよ。今、ハイラ家は沈みかけた船なの。リューディアはエリアスだけ陸に放り出して、自分は船と共に海底に沈む気らしいわ」
「そ、んな……」
「船が沈むまでに、あなたはリューディアの引き揚げ準備をなさい。私は親友に生きてほしいの。あなたなら、彼女の覚悟を覆せると信じているわ。でも、もしあなたがリューディアの望むままに死なせてやりたいと言うのなら――」
「――いいえ。たとえそれがリューディア様の望みでも……私は彼女に生きていてほしい」
力強い否定に私はほっとした。もし彼がリューディアの望みのまま死なせてやりたいと言うのならば、この役目を違う誰かに託さねばならないところだった。しかしエリアスは主の望みよりも自分の感情を優先した。
「それは……愛なのね? この期に及んで隠す必要はないの。愛が無ければ、あの子を支えていくことは難しいでしょう」
だから私は確認するように問う。エリアスはかなり悩んだようだったが、最終的には小さく頷いて肯定した。
「……はい」
そうして、あの日、沈みかかった船に乗り続けるリューディアを迎えに行かせたのだが、私は正直気が気でなかった。
私はたとえこの家が没落しようとも生きていける。それだけの知識も技術ももっていた。リューディアもまた、その気になれば教師の職や、手先が器用だから刺繍などを教えることもできるだろう。
ただ私とリューディアの決定的な違いは、私は市井に埋もれても生きていける根性があるが、リューディアにはないことだった。根性はあるのだが、彼女はベクトルを間違えている。彼女は貴族としての自分に誇りを持ち、自信を持っているのだが、貴族でない自分は無価値だと思い込んでいるのだ。
そんな歪んだ自己評価を持っているから、彼女は必ず死を選ぶ。それは分かっていた。だからこそエリアスを向かわせたのだ。
おそらくエリアスは自分の命を盾に取るだろう。
私はそのことでリューディアが自分の死を諦めてくれると信じたかった。彼女は貴族としての責務を果たそうとするのなら、使用人を自分の死のために殺したりはしないだろう。そして、一番いいのは、リューディアがエリアスに情ではなく愛を持っていることだった。エリアスを死なせたくないとリューディアが感じてくれることだった。
ただそれは私には判断がつかないことだった。リューディアは自分に自信がなさすぎて、恋や愛というものに対してあまりにも鈍すぎた。寄りつく虫を払う方法は知っていたが、その虫が求めるものが貴族としてのリューディアであるということが問題だった。
結果的に私の心配は杞憂に終わり、リューディアは生きることを選んだ。しかし私はリューディアに会いに行こうとはしなかった。貴族でなくなった彼女は、貴族である私に会いたくはないだろう。いつか彼女の気持ちの整理がつけば、会えればいい。
「ソルヤ様」
「何?」
「お客様がお見えです」
思考に没頭していたら、誰かが来たようだ。
アポなしで誰かを通すということは、おそらくそれなりに重要な人物なのだろう。
「通して」
扉の向こう側に声をかければ、ゆっくりと扉が開いた。私はそちらに視線をやると、そこにいた人物に思わず声を上げる。
「リューディア!」
彼女はフードを目深にかぶっていたが、一目でわかった。彼女が来たと言うことはエリアスもいるのか、と視線をめぐらせたがいない。
彼女が一人でここに来た。それが意味するのは、エリアスに何かあったということだ。
まずは彼女にソファを薦め座らせてから声をかける。
「久しぶりね」
「久しぶり。二つ、頼みがあるの」
リューディアはまっすぐに私を見てそう言った。その顔に迷いはない。あれほど誰かを頼ると言うことを嫌っていた彼女がそういうということは、かなり非常事態だろう。私は一度、従者に目くばせをしてから、もういちどリューディアに向き直る。
「あなたに頼まれごとをするのは初めてだから、嬉しいわ」
ふと彼女がかぶるフードに目がいった。おそらく彼女は乗合馬車に乗ってきたのだろう。一人で乗るとは大胆だが、一般市民にとっては乗合馬車はさほど危険なものでもない。彼女はきちんと知識は持っているので、歩くよりはましな手段ではある。ただ、彼女ほどの美貌の人間が乗合馬車に乗ると危険度が増すので、フードをかぶってきたのだろう。
「でもその前に、フードはもういらないんじゃない?
「ソルヤ……。これは私なりの対価なのよ。薬代ぐらいにはなるはずなの」
彼女はふいに椅子から立ち上がった。そしていささか勢いよくフードを外した。
フード外れリューディアの美しい顔があらわになる、そしてそれと同時に、彼女の自慢の金髪がはらりと揺れる。しかしその髪は通常とはかなり違っていた。
「切ったの……?」
腰まであった長い金髪は、肩のあたりでざっくりと切られていた。彼女は自分で切ったのだ。私はそのことにひどく衝撃を受けた。
借りを作るのが嫌いなのは知っていたが、だからといって髪を切るなどという暴挙に出るとは思わなかった。
私が茫然としていると、そして彼女は懐から何かを取り出した。
長く細い金色の束。それはまぎれもなく彼女の髪であったものだろう。彼女の髪色はムラがなく長いので高い価値がある。人毛は需要がそれなりにあるのだ。
「自分で切ったのね! どうして! そんなことしなくても私は――」
「――知ってるわ。あなたなら無償でエリアスを助けてくれたでしょう」
私の憤りの理由を察してか、リューディアはそう言った。
「エリアスがどうしたの?」
「彼が熱で倒れたわ。医者と薬を頼みたいの」
ソルヤははっと口元を手で押さえ、そして従者に目くばせをした。すると優秀な従者はすぐに部屋を出て行った。
とりあえずエリアスのことはどうにかなるはずだ。それよりも今は彼女の行動の方が問題である。彼女がここまでした理由が、物事を頼むときに無償では頼めないという彼女のプライドゆえなのか、それとも純粋にエリアスを助けたかったかでこのあとの動きは変わってくる。
私としてはリューディアの心がエリアスに傾いてくれるのが一番だ。エリアスは献身的にリューディアを支えているし、愛もある。今の、そしてこれからの彼女にエリアスは必要な人物だ。
「リューディア……あなたは誇りとエリアスを天秤にかけたのね」
「ええ。私にとってはエリアスの方が重かった。エリアスが助かるなら、私は信条を曲げてあなたに頼ったし、髪も切れたわ」
「それでも髪を切って持ってくるのはあなたらしい。無償で与えられることに我慢ならないんだわ」
「私はソルヤの友情を疑ったわけではないの」
彼女の表情に憂いはない。むしろ晴れ晴れとしているようにすら見えた。そうして彼女は言ったのだ。
「ただ、私がエリアスを助けたかったのよ」
それは、私が待ち望んでいた言葉だった。彼女の中でエリアスはただ自分を養ってくれる従者ではなくなったということだ。彼女は愛を見つけたのだ。
私はそのことに思っていた以上に喜んでいる自分に気づいた。その覚悟があるのなら、もうこの二人は安定して生きていける。
しかしそう思った私を、リューディアは次の一言であっさりと裏切る。
「それで、もう一つの頼みがあるの。エリアスを引き取ってもらえないかしら? 彼を今も雇用しているのでしょう? ただ住み込みでないだけで」
「引き取る? どういう意味? どういう意味なの?」
「エリアスが熱で倒れたのは、過剰に労働したせいよ。ハイラ家にいたとき熱で倒れるエリアスなんて見たことがなかったわ。もう私には耐えられないの。」
彼女は手放そうとしているというのか。あれほどまでに彼女を切望しているあの男を。しかもあろうことか、その理由は彼女がエリアスに愛を抱き始めたからなのだ。
しかしこの様子では本人に自覚は無いに違いない。
「エリアスが望んであなたを助けているのよ。素直に甘えればいじゃない」
「エリアスが望んで? 違うわ。彼は私に恩を感じているからよ。でも、いつまでその恩返しの精神が続くのか分からない。エリアスのためだけではないの。私は恐れているの。いつエリアスが私を突き放すかと」
これは私が何をいっても駄目だろう。本人が言わなければならないのだ。あの男は無駄に器用だから、きっとリューディアへの愛など完璧に隠しきっていたに違いない。それがもとで彼女がエリアスから離れようとしているなど、なんと皮肉なことだろうか。
「エリアスの処遇は、彼が元気になって本人の意志を聞いてからでないと決められないわ」
だから、私はこういって時間を稼ぐしかなかった。
そして心の中で舌打ちをする。
そもそもこうなったのは、あの男が態度に出さないからなのだ。
「リューディア。あなたも本人に聞いてみて。あなたが望むならこのままここにいてもいいけれど」
「……いいえ。帰るわ。あの状態のエリアスを放ってはおけない」
「そう。送らせるからすこし待ってね」
だから少しだけ揺さぶりをかける。リューディアの本心を知れば、エリアスも動くだろう。
そう、信じたかった。