誇りなしでは生きていけぬ
ここから見る月も最後か。
私は寒々とした屋敷の中にある自分の部屋で、月を見つめていた。
今日は美しい満月だ。この部屋が私のものである最後の日に、満月が見れて良かったと思う。
「私の最期の日だもの。こうでなくては」
月明かりに照らされて鈍く短剣の刃が光る。
私が生きる意味は全て消えて行った。明日、この屋敷は他人のものとなり、私は貴族ではなくなる。
私にとっては貴族でなくなることこそ最も恐ろしいことだった。私の誇りが、誰かに傅くことをよしとしなかった。貴族でなくなったのだと陰口をたたかれることも、私には耐えられそうになかった。
私は誇りを失ってまで生きていく意味がないのだ。
私は貴族であることがすべてだった。貴族であること以外に、私は自分に価値を見出すことができなかった。
そして唯一、私の生きる意味を感じさせてくれた数名は、すでに縁を切ってある。
ソルヤは敏いから、向こうから連絡を絶った。変わり者と言われていたソルヤは、私が唯一認めた友人だ。
あれは私と似ていて、しかし私が唯一尊敬できた人間だった。私が唯一勝てぬと悟った相手だった。私と同じだけの知識を持ち、私と同じだけの思考力を持ち、しかし私以上の結果を出せる女だった。私と違ってソルヤは自分自身に価値を見出していた。
私は守るために誇り高くあったが、ソルヤは純粋に自分を誇れる人間だった。あの彼女の元でならば、エリアスも上手くやっていけるに違いない。
私がエリアスを拾ったのはきまぐれだった。
私を必要とする誰かが欲しかったから、そういう本心があったことを今の私は理解している。七歳の時の私は、貴族として割り切るにはまだ愛に飢えた子どもだった。両親の関心がまったく自らに向かないことを納得しながらも、何かにすがりたい年頃だった。しかしながら七歳の私はすでに気高く、誰かに頼ることをよしとしなかった。
だから、あのかわいそうな少年を拾った。
拾ったというのは言葉の綾だが、エリアスを拾ったことで、私は私がいなければ生きていけない一人を獲得した。それはエリアスがどんな形であれ私を必要とする。
それが愛でないことは理解していた。
しかし、愛に似た執着であると私は信じていた。信じたかった。
エリアスは私に捨てられるわけにはいかなかった。だから私の言うことはなんでも聞いた。私は私のプライドを満たしてくれるエリアスに満足していた。またエリアスが私を必要としていると言う事実が、私の生きる意味の一つとなった。
使用人はたくさんいたが、エリアスのように頼るべき相手が私だけだという人間は、エリアスのほかにはいなかったのだ。
ソルヤにエリアスを引き渡したあの日、私はこうして月を見て泣いていた。新米侍女のカーリナが入ってきて、そしてそっと出て行ったのも知っている。しかし私はそれを放置してしばらく泣いていた。
カーリナは良くできた侍女で、彼女もまた複雑な事情を抱えていたものだから、職務に忠実だったのだ。あの娘なら口は堅く、また私を一人にする気遣いもできると分かっていた。
私はただ泣いていた。
エリアスが私を必要としていると思っていたが、なんと私がエリアスを必要としてしまっていたことに気づかされたからだ。
たかだか従者を手放したことで泣くのは私の誇りに障る。しかし、私は泣き止むことはできなかった。しかしあふれる感情はとめられない。みっともなく誰かにすがるよりは、一人で泣いて昇華する方がまだましだった。
あの日もこうして月を見ていた。あの日と同じような満月だ。
しかし不思議と、今日の方が心が凪いでいた。
これから死へと旅立とうと言うのに、エリアスを手放した日の方が心が揺れていたとは、なんとも情けない話である。
私は短剣を手に取った。
そろそろ時間だ。
「さようなら。リューディア……」
私は自分自身にお別れを言って、短剣を首へと近づけた。
「リューディア様!」
生との別れを邪魔したその声に驚いた私は、不覚にも短剣を取り落した。鈍い音を立てて床に短剣が落ちる。邪魔した声の主が誰か分かった瞬間に、私はどうにか短剣を拾い、そして叫んだ。
「近づくな!」
私は短剣を自らの首にあて、叫んだままの状態で固まった。
あと数歩で手の届く距離にエリアスがいた。
二度と会わぬと誓ったエリアスが。
「お止めください」
心臓の音がうるさい。かすかに切れた首に痛みが走るが、今はそれどころではなかった。エリアスが目の前にいる。エリアスの前では貴族でいなければ。
「エリアス。お前は私に指図できる立場ではないわ」
私は人生で初めて、貴族と言う自分を演じ損ねていた。声が震えている。冷静を装いながら動揺を隠しきれていなかった。
「存じております! ですが!」
「お前ごときの言うことを私が聞くと思うな!」
そう叫んで首にあてた短剣を思いきり引こうとした時だった。私は目の前で起きた出来事に茫然として、しばし自分が何をしようとしているのかを忘れてしまった。
「エリアス……お前は……」
エリアスもまた、首に短剣を当てていた。ちょうど私がしているのと同じように。
「貴女は私に約束してくださいました。私が貴女の命令を聞く限り、私を生かすと。貴女が私に与えられるものは与えられる限り与えようとも」
私がエリアスを拾った日。確かに私はそう言った。絶対服従を誓わせたかわりに、生活とある程度の自由は保障したのだ。
「貴女が私に死を与えるのです。貴女が死ぬと言うのなら、当然私も死にましょう」
あの誓いはそんなことのためにあったのではない。ただ幼い私が、自分の価値を手に入れるためだけに立てた誓いなのだ。死すらも与えるなどとたいそうなことを誓った覚えはない。
「バカなことを言わないで。お前ごときに私と並んで死ぬ価値があるとでも? お前は生きなければならない。生きるのよ! お前は私の命令を聞くと誓ったのでしょう! 私の従者である限りお前は私の言うことを聞くといったでしょう!」
それまで緊張していたエリアスの表情が、何故か安堵したものになった。何かに気づいたようだった。そしてその原因は私の言葉の中にある。
私はそれを直感していた。
私が犯した間違いは何だ。私が与えてしまった言質は何だ。
「”貴女の従者である限り”私はあなたに絶対服従を誓いました。しかし、お忘れですか? 私はすでに貴女の従者ではないではありませんか」
なんと馬鹿なことを言ったのだろう。エリアスはすでに私の物ではなかったのだ。彼はソルヤの従者だ。彼は私の命令を聞く理由がないのだ。
「それは同時に、お前が私のために死ぬ意味もないことを表すのでは?」
「従者としては、はい。ですが、私個人としては、いいえ」
「何故!」
「貴女のいない世界に私の存在意義はないのです」
エリアスは一歩私に近づいた。
彼の瞳は真剣そのものだった。本気で言っているのだ。自らの生死を私にゆだねると言っているのだ。
私は選ぶしかないのだと気づいていた。私が死ねば間違いなくエリアスも死ぬ。私が死ぬのをやめれば、すくなくともエリアスは死なない。
エリアスは私の従者ではないと言うのに、彼の生死は私が与えるのだ。
「お前は私に生きろと言うの? これまでの恩も全て忘れたと? 私が本当に望んでいることを、お前は邪魔するというの?」
「いいえ。私はただ、貴女がどんな選択をしてもついて行きますと申しているだけです」
「従者ではないのに?」
「エリアスという個人の人間として、貴女についていくと決めたのです。それがたとえ今の主への裏切りだったとしても、私にとってはそれは大したことではないのです」
この男は私に殺すか生かすか選べと言う。殺したくなかったからソルヤに預けたというのに。この男はあっさりとそんな私の情も投げ捨ててここに来てしまった。
私は死ぬ。
死への旅立ちは一瞬だ。
私が死んだ後にこの男が死んだとして、死んだ私に何が分かる。
結果的に私が殺したとして、私はそのことを理解するより先に死んでいる。
「エリアス……」
無理だ。
分かっていた。この男を殺せるくらいなら、私は手放したりはしなかった。私の生死に付き合せるつもりであったのなら、エリアスをソルヤに預けたわけがないのだ。
私は短剣を降ろした。かすかに血のにじんだ短剣を床に落とす。それと同時にエリアスもまた短剣をしまって私に近づいた。そして布を私の首に当てる。
「触るな」
私は首をふって抵抗したが、エリアスは動かなかった。傷に刺激を与えぬように注意を払いながらも、しっかりと私の首に布を当てていた。
「お前を殺すのは、私の信条に反する……それだけ」
「ありがとうございます」
エリアスの瞳が近くにあった。この男の綺麗な顔がこうも近くにあると落ち着かない気分になる。普段は表情を押さえているこの男が、ひどく優しく微笑んでいるというのもあるのかもしれない。
「私は修道院では生活できない。ソルヤの世話になる気もない」
戸惑いをごまかすように私は事実を述べた。私の高い誇りは、そういう行為を良しとしない。つつましく生きることも、ソルヤに依存して生きることも私にはできない。
しかしそのどちらでなければ、私は物理的に生きていけない。
そう言う事実を突きつけて、エリアスが少しは諦めてくれはしないものかと様子を窺った。しかしエリアスは私の言葉を想定していたようだ。
「存じております。私の家にお越しください。私を生かしてくださる気があるというのならば」
エリアスはよく私を理解している。だからこそそんな言い方をするのだ。誰かに施されるなど、貴族としての誇りを持つ者ならば、誰でも受け入れられないものだ。しかし、エリアスは私が生を与えることで見返りに差し出すと言っている。事実は私が与えられているのだとしても、言葉の言い回しとは妙である。
「いいわ。お前を生かすためよ」
私は理解していた。しかしエリアスの巧妙な言葉回しを利用した。私は誇りを捨てない。エリアスはそのことをよくわかっている。そして私の誇りが、私自身を守るための物であるということさえも、きっと見抜かれてしまっているのだ。
それから、奇妙な同居生活が始まった。エリアスは私に何もしなくていいと言った。私が一人で出かけないことさえ約束してくれれば、何も望まないとも。言われなくとも私は何もできない。それにこの私が家事をするなど考えられなかった。そんなプライドと、そもそも私が家事を手伝うのはかえってエリアスの邪魔になるだろうという遠慮もあった。外出に関しても、一人で出かけたことなどないのだから、とくに不便は感じない。
エリアスの家での同居生活は想像していたほど悪くはなかった。エリアスは朝と昼の二食をきっちり用意してからでかけていき、夕方に帰ってきた。ハイラ家の時ほどの豪勢さはなくとも、食事は私の食欲を満たすには十分だった。
最初の日、エリアスは給仕に徹しようとしたが、さすがにそれは止めた。この家がエリアスの家である以上、彼にはくつろぐ権利がある。エリアスと並んで食事を取るのは非常に不思議な感覚だったが、想像以上にエリアスが緊張しているのが見て取れて、違和感があるのは彼も同じなのだと気づいた。
私は日中家にいてもやることがないので、エリアスが用意していた刺繍の道具をつかって暇をつぶしていた。最近では編み物にも手をだしている。器用な手先が幸いして、自分でもそれなりの出来だと思える物がいくつかできた。エリアスに売りに出せるか聞いたところ、数日後にお金になって還ってきた。エリアスはそれを私に渡そうとするものだから、私は驚いて断ったのだが、エリアスは頑として譲らなかった。
そして初めて私が勝ち得たお金は、貴族として過ごしていた私ならばかなりの少額で取るに足らないほどのものだった。それでも、今の生活水準から考えれば、それなりのものだ。市井の市場価格も多少は勉強していたため、私にはこのお金の価値を正しく判断できたのだ。
そうやって私は多少裁縫をしていたが、掃除も炊事も洗濯もすべてをエリアスがこなしている。
私は本当に何もしていなかった。生きるために必要なことは何もしていなかった。
質は多少劣るが、ハイラ家にいたときと同じような生活をしていた。エリアスの労働時間はそう長くはないというのに、かなり良い生活ができている。
このからくりの裏に、私はソルヤの影を感じていた。しかし彼女が私に接触してこないのは、私のプライドを保つための彼女なりの心遣いなのだとも知っていた。だからこそ私は知らぬふりをした。もちろんエリアスが万能になんでも要領よくこなしたということもある。
この生活で唯一困ったことといえば湯あみだ。
私は生まれてこのかた、自分の髪を自分で洗ったことがなかった。腰まである長い髪は、私にはかなり扱いの難しいものだったのだ。
その問題に直面した時、さすがにこれだけはエリアスに手伝わせるわけにはいかず、私は頭を悩ませた。この長い髪は自慢だが、手入れができないくらいなら切るべきか。そんな風に悩みながら大きなはさみを手にしていた私を止めたのは、エリアスだった。
そして彼はなんと髪の洗い方を丁寧に教えてくれた。二人で湯船につかるわけにはいかなかったので、あくまでも洗うふりをするだけではあったが、どうにか私はその方法を取得した。
どうしてエリアスが女の髪の洗い方を心得ていたかは聞いていない。入浴後に髪を乾かすのも、髪を整えるのも全てエリアスがしてくれた。流石にカーリナほどではなかったが、エリアスは非常に器用だった。
「なんでもできるのね」
「これぐらいのことで、リューディア様の髪が守れるのならば」
エリアスは私の髪を梳きながらそんなことを言った。確かに髪は女の命だが、貴族としての誇りを持ちながらも貴族ではない私にとってはさして重要ではない。
私が真に貴族で会った時なら、もちろん切るなどということは受け入れがたいことだった。しかし今は状況が状況である。私はプライドを捨てられないながらも、妥協をする試みはしていた。
この家から出ない限り、私は心無い噂話にさらされることはない。それならば、私は多少見た目を損なっても構わなかった。
「どうしてそこまで守りたいの? 面倒でしょう」
「いいえ」
言外に切ればあなたは楽なのにという含みを持たせても、エリアスはきっぱりと否定した。
エリアスに不満がないのならばいい。私はそこでひきさがった。その時のエリアスの顔が妙に安堵している様子だったことを覚えている。
私はエリアスを生かすために、エリアスは私を生かすためにこの同居生活がある。金銭の発生していないこの関係は、エリアスが私を必要としなくなった段階で終わりを告げる。そんな当たり前のことを忘れそうになるほど、私はこの生活に馴染み始めていた。そして、不思議なことに、確実にエリアスに依存している今の状態を苦痛だと思わなくなっていた。
私は着実に私ではなくなっていた。私は今さらになって気づいたのだ。今の私を守るものは誇りではなくエリアスなのだと。
しかし、今さらになって私はそれをエリアスに伝える勇気がなかった。私の高いプライドは、それを許さなかった。
今の今まで感謝一つ述べていない事実に呆れながらも、ゆがんだ状態で始まったこの関係をどう修正して言いのか私にはわからなかったのだ。そして同時に、このままでいいのかと考えるようになった。
エリアスは何故私を生かしたのか。何故、私が死ぬなら自分も死ぬと言ったのか。
その答えを見つけ出さねばならない気がしていたのだ。
エリアスが私を必要としていることは分かる。そしてそれは当初私が望んだものだった。しかし今、本当の意味で私は必要とされていない。むしろ私がいないほうがエリアスは自由に生きられるくらいなのだ。エリアスが望んでいるのは私の生存なのだろうか。それとも、もっと他の何かなのか。
今、私は変わり始めていた。
貴族としても庶民としても中途半端な私は、まだどちらにもなりきることができない。貴族として死ぬ道はエリアスの生が確保されない限りは選べない。しかし開き直って庶民として生きていく覚悟も、情けないながら私にはできなかった。
庶民として生きていくということは、自分の身の回りのことをすべて自分でやるということだ。掃除に洗濯……私がするようなものではないと信じていたのに、私がそれをすることなどできようか。この手が冷たい水によって、掃除女たちのようにあかぎれるのをこの私が耐えられようか。
だからといって、このままエリアスに依存した状態でいることも、私は良いと思えなかった。エリアスが望んでいることが分からない以上、この不安定な生活はいつまでたっても安定しない。それに、そもそもこの生活はエリアスの負担が大きすぎる。
「なんてこと……」
私は思わずつぶやいた。
悶々と考えて、私が真に心配しているのは自分の身ではないことにようやく気付いたのだった。エリアスの負担を当然と考えれば、私はいまこうして悩んではいなかった。
「リューディア様」
ソファに身を沈めて思考にはまっていたところ、エリアスの声がした。どうやらエリアスが帰ってきたことにも気づかずに考え事をしていたらしい。
「エリアス……?」
顔をあげてエリアスの方をみると、何か違和感を感じた。彼の顔に覇気がない。それに妙に青ざめているのだ。
「どうしたの――きゃっ」
ぐらりとエリアスの体が揺らいで、リューディアの座るソファに体ごと倒れこんできた。
「エリアス!」
「も、申し訳ありません」
エリアスはそれでもソファに手をつっぱって立ち上がろうとしていたが、私はすぐにソファから立ち上がってエリアスにソファを譲った。エリアスの額に手を当てると、驚くほど熱かった。
「熱があるわ。いつから具合が悪かったの?」
私はそう話しかけたが、エリアスはすでに意識がもうろうとしているようだった。教養として医術書は読んだことがある。簡単な応急処置の方法も知識としては知っている。しかし実践できるかはまた別の問題だった。
そもそも意識を失うほどの熱は、ただの風邪ではない。医者に見せるべきだ。それもまっとうな医者に。
「……医者の相場は知らないわ」
高額な医者が必ずしも良い医者でないことは分かっていた。しかし、良い医者を見抜くための知識はない。騙される可能性を知っていても、騙されない自信はなかった。
本当はどこかの家のかかりつけの医者が一番なのだ。ハイラ家のかかりつけ医であった男は、今の私には連絡を取る手段がない。
「み、ず……」
どうするべきか悩んでいると、エリアスが小さく何かをつぶやいたのが聞こえた。私はエリアスの口もとに耳を寄せると、どうやら水が飲みたいようだ。
さすがの私でも水ぐらいなら用意できる。私は台所に向かうと飲み水をグラスに入れて、エリアスの元へ運んだ。
「エリアス」
ソファの側に膝立ちになり、エリアスの額に触れると、やはりかなり熱い。水を飲ませたら体を冷やすために布も用意しなければいけない。
「水よ、飲みなさい」
とにかく水を飲ませよう。そう思うのだが、これが案外難しかった。そもそもエリアスは今意識がはっきりとしていないのだ。荒く息はしているものの、目を覚ます気配はない。だからといって水を飲ませることを諦めるわけにはいかなかった。
「死なせるわけにはいかないの」
私は覚悟を決めると、グラスの水を少量口に含んだ。そしてそのままエリアスに口付けた。口に含んだ水は少量だというのに、うまく飲み込ませられない。羞恥心よりも先に焦りが生まれた。こぼれた水がエリアスの顎から首へと伝う。
それでもどうにかグラス一杯の水をほとんど飲ませ切って、これが最後の一口だ、という時だった。
何度繰り返したかわからぬ口づけの最後の一回でエリアスの目がうすく開かれた。焦点があっているのかあっていないのか分からないが、それは私の羞恥心を一気に呼び戻してしまう。エリアスの口に触れる直前に私は水を飲みこんでしまい、慌ててエリアスから離れようとした。
しかし突然、私の体は引き寄せられ、エリアスとキスをしていた。それは水を飲ませる行為とは違って、何か不思議な感覚を私に与えた。私は驚いて抵抗したが、エリアスが止める気配はない。
深くなる口づけに私の体から力が抜けきってしまった時、急にエリアスが離れた。わけのわからぬままエリアスを見ると、彼は眠っている。どうやら今の行動は目が覚めての行動ではなかったようだった。そのことは私を安堵させると同時に、何故か少しの怒りと失望を抱かせた。
しかし今はそんなことを考えている暇はない。
とにかくグラスの水は飲ませきったので、次は体を冷やしてやらねばならない。私はたちあがって台所に行くと、自分の体のほてりを覚ますかのように布と手を水に浸した。そしてできるだけきつく絞ってから再びソファのある部屋にもどる。
そして寝ているエリアスの額にその布を置くと、私は小さく息をついた。
「ソルヤ……」
私はエリアスを死なせるわけにはいかない。そして、この状態でエリアスを放置しておいてよくなると考えるほど楽観的でもなかった。
この状況でエリアスを救える可能性が一番高いのは、ソルヤを頼ることだ。あれほど頼ることを恐れていた私だったが、不思議と今、ソルヤを頼ることに抵抗はなかった。
私は自らのプライドとエリアスを天秤にかけて、そのどちらが重いのか、すでに理解していた。
それでも、ソルヤに頼むのに無償では頼めない。何か対価がいる。
私は部屋を見回してあるものを見つけた。それは対価になり得るものだった。実際にその価値があるかどうかはともかく、ソルヤに物事を頼むには十分だと思えるものだ。
「行ってくるわ」
覚悟を決めた私は、エリアスにそう告げて部屋をでた。