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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

夢を食う烏〜第十一章〜

作者: MUTSUHANA

 私は主と別れて、帽子の飾りになった。

 その黒い帽子には先客がおり、造花の薔薇がちょこんと座っていた。私は薔薇に寄り添うように挿され、男の子の頭の上でユラユラ揺れている。

 集合住宅の住人達はというと、慌てて欲望の吐き溜めである巣から脱出した。幸い、集合住宅に火は移っていなかった。だが住人の心には何かしらの炎が灯っている。男が焼身自殺をし、逃げなかったカラス達を見たからではない。

 事件や事故は、人間が存在しないところでは起きないものだ。

 住人達は、この集合住宅が燃えてくれる事をひそかに祈っていたのだ。そして、燃えてくれる事によってこのどうしようもない連中との関係を終わらせ、新しい人生を歩んでいくと夢見ていたのである。あの集合住宅に犇めく混沌とした全ての欲望に耐えきれなくなっていたのだ。子どもに自分の夢を託す親。夫に高収入を求める妻。早く死ねば良いのにと思われている老人。この家では私が法律だと思い込んでいる豚のような主婦。お隣さんの旦那さんはハンサムなのに、うちの旦那はまるで牛だと思っている身の程を知らない豚のような主婦。お隣さんの子どもはマラソン大会もテストも学年一位なのに、うちの子どもは牛のような旦那の息子だから何をやらせても最下位だとほざく旦那が牛なら妻も豚、のお似合いな夫婦。

 何かと比べなければ幸福を感じられない哀れな家族。その比較対象は自分よりも下のレベルの連中だが、お隣さんという絶妙な関係の自分達家族よりも明らかに上のレベルの家族が存在している事により、豚のような主婦の機嫌は悪くなる一方なのだ。

 お隣さんが嫌がらせをしてきた訳ではない。むしろ人付き合いのいい愛想のいい美人で、作りすぎたおかずなんかを差し入れしてくれたり、実家から送られてきた果物を分けてくれたり、とても気前のいい美人なのだが、それが気に入らないのだ。愛想のいい美人、というだけで到底自分には手に入れられそうにないものを全て持ち合わせている、それが癪に障るのだった。

 女は、夫が焼身自殺をしようとしているのをベランダから見た。夫は長年やめていた煙草を吸い、上空を見ていた。木に火を付け、炎に包まれた夫を見てもお構い無しだ。女は待ってましたと言わんばかりに家の財産全てを持ち逃げした。今ごろ女は、あの集合住宅も全て燃えてしまっているだろうとタカをくくり、自由の身だと空を泳ぐような気持ちになっているだろう。

 だが、一部始終を全てこの目で見ていた私の下の男の子は全てを覚えているだろう。例えこの身体が灰になろうとも、集合住宅で起きた人々の感情やその先にある結果を、全て忘れる事は無いだろう。彼は生まれつき人よりも少しだけ知能が遅れているという事で、大人達に対等に見てはもらえなかった。遅れ、という概念は基準が発生しないとうまれないものだ。大人達は子どもを、自分の基準に合わせようとする。その基準に合わせられない子どもを、知能遅れという言葉だけで片付けてしまう。

 彼はその知能送れという言葉を繰り返し繰り返しつぶやいた。何となく、自分は他の子と少し遅れているのだという事が分かった気がした。

 私の下で息をしている知能遅れの男の子は、母を探していた。私は生き残っているカラス達の情報を手段に、男の子を母の元へ導きたかった。どんな酷い母親でも、一度は子どもを棄てた母親でも、母親である事には変わりない。そして息子が会いたいと望む以上、私に食い止める権利はないのだ。

 様々なカラスの鳴き声や、生き物の息吹が感じられるこの土手には、走り回る子ども達の声はしない。世間話をする主婦達の卑猥な笑い声もしない。人々の我欲が生み出したモンスターは、人々の都合により始末され、そして人々は自分で自分の首を絞めるかのように、街にくり出す事を止めた。

「あんたももうすぐ殺される、早くここから逃げな。あたしみたいにさ」

 女は、自由と一緒に手に入れた空しさを、生ゴミを漁る一匹のカラスにぶつけるように話しかけた。

「あたしはずっと厭だったんだ。旦那が害虫駆除の仕事をしてるなんて。休日は朝から酒飲んで酔っぱらってるだけなんて。あのダサイ仕事着を洗濯する度に、いつかここから逃げてやろうって思ってたんだ。」

 カラスは首を傾げながら、七色の光を魅せている。何色にも染まらないはずの黒が、様々な色を輝かせている。

「あんたが人間の脳味噌とか内臓を食べるなんて、ちょっと信じられないね。あたしの脳味噌は空っぽだろうけど、食ってみる?どんな味がするのか、あたしにも教えて頂戴よ。」

 カラスは目の前の女に興味を示さない。横目で女の動きを監視しながら、緑の芝生の上でくつろいでいる。

「カラスは、七色に光るのに、何でみんな殺すの?」

 女は、自分で産んでおきながら途中で育児放棄した知能遅れの息子の言葉を思い出した。虹はあんなに綺麗なのに、と息子は悲しそうにつぶやいたのだった。

 黒いとばかり思っていたカラスの羽は、太陽の光によって七色に輝く事を知った。桃色にも緑色にも、海のような真っ青な色にも、赤ちゃんの白い肌のようにも、その羽は輝いた。

 モンスターは消滅したとの報告が都から出たはずなのだが、人々は自分たちがつくりあげたモンスターの影に怯え、未だ自由な行動をとれないでいた。

 生きていても意味の無い、この女一人を除いては。

 女は、眠らせていた本能を呼び起こすかのように、野宿を続けていた。たまに錆びれた民宿に泊まるが、従業員はおろか人の気配が全くしないのだった。それを良い事に勝手に布団を拝借し、雨風をしのぐために無断宿泊を続けている。

 カラスを見たのは、家出した初日だけだった。生ゴミを漁り、首をカクカク動かしていた。命を狙われている事などおかまいなしだ。だがその日以来カラスは一度も見ていない。遠くの方から鳴き声が聞こえてきたような気もしたが、記憶の一部が引き出されただけかも知れない。

 勝手気ままな生活をしていたある夜、一軒のバーを見つけた。そこは木々に囲まれた温もりを感じる造りの店だった。ふらっと入ると、店内に客はおらず、日本人形のような女が無表情で煙草をふかしていた。

「お好きな席にどうぞ」

 冷気が漂ってきそうな冷たい女は、この店の温かな木のぬくもりとは真逆な装いだった。カウンターの隅には眼帯をした不気味なカエルの人形がこちらを見ている。

「黒糖、ある?ロックで」

 無言でボトルを手にした女は、何処をみているのか分からないような目つきと、美しい黒髪に住みついたいくつかの魂と、そして悲観したこの世界を振り払うようにしてグラスに注ぎはじめた。

 泣き声のような音楽が流れている。音量を抑え、感情を抑え、やがて人間が人間らしくいる事さえ出来なくなり、もう存在しないはずのカラスに怯えている。人が怯えている存在は、果たして本当にカラスなのであろうか。この国民の依存体質が直る事はないだろうと、黒糖焼酎を飲みながら女は思うのだった。かつて、自分も旦那と子どもに依存していた。そこから抜け出す事が出来たのは、あの事件があってからだ。子どもは「棄てた」事にはなったけれど、私が私であると言う揺るがない事実と催眠から目覚めたのは、子どもを棄ててからだった。正直に言ってしまえば、私にとって子どもは邪魔だった。知能遅れの使えない子どもなど、私の人生において邪魔でしかない。それこそが私にとっての障害となっていたのだった。

「お通しです。」

 相変わらず無表情の女に出されたお通しは、砂肝のような肉を唐辛子とニンニクで炒めたものだった。身が引き締まり、コリコリした食感の肉は、今まで食べた事のない食感だった。頬が落ちる程美味しいという訳ではないが、何だか懐かしさを覚える、そんな味だった。

「街がこんな状態ですから、お客さんもなかなかいらっしゃらなくて。」

 女は黒髪を靡かせて、そう言った。その無表情の中に、何かを棄ててしまった、あるいは失ってしまったという喪失感が見え隠れしていることに気付いた。

 ママ、という声がした。懐かしい息子の声だ。私は女をキッと睨み、罪の意識を掘り起こそうとした。

 私は黒猫の側にこの子を置いておきたかった。そうすることによって黒猫が失ったあまりにも多い命の、鎮魂の意味を込めたかったのだ。だが母親がこの店に来る事は予想していなかった。私は作り物の薔薇の花びらの間でヒヤリとした汗をかいた。

 ママ、と声がする方を女は振り返る。どこからどう見ても自分の息子だ、女の表情は拒絶反応を示しすぐに作り物の表情に変化した。棄てた子どもを、はぐれてしまった子どもとして自分の記憶を塗り替えのだ。

 記憶は簡単に塗り替えられる。そうする事によって嘘が嘘でなくなるのだ。

 何処に行っていたの、心配したじゃない、あれからずっと探していたのよ、そういった記号のような言葉は頭の弱いとされている男の子の脳味噌のどの部分を刺激してゆくのだろう。私は男の子の頭が震えているのを感じ取っていた。

「夕暮れ時に、店の前で泣いていたのを見つけたんです。暗くなってしまったから、明日にでも家まで送ろうと思っていたの。」

 黒猫の男の子を見る目は本物だ。この女よりはるかに慈愛にみちた、優しい気持ちが伝わってくる。しばらく黒猫の感情が私との間で遮断されていたが、次第に繋がってゆくのを感じていた。

 会えて良かったね、という黒猫の言葉に、男の子は万遍の笑みをみせた。

「ホッとしました。私の宝ですから。」

 本当に有り難う、と女は黒猫の美貌に負けず女性らしい丁寧な言葉使いを意識した。それはまるで自分とはかけ離れているものだったため、心の中で笑いが止まらなかった。自分を卑下する事にはもう慣れた。それで少しでも安らぐならいくらでも卑下してみせよう。傷つける事で安らぐなら、いくらでも転んでみせよう。そうだ、その後立てばよいのだ。

 子どもがいなくなっても平気で酒を飲みに来る女は、過去の嘘と現在の真実を丁寧に包装した。そのプレゼントは息子へと贈られることになる。

 私は男の子の手によって黒猫へと渡った。良くしてくれたお礼だと言う。黒髪の上へ落ち着いた私は、男の子の顔を初めてながめることが出来た。

 涙を飲み込んで、悲しみさえも押し殺して、たった一人の母親の元へ帰る男の子はきっと全てを知っているのだろう。

 はぐれてしまったのではなく、棄てられたのだということ。

 お父さんは家の裏の公園で火だるまになったこと。

 帰る家は無いのだということ。

 ひとりぼっちなんだということ。

 私の焼けた羽がズキズキ痛むと同時に、男の子は母親らしき女と店を出た。そのつないだ手が離れないことを、私と黒猫は祈っていた。


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