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第二十二章 演技する者させる者

 それからの数時間、アレックス・ボールドウィンは地獄に居る様な気分だった。

 いや、正確には煉獄と言うべきだろうか。

 ドッペルゲンガー事件の決め手となっているのは、あくまでも証言である。

 事件そのものは何処にでもありえそうな強盗殺人であるからこそ証拠は皆無であり、目撃者の言動だけが頼りだった。だから警部は、ハリソン・バウチャーを事情聴取し、彼がその時間何をしていたかを示す証人が現れる度に、よもやこの二人は結託しているのでは無いか、と疑ったものである。勿論証言者はハリソンと面識が無い者達ばかりである為、その考えはただの疑念であった訳だが。

 しかしここに至り、それは間違っていた事が判明してしまったのである。

 何せ、今度の証言者は自分であるのだから。

 自分の眼を、そして時間を否定する事は出来ない。

 あのパブから犯行現場まではどう頑張っても一時間以上、いやもっと掛かってしまう。

 ハリソンが犯人である事はありえなかった。

 だが、それならば何故また奴が目撃されたと言うのか。

 確実に何か、何かがある筈なのである。

 その何かの一端に自分が組み込まれ、図らずも奴を救ってしまった事が、アレックスには耐え難かった。

 よりにもよって自分がっ。

「おやおや、まぁたお逢いしましたな、アレックスの旦那。

 はは、しっかし、またしてもまたしても疑われるとは、人気者は辛いですな。

 でもっ。

 今回ばかりは旦那も知っているでがしょ?

 俺ゃ犯人じゃねぇってさぁ。」

 最早形式となったヤードへの召集、そしてうんざりする程似た内容の事情聴取をした後、特に拘留される事も無くそう言って去って行くハリソンの言葉がアレックスの胸に突き刺さる。

 もしノイラ・D・エディソンが見つめながら、その手を握っていてくれなければ、アレックスは以前宣言した通りに、あの汚らわしい中年の顔へ風穴を開けていた所だろう。

 だが、それ以上に気を滅入らせた事は、死体安置所(モルグ)を訪れた帰りに起こった。

「ドッペルゲンガーだったかな。

 いや世間ではそちらの方に興味が向いていた様だがね、それよりも私はこの死体の方が興味深い。

 あの怪異のせいで影が薄いが、殺したのは明らかに手練だ。相当に殺し慣れてる。

 でなけりゃ、瞬時に二人の人間の胸を貫いたりは出来ないね。

 強いて言えば夫が先に殺されている。まぁこれは当然だ。男性より女性の方が後々楽だからね。

 と、言っても、後々だなんて時間は無かったろうが。

 ともあれこれはあれだよ、アレックス。

 奴の経歴や君との試合を考えると、十中八九あのハリソン・バウチャーで間違いないんじゃないかな。」

 解剖された二つの死体を眺めつつヘンリー・ウェストは、検死医らしい医学的な判断の中に子供の時からアレックスが良く知っている死への奇妙な趣向を込めて、彼の友人にそう貴重だが使えないアドバイスを送った。

 最大にして唯一の問題は、二重幻影の怪異なのだから、死体についての事を言っても仕方が無いし、ハリソンが犯人なのはまず間違い無いのだ。

「どうも……相変わらず、お前の考える事と世間の考える事は違う様だな。」

 寧ろお前達は、と言うべきか。

 同じ様な事は他の検死医から嫌と言う程聞いているのである。

「それは我々の様な人間に取っては褒め言葉だ。光栄だね、警部。」

 そして医学狂の友人は、アレックスが皮肉のつもりで言った台詞に、半ば本気でそう返した。この男の思考が社会から更にずれた結果酸鼻なる大犯罪事を起こしてしまわない事を警部は心の底から願った。

 それこそもう何度目か解らないが。

 その間ノイラはずっと二つの死体を見つめている。

 物言わぬ死体を。

 既に物となった人間を。

 人形の様な存在に成り代わったものを。

 ギリギチと開かれているその瞳の奥をアレックスは見た。

 だが、そこから彼女の思考を読み取る事は不可能であった。

 こうして死体を確認した二人は、地下にある所為で寒いを超えて凍りそうな安置所から抜け出すと、一度事件を整理すべくヤードへと戻った。深夜ともなり、夜勤にして夜行性な数人の保因者達しか残っていない薄ら寒い廊下を歩きながら、この事をどう報告したものかとアレックスが悩んでいると、その前にふらりと人影が二つ現れた。

 一人はノイラと見た目はそう大差無い年齢の少女である。結い上げた金髪が明朗な、アデルの様な印象を与え、その顔立ちはなかなか可愛らしかったが、しかし真っ赤に泣き腫らした茶色い瞳がその印象を帳消しにしていた。もう一人はかなりノッポな茶髪茶眼の青年である。決して小さくは無いアレックスだったが、それよりも更に大きい。その割には痩せている為か、何処か頼りない。何と無くだが、蕪得木(ベルギー)人っぽい印象を受けた。

 この二人は何者だろうか。

 そう訝しがっていると、ふいにアレックスの背後で何かの気配が沸き起こり、少年の声が囁いた。

「そちらのお嬢さんはハルトマン夫妻の娘で、アナベル・ハルトマン。

 隣に居るのはご友人のゲオルク・フォン・ボルク。

 色々と話を窺っていてね。

 丁度聞き終えた所に君が来た様だから案内してあげたのさ。」

 内心飛び上がらん程に驚いたアレックスだったが、何とか自制する事に成功する。加えて、決して振り向かなかった。声といい、態度といい、行動といい、ディルク・シュナイダー以外に考えられなかったからである。

 アレックスは、茶目っ気溢れる吸血鬼の青年を無視し、目の前に居る二人、特にアナベルへと注視した。

 彼女もまた彼へと視線を向ける。血走った眼から送られてくる視線が痛々しい。

 アレックスはつい戸惑った。親を失ったばかり少女に言うべき言葉を彼は知らない。

 こんな時、一体何をどう言う風に言え――パンッ。

 そう思い巡らしているアレックスへ、唐突に鋭い痛みが迸った。

 アナベルの左手が己の頬を引っ叩いたと気付いたのは、彼女が猛然と何か彼を罵り始めてから漸くである。

 それは土壱(ドイツ)語であり、尚且つ早口で捲くし立てているので、聞き取る事は出来なかったが、どんな意味かは想像出来た。更にアナベルは、まだ泣けるのかという程の涙を零しながら、アレックスの胸を連打する。それは、ゲオルクが慌てて抑えるまで続き、彼女は掴まれた腕を振り払うと、外へ猛然と向かい始めた。

 その後ろを青年が追う。

 肩を掴まれたアナベルは、宥めようとするゲオルクへ、そして次に頬を押さえて立ち尽くすアレックスへ何事かを叫んだ。そして、親しい友人が追い掛ける中、強引に扉を押し開けて、夜の闇の中へと出て行ってしまった。

 土壱人らしい剣幕に押され、突っ立ったまま見送るアレックスの耳元に、ただ一人彼女の言っている事を理解していたディルクの声が入って来る。

「貴方が、貴方達が無能だからこんな事になったのよ。何が警察よ、何が探偵よ。詠国人と来たら、どいつもこいつも揃って使えない馬鹿ばっかりよっ……離しなさいなゲオルクっ。こんな人達には構っていられないわ。犯人は、私が、私と貴方が捕まえるのよ……いいえ、もうそれだけじゃ足りない。もっと早く、速くだわ。捕まえる前に捕まえてやるのよ。罪を犯す前に捕まえてやる。生まれてくる前に捕まえてやる。捕まえてやる、捕まえてやる捕まえてやる捕まえてやる……面白い事を言う少女だね、彼女は。ちょっと、いやかなりそそられたよ。」

 そう言ってディルクは肩を竦めた。

 それが出来ればどれだけ楽な事だろうと言いたげな様子で。

 アレックスは、ディルクの言葉を頭まで入れずに、ただ呆然と佇んだままだ。

 ノイラはと言うと、ずっとアナベルを見つめていた。

 青い瞳を向けて、まるでその怒りを記録しているかの様に。

 そして彼女達が去って行くと、アレックスに寄り添いながら、何時もの如く鈴の様な声で彼の名前をそっと囁く。

 アレックスは、それにすら反応せず、ただ虚空を見つめ続けていた。


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