第十一章 紅葉の森で捕まえて
この後もアレックス・ボールドウィンとノイラ・D・エディソンは、他にも幾つかの犯行現場を見て回った。特に新しい発見事も無く、推理も進まなかったが少女に取っては現場に脚を踏み入れるだけで充分だった。
空想の下地となるべき現実は、人工頭脳の中で着実に構築されて行くのである。
その一方、二人の間に流れる空気は気まずいを通り越して、不穏極まりないものになっていた。会話も殆ど無く、またノイラはアレックスの方を見る事も無く、その視線は現場に残された跡を追って行く。
その一挙一動が、彼の心を抉った。
結局ずっとその様な感じで事は進み、ある程度見終えてから解散と言う事になった。ノイラを博士の元へ送っている最中も勿論会話なんてなされる筈が無く、重苦しい空気がアレックスに圧し掛かる。尤もこの時同情するべきは、彼よりも馬車を走らせる御者であったのは間違いあるまい。
そうしてノイラをエディソン邸まで送って行くと、アレックスもまた己の家へと戻った。何時もなら仕事の後で行き付けのパブに寄り、エールの一杯でも引っ掛けてから帰るのだが、今日の彼はそんな気分では無かった。
画一化された論曇の通りが一つの、建物の二階にある部屋に入ると、アレックスは靴も脱がないでベッドに飛び込んだ。
酷く疲れていた。肉体的にでは無く、精神的な疲労が蓄積されていた。
慣れない事をするべきでは無い、と、アレックスは、もう何度目になるか解らない上司への呪詛の言葉を思った。それでグラント・ヒル警視の心が変わられるならば、幾らでも舌と口と喉を動かそう。
そういえば報告をしていなかった。自由な身であるとはいえ、やはり一言何か言っておくべきだったか。だがまぁそれも済んでからで……済むかどうかは置いておくとして、だ……良かろうと思いつつ、彼は仰向きに寝そべった。
やがてその心は、今日出逢った少女によって埋まって行く。
ノイラ・D・エディソン。
外見は乙女だが、しかし中身は機械の美しい人形。
人間の心を理解したい、とまるで人間の様に望みを口にした存在。
自分が彼女に対して言った言葉は、余りに辛辣であった。例えそれが人形であったとしても、また本心でそう思っていたとしても、言い過ぎであったと言うより他あるまい。あれには酷い事をしたものだ、と彼は反省した。
と同時に、明日はどうしようかという悩みが浮かび上がる。去り際の様子からすると、ノイラは捜査への協力、探偵としての活動を諦めるつもりは毛頭無いらしい。このまま仲違いして別離、と言う訳には行かなかった。
明日になればまた彼女の家に出向かなければならない。
そう思うと、気が重くなった。勿論、自業自得だったが。
俺は人間として他人の、いや他人形と言うべきか、ともあれその心が解らない様な、冷血漢なのだろうか。
そう彼は寝返りを打ちながら、思い悩んだ。
そんな事は無い、と思いたかったがしかし実際の所はどうだろうか。ただ単に自分でそう考えているだけで、実際は人形以下の存在なのでは無かろうか。
狭く、余り整理されていない部屋の様相をぼぅと眺めながら思考するアレックスはふと、過去の事を思い出した。
それはもう十年近く前の事、彼が父親同様に警官になると家族の前で話した時の事である。父親は元々息子もこの家業へと考えていたものだから大いに喜び、母親もまた立派に成長した倅の言葉に涙を浮かべたものだ。
だがただ一人、彼の年の離れた妹だけは違っていた。
「あんな職業に就くなんて、正気ですか兄さんはっ。」
彼女がそう言ったのも無理からぬ事である。
妹が生まれた時、父親は現役真っ最中であり、あちこちの事件に奔走して家でゆっくりする様な事は稀だった。酷い怪我を負って帰って来たという事も少なくない。十歳も年の違う兄と妹の仲は当時大変良く回りからも羨まれるものだっただけに、彼女はアレックスをそんな目に合わせたくなかったのだろう。
それでも結局警察官になった兄に対し、妹は暫くの間口を開こうとしなかった。
だが二週間程経ったある日の事、新米として論曇を駆けずり回りへとへとになって帰って来たアレックスへ向けて、彼女は銀の懐中時計を投げ渡したのである。
「いいですか、私は認めて無いのですよ?
ですがどうしてもと言うならば……認めてはいませんからねっ。」
「……ありがとう、アデル。」
顔を真っ赤にしてそう言う妹に、兄はかつてした様に頭を撫でてやった。
その時計は大した細工が施されている風でも、特に有名な職人が作ったという訳でも無い。
それでも十歳に満たぬ少女が手に入れられる様な代物では無く、それを手に入れる為にした彼女の努力を思うとありがたくて涙が出る。既に使い始めてから何年も経過しており、幾度も故障している。
だが、その都度アレックスは修理し、大切に使っていた。
それは勿論感謝もあったが、謝罪の意も含んでいた。
警察官になった後も、何かにつけて妹はその事を批判したからだ。
「警官だなんて、早々に辞めるべきだわ。
兄さんったら、全然家に帰って来ないんだから……父さんみたくっ。」
それは確かに事実である。アレックスはすまないと思っていた。
だからこそ、彼女のくれた時計を後生大事にしているのである。だが同時に、その言葉に首を傾げたくもなった。別に今生の別れでも無いのに、どうしてここまで毛嫌いするのか。
その理由は解るが、少々度が過ぎていないだろうか。
或いはそれは自分がただ単に鉄の様に鈍い為かもしれない。口を尖らせて辞めてしまえと繰り返す妹の心を、アレックスは完璧には解らない。そして今も解っていない。
それをして、彼は己が冷たい人間では無いかと訝しがったのである。
その想いの焦点は、思考の連鎖によりやがて本格的に妹の方へと移って行く。
彼女は、アデルは今何をしているだろうか。
父親が長年の労苦で体を患い、仕事の所為で残らざるを得ないアレックス以外の家族は、療養の為に論曇を離れて行った。あのブロンドのウェーブヘアが可愛らしかった少女は、自分も残ると泣いて喚いたものだが結局両親に付いて行く事になった。以来、彼女とはなかなか逢えずに居る。半年に一度は顔を出しに戻るし、手紙での遣り取りもあるのだが、最近は忙しさにかまけてどちらもご無沙汰にしている。年齢で言えばもう十七を超えた頃だろう。この時期の成長は早いもので、さぞ立派な女性になっていると思われた。ただ中その内面は、手紙の文面や最後に帰宅した時の言動を思い出すにそれ程変わってはいない気がしたが。
懐から取り出した銀時計に映る間抜け面を見つつ、あれは外見だけで無く中身までしっかりしていると良いが、とアレックスは棚の上に置かれた、家族で撮った写真の中のアデルを眺めつつ夢想する。
そしてはたと、そんな事を考えてしまっている自分が如何に不健全であるかという事実に気が付いた。いかんいかん、と頭を振りながら体を起こす。遠く離れた家族へと逃げるなんて、普段の自分からは考えられない醜態だ。
顔でも洗ってもう寝よう。
アレックスはベッドから立つと、洗面台へと向かった。
ふとその時、アデルとノイラの顔が重なって、心に描き出された。
何故なのかは自分でも解らない。
何処か似ていたのだろうか、いやありえない。
そう彼は自分の問いに自分で応えながら苦笑した。
機械であると言う点を考慮せずとも、性格にも見た目にも両者には余りにも開きがあったのだからだ。特にその性格、良く言えば明朗快活、悪く言えばおてんばの妹とあの冷静で沈着な人形では何処にも結び付かないし、噛み合う筈が無い。きっと出逢ったら、火花を散らす争いをしでかすだろう。
まぁまず逢う事もあるまいか、とありえない空想を楽しみ、少しは心を癒しながら、彼は洗面台への道を急いだ。