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エビデンスベース_コ・メディカル_ネットワーク

 個々人の自由な行動で、秩序が自己組織化されるという革新的なシステムにより、人間社会は大きく発展をした。

 このシステムには、統制者が存在しない。だからこそ、個々人の自由が認められている。そしてだからこそ、統制の限界を超えて、社会を安定させられる。

 複雑なシステムを統制により制御しようと思っても、それが不可能である点は、数多くの研究から分かって来た。そしてそういったシステムには、自己組織化が利用されているという事も。何億という単位の細胞で構成されている生物の身体はその代表例だし(もっとも、細胞一個だけでも、統制という概念では扱い難い複雑性が存在するのだが)、アリなどの社会でも同様で、統制ではなく、自己組織化が利用されている。

 その昔、わずか数百人単位で構成されていた村社会でなら、統制という発想でも社会を維持安定させる事ができた。しかし、人口が増えてくると、社会の維持は難しくなり、世の中は乱れ、そして数多くの戦争が起こったのだ。

 これは“統制”という発想には限界があるという証拠の一つである。

 しかし、人類はその苦悩と悲惨なる失敗の歴史から、自然と自己組織化による社会システムを産み出した。それこそが、資本主義システム、及びに民主主義システムだ。

 自己組織化を扱う学問は、一般的に複雑系科学と呼ばれている。アダム・スミスが『神の見えざる手』と表現したものは、フィードバックという概念で説明ができ、この複雑系科学でも扱われている。

 しかし、もちろん、この自己組織化は万能ではない。それに、台風や竜巻は、自己組織化現象の一例だが、迷惑な代物だ。つまりそれは常に良く作用するとは限らない。

 資本主義システムでもそれは同じだ。悪く作用する場合もある。資本主義の一つ、市場原理主義などというものは、単なる信仰に過ぎないのだろう。実際、金融経済では歴史上、何度もバブル現象と言われる大問題が起こっている。金融経済は市場原理と、相性が悪いと言わざるを得ない。その欠点をカバーする為の何からの仕組みが必要だろう。

 そして、実は、“医療”もこの資本主義システムと相性が悪いのだ。

 理由は単純だ。市場原理は需要と供給のバランスで成り立っている。供給量が少なく、需要が多いのなら料金は上がる。そして、料金が上がれば、需要は下がる。市場原理ではそう想定されている。ところが、医療においては料金が上がっても需要は下がらない。

 軽傷や軽い病気程度なら、需要の低下も有り得るだろうが、重傷や難病となれば話は別だ。当たり前だが、医療費が高くなっても、怪我や病気は治らないからだ。そして、需要が下がらなければ、料金も下がらない。

 これは需要面の話だ。このように需要面だけを考えても、充分に医療と市場原理の相性の悪さが分かるが、それだけではない。供給面を観ても、相性が悪い。

 需要が下がらないのであれば、供給量を増やせば料金は下がるはずだ(市場原理においては、供給不足ならば、企業が自然と供給量を増やすと想定されている)。ところが、医療においてはこれも難しい。

 何故なら、医療には高度な技術や知識を持つ専門スタッフが必要とされるのが普通だからだ。そして、そういった専門スタッフを、短期間で増やす事は難しい(また、そもそも、それでコストが増えれば、医療費に上乗せされるため、医療費は下がらない)。

 その為、供給量は急には増やせない。

 結果、市場原理下において、医療の料金は上がり易く下がり難いという性質を持つ事になる。医療に市場原理を導入すると、医療費が高くなってしまうという懸念の声があるのは、だからである。更に付け加えるのなら、仮に料金が下がったとしても、医療費の安値競争が起き、医療サービスの質を低下させてしまう危険性もある。

 当然の話ではあるが、この問題を解決するのには、需要を下げる事と、医療サービスの供給量を上げる事の二つが考えられる。医療の需要を下げる事は、病気の予防によって実現できる。供給量の増加は、地道に医療スタッフを増やしていくしかない…と、一見は思えるのだが、実は情報技術の活用によっても可能である。

 インターネットを経由しての診断や医療薬の郵送で、ある程度は供給量を増やす事ができるはずだ(もちろん、反対の声も多くある手段なのだが)。

 そして、情報技術の活用手段は、まだ他にも存在する。しかも、予防と治療の両方面への働きかけが可能な手段が。

 それはエビデンスベースメディシン(以下、エビデンスベース医療と略す)のネットワークでの活用だ。エビデンスベース医療は訳すと“根拠に基づいた医療”となり、科学的根拠に基づく医療であると説明されている。

 学問として体系化されているのだから、充分に科学と呼べるのではないか、と医療を考えている人間も多いだろうが、ここには誤解も多くある。実は医療は医師個人の経験に多くを頼るものでもあるのだ。だから、医師(または病院)によって診断が大幅に異なるという事もよくあるし、その治療方針が違ってくる事もよくある。医師によって診断結果、治療方法が異なるからこそ、セカンド・オピニオンという制度が存在するのだ。

 例えば、新型うつ病と呼ばれるうつ病があるが、これをうつ病だと認めていない精神科医も多い。人格障害、或いは他の病気、または本当は病気ではないと判断する者もいる。

 その他にも、湿潤療法の効果が実験的にも臨床上でも証明されていたにも拘らず、この療法を拒絶していた医師が多くいたというケースも存在する。医師(病院)によっては、この効果的な療法を行っていなかったのだ。これは患者にとっても、医療資源の活用という意味でも大きな損失だろう。

 そういった問題のある医師独自の診断及びに治療方法を、より多くの統計結果に基づくものへ変えようというのが、このエビデンスベース医療だ。

 しかし、その為には、病や怪我などの状態を明確に判断し、その治療結果をデータとして客観的に判定し、残さなければならない。その為、明確に分かる症状によって、病気を分けるという事が必要になってくる。

 となれば、当然、単純な症状による分類が基本となって来るのだが、その点を問題だと指摘する声もある。

 心理的な病気の場合は特にそうだが、症状は同じでも原因は全く違うというケースは多くあるからだ。

 だが、それも、より多くのデータを子細に積み上げていけば、いずれは解決できる問題なのかもしれない。もっとも、その為には、究極の個人情報とも言える遺伝子の情報、そして、その発現に関わる後天的要因の情報提供までもが必要となって来るのだろうが。


 20XX年。

 エビデンスベース医療が、インターネットと結びつき、遺伝情報にまで関連されて活かされるようになった。

 ――仮にあなたがそんな世界にいたとしよう。

 あなたのいるその世界では、自分の遺伝情報を知る事で、自分の身体の特性を知り、病気の予防も可能となっている。

 癌になり易いのなら、同じ遺伝情報を持つ人間の実例を参考にし、その為の予防策を立てる事ができる。もちろん、早くからの予防の為には医療従事者以外にも情報は提供されなければいけない。

 だから、申請する必要はあるが、この世界では誰でも自分の遺伝情報に基づく有効な治療方法及びに予防方法を、インターネット経由で知る事ができるのだ。

 あなたは生活習慣を、その情報によって決めている。もっとも、同じ情報から複数の解釈が可能だし、一長一短があるから、どれが良いとは一概に言えない。偶には生活習慣を変え、別の食べ物を食べたり、変わった事もしてみるべきだろう。

 この情報は医療を離れ、美容目的でも使われている。ネットや雑誌やテレビなどの記事では、遺伝子の型別に、どのような生活を送れば痩せられるのか、肌に良いのか、またはバストアップに効果があるのか、などといった内容が毎日のように掲載されている。

 しかし、皮肉な事に、そういった記事の信憑性はかなり怪しい。

 つまり、科学的根拠に基づく医療を目的とした情報の蓄積と公開が、新たに非科学的な情報を産んだ事になる。人間とは、いつまで経っても誤情報に踊らされるものなのかもしれない。

 あなたはテレビのそんな番組を、軽く馬鹿にしている。今は朝。出勤前。あなたは朝食を取っている最中。

 もちろん、その食事の内容もエビデンスベース医療の情報に基づいている。予防は何よりの医療。それは、既に世の中の常識でもあった。

 高齢社会に突入した時代では、医療資源の枯渇は社会の大問題だ。かつてのように、高齢者が少ない時代とは違う。もし、多数の人が予防を怠れば、医療費は高騰し、簡単な病気で一財産失う時代がやって来てしまう。

 日本で長く続いた医療費が安価な時代。健康に気を遣う事を馬鹿にするような風潮が一部の人の間で生まれたが、それは安い医療費という恵まれた社会体制こそのものだったのかもしない。生活の事を考えても、医療資源の無駄遣いは絶対に避けなければいけない。

 ――医療資源の無駄遣いを抑える。

 そしてそれは、延命治療の是非を問う流れにも直結している。

 延命治療とは、主に老衰で後がない高齢者達の命を繋ぐ為、強引な手術によって、無理矢理に存命させる処置をいう。“治療”という言葉が入ってはいるが、治療ではない。老衰は病気ではないから、そもそも治療の対象にはなり得ないし、実際、治りもしない。不老不死など実現できるはずもないからそれも当たり前だ。

 通勤電車の中。あなたはふと電車内の広告に目を向けた。雑誌の見出しが、仰々しい文字で踊っている。

 『患者を殺した医師達』

 それは、そんなタイトルだった。どうやら、延命治療の中止を行った医師達を糾弾する内容らしい。

 あなたはそれを見て軽くため息を漏らす。

 延命治療を否定する人間達がいる。しかし、そこには多くの誤解もあるのだ。

 まず、実は延命治療は大変な苦痛を伴うものらしい。鼻から管を通して栄養を供給する経鼻経管栄養法や、腹に穴をあけて直接胃から栄養や水分を供給する胃ろう。いずれも患者本人が大変に嫌がり、チューブを外してしまおうとするのだという。そして、それを防ぐ為に、手足を縛る事もあるらしい。

 また、他者の目から見ると悲惨に思えるが、老衰で死に行く人間には、実はあまり苦痛がないともいう。脳内麻薬が分泌をされるからだそうだ。ところが、延命治療によって意識を覚醒させると、苦痛が蘇ってしまう。

 こういった事実を考えてみると、延命治療反対派が、「延命治療は拷問にも等しい」と表現する意味も分かる気がする。

 何をもって延命治療とし、何処から線を引くのかといった問題はあるが、本人の為にも、医療資源の確保という意味でも、延命治療を止めるという選択肢は重要な意味を持つ。日本の医療の基本方針は、延命治療を避けようとする傾向にあるが、まだ社会にその理解は充分に得られていない。

 「こればかりは、いくらエビデンスベース医療を普及させても解決できない」

 あなたはそんな独り言を呟いた。延命治療の改善の為には、人々の意識を変え、社会にその為の基準を作っていくしかない。“治療”という状態が存在しない延命治療には、科学的根拠を求める事はできないからだ。敢えて言うのなら、苦痛を与える手段を避けるくらいだろう。

 昼休み。あなたは昼食を執る為に、社員食堂へ向かった。社員食堂で健康の為の献立が提案されることは、昔からよくあったが、エビデンスベース医療が普及してからは、より個人の特性にあったメニューの提案がなされるようになった。

 自分はこのタイプだから、選ぶべきメニューはこれだ。などと、その日の食事を何にするか決めるのだ。

 そして、不思議とそうやって選んだメニューは美味しく感じもした。もしかしたら、身体に合った料理だからかもしれない。もっとも、単なる思い込みである可能性も、否定できないが。

 午後。急にあなたは忙しくなった。五時までにどうしても終わらせなくてはならない仕事ができたのだ。

 あなたは集中して、何とか仕事を片付ける。一時は緊張したが、無事終わった。一息。それからあなたは、リラックスしようと休憩室に向かった。しかし、その途中だった。あなたの視界は、急に真っ暗になったのだ。

 次に目を覚ました時、あなたは見慣れない部屋にいた。とても清潔そう。病室だ。そう。そこは病院だった。

 状況が理解できない。

 あなたが声を上げると、しばらくしてから看護師がやって来た。

 「あら? お気づきになられたのですか」

 看護師はそう言った。

 あなたが状況の説明を求めると、「あなたは会社で急に倒れ、それから救急車で病院に運ばれたのです」と、その看護師は説明した。

 「多分、仕事疲れが出たのだと思いますよ」

 不安を取り除こうと、看護師はあなたにそう言ってくれた。しかし、あなたの病はそんなに軽いものではなかったのだった。

 数日後、医師から連絡を受けたあなたが、病院に行くと、そこでこんな検査結果を聞かされた。

 「あなたの病気は、大変に珍しいもので、遺伝子が関与しています。もっとも、それが発現するかどうかは、環境に因るのですが。このままでは、命に関わるかもしれない」

 もちろんあなたは、治療方法を尋ねる。すると医師はこう返した。

 「残念ながら、治療方法は一般には知られていません」

 あなたはそれにショックを受ける。しかし、医師はそれからこう続けるのだった。

 「落ち着いてください。まだ、治療できないと決まった訳ではない。私は“一般には”という表現を使いました。一般には知られていなくても、治療成功例はあるかもしれない。それを今から探すのです。

 データベースを単純に検索しただけでは、発見できなかったが、詳しく探せば何かヒントはあるかもしれない。実は公開セキュリティレベルが高いものは、簡単には検索できないようになっていまして、そういった中に、あなたの治療に役立つものもあるかもしれないのです」

 膨大に蓄積された遺伝子情報と後天的要因の情報。そして、それに対して、どんな治療を行ったかという実績の失敗例と成功例。

 情報の海の中から、自分と一致するそれを見つけ出す。

 あなたの担当医師は、あなたから情報公開の許可を得ると、それをそのネットワーク上に流した。

 医療に関わる者達の間で繋がったネットワークは、その瞬間から動き始めた。その情報は、瞬く間に広がっていく。たくさんの医師やその他の医療従事者達が、それを目にする。自分の記憶を探り、何か有益な情報を知っていれば、レスポンスをする。

 彼らはネットワークで繋がれたチームなのだ。

 それは、ある意味では、社会全体でチーム医療を行っているようなものなのかもしれない。彼らのお蔭で情報は容易に手に入れられる。

 もっとも、あなたの罹った難病は、とても珍しい。その病気の治療に成功した者が仮にいたとして、自分の遺伝情報と後天的要因の情報を医療に提供しているとは限らない。もし、そんな人間が誰一人存在しなかったなら、それで終わりだ。

 あなたはそんな不安を覚える。

 しかし、それは杞憂だった。それからわずか一日で、あなたは医師から連絡を受けたのだ。自分の遺伝子と後天的要因に合致したある人物が、幸運にもその治療に成功しているらしかった。

 医師はあなたに告げる。

 「これなら、なんとか治療できそうです」

 あなたは、もちろん歓喜した。


 それからあなたは、無事治療に成功し、まだ影響はあるものの、普通に生活を送れるようになった。

 そしてあなたはこう思ったのだった。

 治療成功例の情報を提供してくれた人物に、何とかお礼がしたい。その人物は、自分にとって命の恩人も同じなのだ。

 あなたがその人物について知っているのは、遺伝子情報と抽象的な後天的要因の情報だけ。何処に住んでいるのかは分からない。もちろん、どんな姿をしているのかも、職業も年齢も全く不明。

 しかし、遺伝子情報からは、ある程度の人種と人となりの特定が可能だった。そして、もちろん、抽象的な後天的要因情報からも、読み取れる情報はある。漠然とではあるが、年齢の特定も可能だ。

 あなたは自分の意図を説明した上で、インターネット上で、是非ともその人物に感謝がしたいのだ、とその漠然とした情報を拡散した。

 そのあなたの訴えは、感動的な話として、一気に話題に上り、多数の情報が寄せられる。ツイッター。掲示板。SNS。悪戯や勘違いがほとんどだったが、やがてあなたは確信の持てる情報を見つける。

 その人物は、SNSの利用者であった為、あなたは直ぐにメールを送れた。すると、期待した通りに、その人物は、本当に病気に関する情報の提供者だったのだ。

 あなたは感謝の言葉を述べ、お礼をした。そして、その話は感動的な実話として、直ぐにネット上で話題となったのだった。

 が、その影響はそれだけに止まらなかった。

 医療の為の情報で、個人が特定できてしまった。この出来事には、そういった側面もあったのだ。

 直ぐに、情報公開についての議論が始まり、規制の為の案が出された。

 あなたはそれに責任を感じる。

 犯罪ではなく、こういった平和な話で問題提起ができた事は、むしろ社会にとって有益だったと慰められもしたが、それでも気が治まらなかったのだ。

 だから、エビデンスベース医療の高度な情報共有の芽を摘まない為にも、自らの遺伝子情報と後天的要因の情報、そして今回の治療成功の情報を、医療に提供する事を、あなたは決めたのだった。

 それが、自分と同じ様な病気に苦しむ人の役に立つと信じて。


 一つの試みには、メリットともデメリットもあるのが普通だ。それを把握し、どう有益に役立たせるか。それは、いつの時代のどんな制度にも言える事なのだと思う。一つ、欠点があったからといって、全否定をするのは間違っているだろう。


 (因みに、エビデンスベース医療を進めるアメリカでも医療費が高いので、これだけでは医療費を抑えられはしないだろうと思われます。もっとも、アメリカは肥満率がとても高いので、予防という意味ではかなりの後進国だろう事が推測され、それが医療費の高騰に結びついているだろう要因も無視できません)

需要と供給の話しかしませんでしたが、もちろん、医療費にはコスト面の問題もあります。供給量を増やしても、コストが増えるのならば、やはり医療費は高いままです。


タイトル長いですね。

「市場原理を導入すると、医療費が高くなる」とよく言われるのに、どうしてなのか説明されているものが少ないので、それに絡めて書いてみました。

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