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matataki

雨のち水田

作者: 大橋 秀人

 瞬くと、円、円、円。

 円が広がっては消えていく。

 それは無数に、まるで巨木の万葉のように咲き誇っていた。

 タオルを頭に巻いた男はしゃがみこみ、刹那に消えてしまうその円の中心に浮き立つ、ひどく純粋な水玉に見入っていた。円が広がりきる前になくなる水玉を見守っているわけだから、一つ一つに視線をあわせるのではなく、漠然ととめどなく生まれては消えるそれらを眺めていた。

「風邪、ひきますよ?」

 気付くと体中を打ち付ける雨が傘に遮られていた。男はにわかに我に返り、その差し手を見上げた。そして、すまないね、と力なくつぶやいた。

「どうして加藤さんが謝るんですか? なにも悪くないのに」

 女は少し怒った風に言う。

「いや、せっかく遠いところから来てもらったのに、ついてみたら雨だからできませんなんて・・・面目ない」

 前方を見たまま無骨な男は苦い顔をする。

「田舎だから、泊まってもらってもなにも遊ぶもんなんてありません。きっと退屈に思うでしょう。せっかくの連休が台無しだ」

 男は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「謝らないでください。田植えの体験ができなかったのはたしかに残念ですけど、私はなにもそれだけを目的にしてきたわけではないですから」

 女は前方に広がる一面の田園風景を前に、すっと息を一つ吸い込み、

「私、好きなんですよね、このにおい」

 と笑った。

「田舎の、泥臭い水と雑草のにおいです」

 男は立ち上がり、がっちりとした体を丸めて言った。

「加藤さんは、ここが嫌いなんですか?」

 女は一つ歩み寄り、同じ傘に入った。

 いや、と男は首を降る。

「田舎だけど、俺にはここが一番だ」

 まるで諦めたかのように笑うと、

「雨が降っても、田んぼは田んぼ。俺には綺麗に見える」

 と前方のどこか遠いところに視線を合わせた。

「確かに、雨が降っても、綺麗ですよね」

 男は、ああ、と雨音に消え入るくらいの声で頷いて見せる。

「晴れたときも、雨の日も、風が強い日も、その日その日で表情が違う。全然変わらないみたいだけど、じっとみてるとたしかに変わっている。水辺には小さな生き物が暮らし、草花は季節ごとにその色を変える」

 強い雨足が水田にまた新しい顔を浮かべさせていた。

「俺には見える。ここがこれからどう変わっていくか。これからここに小さな苗が植わり、青々とした稲が育ち、地面を埋めていく。それで、小さな穂が実り、次第に膨らみ、干ばつや台風みたいな困難を乗り越えていく過程で次第に稲は黄金色に変化していく。その頃には、穂はまるまると太っている。稲刈りをして、田んぼは五分刈りにされ、しばらくしたらまた耕される。そして冬を越え、また春になると、新しい米作りの下準備が始まる。その頃にはここには水が張られ、今と同じ景色が広がるって訳さ」

 男は頭の中でその光景を思い浮かべながら一気に話した。同じ一年が繰り返されていく人生。それに生きがいと安らぎを感じている自分に、男は最近気がついた。

「私もその光景、一緒に見てみたいな」

 女のその声に男はハッとした。そして、

「つまらない話、しちゃったね」

 と自嘲気味に笑った。

「加藤さん、私もその景色、一緒に見ていいですか」

 女は前方を眺めていた視線を男に移してそう言った。真剣な眼差しがそこにはあった。

 男はそれを受け止めきれず、目をそらしながら、

「いつでも遊びにおいで」

 とだけ答えた。

「加藤さんはお米作り、遊びでやってるんですか」

「そんなわけないだろ」

「じゃあ、私も真剣にお手伝いします」

 女の言葉にため息をつき、男は再び水田を眺めた。

「あのね、米作りはその場で簡単にできるものじゃないんだよ。これから毎日毎日水まわりにいって水量を調節したり、病気が出ないか見たり、ほどんどが日頃の地味な作業ばかりだ。あまり面白いことなんてないんだよ」

「じゃあ、それもお手伝いします」

「いや、それをするためにはここに住まなくちゃいけなくなるぞ」

「はい、住みます」

「え? いやいや、そんな簡単に住みますって…」

 男は困惑したが、確かめた女の眼差しは真剣そのものだった。

「ここに住んだら、お手伝いさせてもらえますか」

 その言葉の勢いに男は思わず肯くと、女は笑顔を弾かせた。

「でも、ここらへん、アパートなんか一つもないぞ?」

 そんな素朴な疑問に、

「え、加藤さんの家に泊めてくれないんですか」

 と女は困った顔を見せた。

「うち? 家でよかったら歓迎するよ」

 男は驚いたが、引くに引けずそんなことを言うと、言ったそばから女は喜んだ。

「じゃあ、早速引越しの準備をしなきゃ」

 と嬉々として言う。

「そんなに早く?」

 と問うと、

「これから田植えが始まるんだから、当たり前じゃないですか」

 と女は当然のように答えた。

 男は状況がいまいち飲み込めず頭を掻いたが、目の前に広がる田園風景を一緒に眺めてくれる、それを好きだと言ってくれる人が出来たことを思うと、なんだか素直に嬉しくなった。

 雨は降り続いている。でも、明日はきっと晴れだ。

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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは、つばきです。私の実家も田舎です。10代のころには、その匂いとか、気持ちを澄まさなければ感じない雰囲気とか、全然わかりませんでした。成人式を過ぎて、少し便利な生活をして、ようやく故…
2012/05/10 21:17 退会済み
管理
[良い点] 大橋先生こんちは。今作は正に大橋ワールド。淡々としていながらどこか心落ち着かせてくれる優しいストーリー。流石恋愛物?では大家ですね。 あんまり褒めすぎるとボロが出るので・・・。 すっきり…
[一言] 後半の加藤さんと女性のやり取りはほのぼのしていてつい、微笑んでしまいたくなるような展開ですね。 この女性、加藤さんに相当好意を抱いているようですが、二人の関係って…。 冒頭の部分では、た…
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