この低みに浸っていたい
うつ病で休職してから二ヶ月になる。まさか大人になってから、こんなにも時間が長く感じるとは思わなかった。昼間に起きたとしても、何一つやることがなく、何一つする気がおきない。上司がこれを聞けば、「『療養』をやれ」と呆れて息を吐くだろう。職場は大変な人手不足のはずだもの。
しかし、今の自分にそんな言葉は場違いであった。
以下は脳内での、私と「仮想上司」との会話である。
「おい三上、なんで昼間に起きてる? まずは生活習慣を直すところからだろ」
「すみません山田さん、直すきっかけが見つからないんです。もちろん治したいとは思っているのですが、何かアクションを起こそうとするたび、身体が磁石みたいな感じで、元の場所へ引かれていくんです。『場所』というのは布団のように物理的なものだったり、生活習慣や思考法といった精神的なものだったりします」
「引かれるって……お前が自分で引いてるんだろ」
「はい、理屈としては分かってます。でも体感としては『引かれる』という表現が何より適切に思えるんです。なんと言うんでしょう、本当は引かれているのでなく、新しい価値観へ踏み出そうとすると激しい嫌悪感を覚えてしまって、自然と元の位置へ戻っているんです。その嫌悪感というのがどうしても自分由来に思えなくて、『引かれる』と言うしかないんです」
「…………俺らも同じような気がするがね。誰でも新しさには警戒するし、それを乗り越える勇気というのは、どんな場面でも必要とされるものだ。そういう意味では、必要なのは『療養』より『理解』じゃないのか? 君は仕事場での様子を見るに、世界に対して何かを期待しすぎているんだよ。そんな甘いもんじゃないって受け入れれば楽になるんじゃないか?」
「ええ、そうだと思います」
「……嫌に素直だな」
「分かってるんです。分かってるんですよ。でも私たちはたいてい、知識として理解しても、それが価値観を変えることなんてほとんどありません。それでいて『世界はこんなもんだ』という体験をしても、一回キリの実感で何が変わるんでしょう。いえ、変わって欲しいんですよ。そうすればこんな私はいないんですから」
「じゃあ八方塞がりじゃないか」
「そうかもしれませんね。いずれは退職も選択肢に入ってくるでしょう」
「……さっきから思うんだが、語り口が他人事すぎやしないか?鬱も休職も君自身のことなんだぞ? それをさも、明日の天気や心理テストの結果みたいに言っている。『治す』ことをどこかで諦めてるんじゃないのか」
「…………赤裸々なことを申し上げますと、『諦める』というより『安定している』と言う方が正確でしょうね。客観的に見れば、今の私は最悪の状態でしょうし、事実として散々なコンディションで日々を過ごしています。それでも、このエネルギーで安定してしまっているんです。どこか別の状態へ移ろうとすれば、また大きなエネルギーが必要になるでしょう。先程言った『引き戻される』というやつです。きっと今の私は、異常であることが正常なんだと思います」
「それが元に戻る見込みはあるのか?」
「分かりません。私には布団にくるまって絶望する今しかないんです。それは皆さんも同じじゃないですか。思い出したくない過去だの、そんな過去が増えるだけの未来だの、全ては空想でしょう。人間には想像力がありますから、夢や希望を創り出せるのかもしれませんが、今の私には無理です。未来へ進もうとするごとに、何度も言いましたが『引かれる』んです」
「……絶望的だな」
「はい。始めから全部そうでした」
「俺としては、こんな会話に意味はないと思うんだがな。結局、俺だって想像力の産物だろ。今までの自問自答全てが、お前を低みに居させるための……『引く』動作だったんじゃないか? じゃあ、お前を鬱に追い込んでるのは仮想上の俺なのか?」
「いえ、あなたに責任はありません。全ては私の落ち度でしょう。勝手にエラーを起こし、勝手にバグを放置し、勝手に他者でお人形遊びを始めるんですから。もう救えませんね」
「代わりに『療養』……とは言わなくても、小さいことからやってみたらどうだ? 例えば、デリバリーでもいいから美味しいものを食べたり、あるいは簡単なスマホゲームでもやってみたり、自分の視線を自分から逸らしてやるのがいいんじゃないか」
「やめてください。何度も言ったじゃありませんか。感覚として、私は何かに『引かれている』。事実としては、自分が自分を鬱状態に押し込めている。おそらくは本能が犯人でしょう。私はこの絶望の中にいたがっている。今はそれしかないらしいのです」




