魔族の誇り
石造りの廊下を歩きながら、タクトはようやく実感していた。
――本当に、異世界に来てしまったのだと。
「こちらです。タクト殿」
先導するのは、魔王グレシアの側近だという男――ゼフ。
神官を思わせる装束に、年齢の読めない穏やかな顔立ち。だが、その足取りには一切の無駄がなかった。
案内された客室は、城の一角にある静かな部屋だった。
質素だが整っており、人間の宿と大差ない。
「……意外ですね。もっと禍々しい部屋かと」
「ほほ。今の魔王城に、そのような趣味はございません。まあ我々、魔族の独特の見た目は変えられませんが」
ゼフは淡々と答え、扉を閉めた。しんと静まる部屋に緊張感を覚える。
「さて、タクト殿」
振り返ったゼフの表情から、わずかな柔らかさが消えていた。
「先にお伝えしておきましょう。グレシア様が、なぜ争いを好まれぬのかを」
タクトは背筋を正し、黙って頷く。
「先代魔王と、その伴侶――あの方のご両親は、人間との争いに終止符を打とうとされました」
語り口は静かだった。
だが、一語一語が石のように重い。
「無論、それで全てが赦されるはずもありません。我々魔族は、あまりにも多くを壊し、奪ってきた」
ゼフは一度、視線を伏せた。
「だからこそ、先代魔王様は――奥様と共に自ら命を差し出した。それが、グレシア様の“不殺”の理由にございます」
「……」
「残されたグレシア様は先代ーーいえ、全魔族の誇りでございます」
英雄譚でも悲劇でもない。
ただ事実として語られるそれが、胸に沈んだ。
「人間の憎しみは消えません。今もなお、争いは続いている」
そこでゼフは、ゆっくりとタクトを見た。
微笑んでいる。だが、瞳は笑っていない。
「しかし、例えばもし、人間が先代の誇りに危害を加えるようなことがあれば――」
言葉は、そこで止まった。
それ以上は言わずとも、十分すぎるほど伝わった。
「――大丈夫です」
タクトは即座に答えた。
ゼフは一瞬だけ目を細め、やがて小さく頷いた。
*
部屋で休むだけも暇だったので、許可を得て城内を歩くことにした。今なって異世界転移の実感が湧くのと同時に、あのクソみたいなリアルから脱却できた喜びが込み上げる。
廊下を歩いていくとスライムやオーク、俺の知っている類の魔物が散見された。
彼らは物を運んだり城の補修をしたりと、淡々と仕事をこなしている風に見えた。
それと同時に、こちらに対する魔物たちの視線も感じる。好奇、警戒、困惑。だが、敵意はない。
(……良かった、ゼフさんの通達が行き渡ってる)
いきなり人間が魔王城を歩いていたらおかしいもんな。タクトは納得しつつ、色々な所を見て回った。
だがしかし、城の裏手に回ったとき、空気が変わった。
そこには、広大な花畑が広がっており、淡い紫色の花が一面に咲いていた。
その中央で、グレシアがしゃがみ込み、土に触れている。
玉座にいたときの不機嫌な魔王とは別人のような、穏やかな横顔で花を愛でていた。
(……この人、あれで魔王なんだよな)
不思議と、怖さはなかった。彼女が何年生きているかは分からないが、そこに座り込んでいるのは年端もいかない少女に見える。
――この平穏を、守りたい。
そう、自然に思った。
*
夕食の席でも、その印象は裏切られなかった。
「……普通に、美味いですね」
「む? やはり人間の口にも合うか」
グレシアは得意げに笑う。
並ぶ料理は肉と野菜が中心で、奇妙な部位は見当たらない。
「亡くなったお母様の味覚に合わせとるらしい。我は、この味で育ったからのう」
「……そうなんですね」
「ほらほら遠慮するでない。たくさん食べるがよい!」
その声は、どこか嬉しそうだった。
*
ひとしきり食事が落ち着く。
異世界というあまりに現実と乖離した場所故か、普段は小食の俺が目一杯食べてしまった。
腹ははち切れんばかりだが、目的を思い出して椅子に座り直した。
「俺、行くところがありません」
はっきりと切り出した。
「元の世界には……正直、帰りたくない。もちろん帰れる手段も分かりませんが、俺はここが好きになりました」
「ほう」
グレシアは目を瞬かせる。
「ここで働かせてください。今日みたいに、役に立ちます」
一瞬、沈黙。
グレシアの視線が、どこか遠くを見る。
花畑の方角――いや、もっと遠くを見ているようだった。
「その言葉、本気じゃな?」
「本気です!」
やがて彼女は顔を上げた。
「うむ、ではよかろう!!」
声に迷いはなかった。
「先ほどのお主の機転、実に見事じゃった。我としても軍師が欲しかったところじゃ!」
近づき、手を差し出す。
「軍師として、我の側におれ」
「あ、ありがとうございます!」
こうして俺は、軍師として第二の人生を歩み始めた。




