8、忌まわしき記憶の欠片
麻由は一言で言ってしまえば変わった子だった。
僕らと同じ庭の中にいた頃はみんなが彼女の事をよく知っていたから後ろ指を指されることはなかったが、高校に入ってからそれが一変した。
夕暮れまで頻繁にケンタの散歩に出かけていたこともあって、僕と吾郎と仲良しだった麻由は一緒の高校に通うことを望み、受験勉強を頑張って同じ高校を目指したのだ。
しかし、同じ高校に無事、通うことが出来るようになった彼女だったが、僕達とは別のクラスになってしまった。それが大きな災難の幕開けだった。
麻由自身が自覚出来ていたかどうか定かではないけど、気心の知れた友達のいない教室の中で麻由はいつも独りだった。
夢に描いた理想とは違う残酷な小さな社会。
学校という閉鎖的なコミュニティの中で、麻由は無視される存在だった。それは空気が読めないからだ。
授業中は我慢をして静かに椅子に座って授業を受けていたが、授業が終わるとクラスメイトと仲良くなりたくて話しかける麻由。だけど、上手に会話の出来ない麻由は相手と円滑に意思疎通出来ず、会話はすれ違うばかりで呆れる相手に対して自分の話をするばかりだった。
結果として麻由はクラスメイトと上手にコミュニケーションが取れず、仲間外れになっていった。
麻由のような変わった子に理解のある生徒はいても、目立たないよう務めるために周りとの協調を優先する。
同じ中学に通っていた生徒はいたが、浮いた存在である麻由を積極的に助けるような生徒はいなかったのだ。
常識人を演じる者達の空間で麻由は協調することが出来なかった。
こうして、念願の高校デビューは一学期の内に暗雲が立ち込めた。
別のクラスに割り当てられた僕は心配になってよく教室を覗いて話しかけるようにしていたが、段々とその行為は奇異な目で見られるようになっていった。
それだけでなく、洗面台の鏡の前やトイレの個室に入ったときは独り言が止まらず、彼女は次第に学園の中で有名になり、さらに孤立を極めていった。
一学期の期末試験が迫ったある日、机の上に落書きを沢山書かれてしまい、何を思ったか麻由は笑って僕たちにそれを報告しにやって来た。
僕と吾郎は何事かと思い、麻由のクラスへと急いだ。
そして僕らは目撃した。
木製の机の上に書かれた落書きと呼ぶには生温い無数の誹謗中傷。
勝手な憶測で僕と麻由の関係を揶揄する卑猥な言葉の数々。
真実なんてどこにもない。面白半分で書き殴られたまともな人間であれば登校拒否に陥るほどの陰湿ないじめだ。
ここまで酷い状況に陥っているのだと分かり、悲惨な現実に唇が渇いていく。これは人の善悪を判断できず、まともに抵抗できない麻由が対象だから行った卑劣な行為に他ならない。
僕は必死に怒りを堪えて虚しさに支配されていくが、正義感の強い吾郎は見て見ぬふりをせず、それを見て当然のように激昂した。我慢の限界だったのだ。
麻由の手を握り大声を上げて「誰がやったんだ、出て来い」と叫ぶ吾郎。
吾郎の胸の内にはこれは氷山の一角に過ぎないという想いがあったのだろう。
各々が自由に休み時間を過ごす教室で視線を一斉に浴びる吾郎。
誰も責任を持って自分がやったと答える者はおらず黙り込んだまま。
それを見て当然のように吾郎は感情を抑えることなく机を叩き、さらに声を荒げた。
ピリピリとした緊張感が漂う空気の中、麻由は怒りを露わにする吾郎の姿を見て号泣した。麻由は誰よりもこの状況に堪えられなかったのだ。
「誰も悪くないの。痛くない、痛くないよ、大丈夫だよ」って、どれだけ吾郎の行動を理解していたかは分からなかったけど、懸命に麻由は震えた声で吾郎の怒りを鎮めようと伝えた。
麻由は怖かったんだ……普段は温厚な吾郎が大声で怒る姿が。
感じやすい麻由、麻由の心を傷つけてしまった事を悟った吾郎はたまらず麻由に謝った。
「すまない……俺が悪かった。
怒りたくて怒った訳じゃない。
麻由を悲しませるつもりはなかったんだ」
正気に戻った吾郎は項垂れてしまい、堪らず教室を立ち去った。
衆人環視を集めた異常な状況。すぐにでも保健室に麻由を連れて行きたかったが、麻由は泣きじゃくって立ち上がる気力すらなくなっていた。
やがてチャイムが鳴り響き、教室にやって来る何も知らない先生。
僕は自分のクラスに戻るよう言い渡され、体調を崩した麻由は保健委員によって保健室に運ばれていった。
僕と吾郎にとって忘れることの出来ない悲惨な出来事。
その後、クラスでのいじめが発覚したため、麻由は独りきりの教室で期末試験を受けることになった。
麻由は何も悪くないのに、より孤独感を味わうことになる結果になった。
僕は現実を受け止めらず、胸が苦しくなった。
僕は少しでも麻由の力になろうと試験勉強を手伝った。
罪悪感を負ったせいで吾郎は麻由と一緒に過ごすのを拒絶したけど遺恨を残すのは良くないと僕は無理やりにでも吾郎も連れて行った。
テスト期間が終わり、一緒にケーキを食べて、夏休みを迎えた。
沢山泣いて、また沢山の笑顔を浮かべるようになった麻由。
それは一周ぐるりと回って元の状態に修復したように見えた。
周りが優しくすることが出来れば、麻由は安全な道を歩くことが出来る。
皆と同じように生きることが出来る。
そう僕達は麻由をこれからも守っていくために考えるようになった。
その後、長い夏休みが終わり、二学期になって麻由は元の教室に戻って授業を受けることを望んだ。きっと、自分だけが特別な扱いをされることに耐えかねたのだろう。
麻由のクラスメイト達が心を入れ替えたとは思えない。
でも、僕達の行動一つでこの歯車を変えることは出来なかった。
また残酷な世界へと麻由が連れ去られてしまう。
僕達は麻由を守ると誓ったのに、見届けることしか出来ない。
言葉にしようのない無力感に襲われた。
麻由が僕らのいるクラスに入れたならここまで状況が悪化することも心配になることもなかっただろう。
他者との交流でどうしようもなく傷つき、擦り減らしていく心。
クラスメイトと仲良くなって楽しい毎日を送りたいと願う心はすれ違い、非情にも裏切られていく。
クラスに溶け込むことが出来ず、藻掻き苦しむ麻由は無意識に逃げ場所を探していたのかもしれない。
僕らと一緒に散歩している時の安心しきった表情。
トンネルへと潜っていく時の吸い寄せられていくような姿。
それを思い出すと、僕は堪らず麻由の行動に理由を求めてしまうのだった。




