1、夏の終わりのハーモニー
二〇〇四年十月、例年以上に厳しい夏の暑さは和らぎ、朝夕は肌寒さを覚える時期。落葉や紅葉が咲き乱れる収穫の秋へと向かって青々しさが街から少しずつ消えて行く。
多くの人が待ち望んだ、厳しい夏が終わりを迎える。
そんな、二学期も落ち着き始めたある日の放課後。
高校一年生の僕はリードを掴み、ゆっくりとした足取りで、ある家へと向かって長閑な住宅街を歩いていた。
都市部から離れたこの郊外の町並みも本格的な秋へと向かってほのかに紅く色づき始めている。
足元を見ながらようやく散歩が再開できる喜びを九年間寄り添った愛犬と共に噛み締める。
今から向かう場所までの道のりはもう目を伏せても辿り着くことが出来る程、行き慣れた場所。だから頭の中を空っぽにして歩を進めても僕は迷うことなく会いに行くことが出来た。
不意に風を切って自転車が全力で僕を追い越していく。
遥か先へと遠ざかっていく動的な車輪の音色、僕は何気なく顔を上げた。
眼鏡を掛けた僕は視力が悪く、近視のせいで遠くの視界がピントが合わずぼやけて見えてしまう。
目を凝らして眼前を見つめ続ける。どうやら子どもを乗せた母親が漕ぐ自転車が走り抜けて行ったようだ。
入道雲を視界に入れている間にあっという間に見えなくなる自転車。
心配する愛犬と顔を見合わせる。
そんなに急がなくてもと思う僕の心情を置き去りにして、この世界は変わっていく。
変わらないで欲しいという僕の気持ちを置き去りにして。
再び愛犬と歩幅を合わせて歩き始めると左目が微かに大きな人影を捉えた。この距離間では幽霊と見分けがつかないほどにぼやけてしまう。僕は愛犬が尻尾を振っているのに気付きながら一歩、二歩と近づいていく。
視界に映ったその人物が僕に気付いて、視線を向けていることが近づいてようやく分かった。
変わらぬ足取りで近づいていき、それが見知った腐れ縁の相手であると分かると僕は軽く手を振った。相手は不愛想で手を振ったりはしない。それでも先に到着したのはやはり彼の方だったようだ。
「やっぱり先に着くのは吾郎の方だったね」
「大丈夫だ、待たされた気はしない。俺の方が足が速いからな」
競争をしていたつもりはなかったけど、校門を出たのが同時刻だったから言ってみた。
何時ものように会話を交わし、視線を逸らす。
先に到着していた彼の名前は水口吾郎、そして僕の名前は坂井弘人、彼と今から会いに行く女性は僕の幼馴染
で同級生だ。
似たような住宅がひしめき合う道幅の狭い住宅街の一角、ひっそり紛れ込んだ一軒家。それが僕と彼が目指していた場所。一人で外の世界を歩かせるのが心配になる女性が住む家だ。
岩倉と表札が掛かった家の前で腕を組んで待っていた幼馴染の水口吾郎と合流をしていざ行かんと呼び鈴を鳴らす。隣に立つ屈強な体型をした吾郎は警備員のように表情を硬くしていた。
どちらかというと僕は喘息持ちで軟弱な体型をしているので、身長も高くガタイも優れた吾郎は頼もしく感じる。たとえ大人の男性相手に喧嘩を売られても、僕と違って吾郎なら怖気づくこともないだろうと思う。
そう思うと、彼が散歩に同行してくれることは感謝でしかない。
僕だったら喧嘩が始まった時点が敗北が決まってしまう。
でも、僕の方が争い合いにならないよう務める事に関して秀でている。それは幼い頃から傷つかないように会得した生きる術だ。
喧嘩っ早いところがある吾郎はそれをよく知っているから僕に対して敬意を払っている。
どちらに軍配が上がるという話しではなく、僕と彼が冷静に知恵を出し合えば大抵のトラブルには巻き込まれることなく、回避出来るのだった。
やがて勢いよく扉を開き、靴音を立てて飛び出して来る艶やかな白い肌をした少女。
白い羽が舞い上がっていてもおかしくないような純白の風が吹く。
麦わら帽子を被った岩倉麻由は顔を上げていつもの無邪気な笑顔を覗かせた。
「お待たせ」
麻由の澄み切った綺麗な声に僕が頷いて答えると花柄の白いワンピースを着た麻由は自分から近づき手綱を握った。
「待ち遠しくてケンタもご機嫌みたいだよ」
「今日もいい天気、散歩日和だね」
急接近する彼女の身体から漂うほのかに甘い香りが嗅覚を刺激する。
彼女に手綱が託されると散歩に出られることを喜ぶ大型犬の愛犬、ケンタは舌を出して尻尾を振り、グルグルと身体を回転させた。もう待ちくたびれたと言いたげだ。
「ごめんなさいね、本当にこの子ったら、待ちきれないみたいで」
麻由とは対照的に落ち着いた雰囲気を醸し出す母親が顔を出す。
専業主婦をしている麻由の母親とは昔馴染みの関係で僕達に信頼を寄せてくれている。
「いえ、大丈夫です。夕食前には戻りますので」
「すまないわね」
愛犬にじゃれつくのに夢中になっている麻由を見て目を細める母親。
どれだけ今日という日を楽しみにしていたか知らない母親ではない。
自由にさせてあげたいけど、心配で自由にさせてあげるわけには行かないのだと、顔色から十分伝わって来る。
僕は紳士的な態度で先にお辞儀をした吾郎の真面目さを見習い、同じように真似をしてお辞儀した。
夏の終わりを漂わせる柔らかな風が吹く中、こうして久しぶりの散歩が始まった。




