10、Natural Blessing
放課後、帰り際に麻由の教室を覗き込む。
麻由が使っていた机の上には花瓶が置かれていた。
机の上の落書きが消え去った代わりに死を自覚される物が置かれている。
それはまるで厄介払いを済ませたような印象を覚えた。
こうなってしまった以上、もう誰も麻由をイジメた犯人を捜そうとする人なんていない。皆、麻由の事を忘れたいと思っているだろう。
それがまた、僕の心をざわつかせ、まだ麻由はこの世界の何処かで僕達を見ているんじゃないかと錯覚させた。
深い眠りに落ちて、目覚めることなくこの世を去った麻由。
僕は自分の気持ちを整理するために、あの日、トンネルの中で麻由が見ていた情景を絵画にして遺すことにした。
放課後の美術室で一人、麻由に恥じない自分でありたいと思いながら黙々とキャンバスに向かう。
今はもう、隣で僕の絵を興味深い視線を向けて見守ってくれる麻由はいない。
いなくなって初めて気付く、かけがえのない大切な存在。
あんなにも絵を描くのが楽しいと思えたのは麻由のおかげだったのだ。
ひたすら時間を忘れ、キャンパスに向かっていく。
麻由の事を考えると、楽しくもないのに不思議と面白いくらいに筆が躍った。
麻由が心から望んであの暗闇で見たもの。
それはきっと、痛みを伴うことなくこの残酷な世界から解放してくれる眩い光だ。
そう考えた僕は麻由が見た情景をイメージして描き上げ、それを吾郎と一緒に麻由の部屋へと持って行った。
荷物整理される事なく、変わらぬ姿のまま取り残された麻由の部屋。
僕も吾郎も何度もここに入った。
何時間も一緒に勉強をした。
麻由は勉強が苦手でいつも泣きそうな顔をしたけれど、僕らと一緒に過ごすのを喜んで一生懸命に頑張っていた。
麻由の母親からも家庭教師を雇うよりも二人が来てくれる方が安心できると、部屋の外で僕らの声を聞きながら思ったそうだ。
戻って来る事のない日常。
勉強机の上に置かれた写真立ての横に、キャンバスを静かに置く。
吾郎は興味深げにキャンバスを眺めた。
僕らが見ていた不気味なトンネルの風景とは激しく乖離のある幻想的風景。
麻由の宇宙で広がる煌めく天体。
その中心にある光の球体は、太陽のようであり、麻由を引き寄せた魂のようであった。
「今更だけど思うんだ。麻由の感じ方が普通で、僕達の方が狂っているんじゃないかと」
麻由の純真さを多くの人間は不自由な幼さとしか理解できない。それは狂ってしまったからではないかと。それを狂わせているのは、学校という閉鎖空間の環境にあったんじゃないかと。
「だったら、何で普通のはずの麻由がこんなことになって、俺たち狂っている側の人間がのうのうと長生きするんだよ」
それは不愉快なことだし、間違っていることだと思う、でも僕はそれが人間が文明社会の中で生き残っていくための進化の結果なのだと解釈した。
「その通りだね、麻由は弱い女性なんかじゃない。弱いのは人に合わせるばかりで、疑心暗鬼になって相手を本気で信用できない僕らの方だ」
吾郎は苛立ちを露わにして「そんなの狂っている」と絞り出すように声を吐き出した。
本当にその通りだと思う、この世界は純粋では生きていけない。
優しいだけでは生きていけない、そういう醜い世界なんだと、僕らは知っている。
だから、麻由の持つ純真な心に惹かれていたんだと、僕はそのことに今更になって気付いた。
「僕達は普通であるか、そうでないか見分ける力を必要以上に進化させてしまったのかもしれない。その結果、本来一緒に生きられる人までのけ者にしてしまった。でも、そうしないと人の気持ちを読み解くことが難しかったんだと思う」
「人の気持ちを理解するために人を傷つけることを覚えて来た。それはとんでもない皮肉なことだな」
難解な問答に吾郎は興味深げに応える。
全ては終わってしまった後の祭り。
僕らは麻由の支えになってあげられることが出来ず、麻由は旅立ってしまった。
麻由の死を乗り越えて、これからも僕らは生きなければならないけれど、後悔は決してなくならないと僕も吾郎も思った。
「麻由は優し過ぎたんだ……だから大人になることが出来ず、少女のままこの世を去った」
「麻由は僕達と一緒の高校に通うことを望んだ。一緒にいたいと思ってくれたことは嬉しかった。でも、それは麻由にとって残酷な事だったのかな……」
麻由が願った事は大それたことなんかじゃない。
でも、思い出を残して命を落とすような結果は麻由だって望んでいない。
麻由は大人になることなく、少女のまま命を落とした。
それは純粋であればあるほど生きられないという枷。
人は順応できる者を好み、順応出来ない者を排他する。
学園という閉鎖的コミュニティではそれが顕著に表れる。
だから、悲しい事だけど、麻由が生きられなかったのは人々が望んだ結果なのかもしれないと、僕は麻由の背中をじっと眺めながら思った。
秋風が薫る頃、肌寒い空気に包まれ、熱がゆっくりと失われていく。
夢の中でしか会うことが出来なくなった麻由の存在。
一日一日、重りが身体に乗っているような感覚を僕らは感じながら、今もその幻影を追い掛けながら生き続けている。




