第7話
リグリスが去ったあと、アニカは横たわったままぼんやりと天井を見上げていた。
愛さない、と言われても何も感じなかった。子どもを産めと言われても同じだ。
多少動揺はしたけれど、父に『アステリオに嫁げ』と言われたときから、覚悟していたことである。
そもそも王家とアステリオ辺境伯家との軋轢は深い。
アステリオで採掘される白金鉱がもたらす恵みを、王家は喉から手が出るほど欲しがっている。
けれど、アステリオにはふたつ、大きな問題があった。
一つはここが永久凍土に近い土地であること、そして二つ目は『白魔』と言われる凶暴な魔物が生息していることだ。
白魔は無慈悲だ。人に懐くことはなく、骨も残さない貪欲さで赤子でも食い殺す。
それを仕留められるのはアステリオでもごく一部の、凄腕の銃士たちだけだという。
――そういえばさっき、馬車に連れて行ってくれたとき……リグリス様が背負っていらっしゃったのが『銃』だと言っていたわ。
恐ろしい化け物の住む地に嫁いできたのに、銃さえ知らなかった。自分は武器のひとつも握ったことがない。
――私はずっと王妃様のはけ口だったから、なにも知らないのね。役にも立たないくせに、辺境伯妃、だなんて……。
自分の無知と無力をあざ笑いながら、アニカは目を閉じる。
そして夢を見た。
美しい男、リグリスに抱かれている夢だ。
嫁ぐ前に教育を受けてきたから、意味は分かる。
アニカの首筋に口づけ、身体を重ねてくる彼は、ひどく冷めた顔をしていた。
きっとアニカも同じような顔だっただろう。
この夜が終わったら、すぐにでも世継ぎを授かればいいのにと、夢の中でも思っていたのだから。
――愛さないのは私も同じ。だけどなんて可哀想な方なの? リグリス様にはきっと、たくさんの選択肢があったのに。私以外にも、たくさんの。
このむなしい夢もまた、アニカの翠眼が見せた『未来の真実』なのだろうか。
――本当に役立つ未来なんて、私の力ではなにひとつ見えはしないわ。
なんにせよ、どんな夢を見ようと事実は変わらない。
アステリオの人々は王家に強い憎悪を抱いている。
『こんな場所に俺たちを閉じ込めた』と。
――彼らにとって、ここは押しつけられた死の大地。そして、押しつけられた、翠の目の……私……。
そう思うと同時に、アニカの意識は闇にも見込まれていった。
◆
「リグ!」
明るく弾むような声が、リグリスを呼び止めた。幼なじみのナターシャがドレスの裾をからげて駆け寄ってくる。
「ああ」
リグリスは、わずかに表情を緩めて、赤子のころから一緒だった勇敢な少女を迎えた。長い銀の髪を三つ編みにした彼女は、澄んだ青い目でリグリスを見上げてくる。
「ねえ、例の『翠の目の王女様』が到着したって言うけど、大丈夫? 我が儘だったり、意地悪な人じゃなかった?」
「別に、気になるような点は今のところないな」
「ならいいけど」
「今日、城壁の外に行ったんですって?」
「ああ、遺体の回収に」
「私も連れて行ってよ、私だって銃士の一人なんだから」
正直に言えば、ナターシャの実力では大型の白魔にはまだ対抗できない。だがまだ十六歳になったばかりの彼女にそれを言うのは憚られた。
「今日はお前に頼むことがなかったんだ」
そう言って微笑むと、ナターシャは後ろで手を組んで頬を膨らませる。
「私のこと子ども扱いしているんでしょう?」
「してない、お前の銃の腕は認めてる」
「じゃあ、次はいつ、城壁の外に連れて行ってくれる?」
リグリスはちら……と硝子窓の外に目をやる。白魔の強さは、吹雪の強さに比例すると言われている。雪が止んだ日でなければ、ナターシャを連れて歩くのは無理だ。
「晴れの日だ」
「わかった」
不服そうに答えると、ナターシャが美しい顔にぱっと笑みを浮かべた。
「ねえリグ、頼みがあるんだけど」
「なんだ」
「父様の許可は得たわ。だから私をリグの『女』にしてくれないかしら。私、十六になったからリグの子どもが産みたいんだ!」
空気が一瞬で凍りついた。
「……お前、何を言ってる」
理解が追いつかず、言葉が宙に浮く。
リグリスの低い声に、ナターシャはあっけらかんと答えた。
「あら、私、本気よ」
ふっと吹きすさぶ風が、硝子窓を揺らした。