第4話
――俺を地獄に留め置く女が、こんなにもか弱く、美しい顔で眠っているとは。この雪原に無理やり咲かされた花のようじゃないか……。
発熱し、意識を失ったアニカを見下ろし、リグリスはため息をついた。
なんとか白魔が馬車に戻ってくる前に、やり過ごして帰ってくることが出来た。アニカが望んだとおりに、遺体の一部……ごく一部にすぎないけれど……も回収は出来た。
リグリスは、革袋に入れた護衛とやらの『腕』を、そっと机の上に置く。
――幸運な人間だ。他の二人とやらは、髪の一本さえ残っていなかったのだから。
見知らぬ人間の遺体であっても、アステリオの民は白魔に食われた犠牲者を踏みにじりはしない。だから、回収してきた。アニカに出来ないならば、自分がやるしかなかったからだ。
――アニカ殿にとっては大事な人間だったのだろう。うらやましい、腕だけでも残っているなんて。
リグリスの父は、白魔と戦い、食われて死んだ。骨さえ残っていない。
そして母は、父が帰らないと知った日の夜、城の屋上から身を投げて死んだ。お腹にいたリグリスの弟妹どちらかと一緒に……。
無意識のうちに、リグリスは拳を握り固めていた。
赤子ができたときの両親の喜びようは、今でも覚えている。
あれは、リグリスが七つの時だった。
やっと授かった第二子のために、両親は懸命に名前を考えていた。無論、両親に肩を抱かれたリグリスも一緒に。
『父様、母様、ぼくも赤ちゃんの名前を考えました』
目を輝かせるリグリスの頬に、両親は交互にキスしてくれた。
もうあの温かな世界に帰れる日は来ない。
リグリスの家族は、目の前で気を失っているこの女だけ。
どんなに傷ついてもたちどころに癒えてしまう『祝福された肉体』をもつ、アニカ王女だけなのだ。
――こんな女が、俺の……。
白魔と戦い続けるアステリオの民に、不死の肉体を伝える血筋……そんなものを愛せる訳がない。
どんな痛みを味わっても立ち上がれ、命が尽きるその日まで戦い続けろ。そう命じられて、笑顔で受け入れられる訳がない。
けれど、この細く小さな女に憎悪のすべてをぶつけるのは正しいのだろうか。
生まれた戸惑いを、リグリスは首を振って消し去る。
――そんなことを考えるな。何が正しいかなんて考え始めたら、終わらない問答に突入するだけ……王家は俺たちに『死ぬまで戦え』と言っている、その証がこのアニカ王女なんだ。
そのとき、高熱に喘いでいたアニカが身じろぎする。
どうやら不死身の肉体を持っていても、病や衰弱にはまるで勝てないらしい。
そう思いながら小さな顔を覗き込むと、美しく透き通る翠の目がパチリと開いた。
憎いはずなのに、その華奢な女はひどく美しかった。その目の色は、萌え出ずる若葉のようだった。
――これが、聖なる翠……。
リグリスは、この輝かしい翠色を我が子に継がせ、不死身の戦士に仕立て上げねばならないのだ。
彼女の意思など関係なく、彼女の身体を強引に穢して。
そう思うと、乾いた笑いがこみ上げてきた。
幸せだったはずの自分、辺境伯領のために白魔と戦い続けてきた自分は、いつから弱い女を踏みにじる獣に変わってしまったのだろう。
それでも、誰かがやらねばならなかった。王家の命は、いつだって誰かに何かを押しつける。耐えがたい、受け入れがたい何かを。
「リグリス……様……」
かすれた声で、アニカがリグリスを呼んだ。
どこが苦しいのか、細い肩はそれだけでぜいぜいと波打っている。
体調を尋ねようとして、リグリスはその言葉を呑み込んだ。
そして無言で机に歩み寄り、持ち帰った護衛の腕を袋ごと差し出した。
「貴女の大事な男の腕を、持ち帰って差し上げましたよ」
なんと冷たい、なんと憎しみに満ちた声音だろう。こんな声が、自分の喉から出ると思わなかった。
両親に愛されていた頃の自分はもう死んだのだと思いながら、リグリスは硬直しているアニカにぐいと亡骸の腕を突きつける。
「礼くらい言ったらどうです? 白魔から遺体を取り戻せるなんて、なかなかない幸運なのですから」
もしこの女が不幸を知らないのなら、教えてやりたい。嗜虐的で歪んだ喜びが、リグリスの心にこみ上げる。
自分の言葉が刃物のように冷たいとわかっていた。けれど、止められなかった。むしろ、己の中の悪意にすがることで、今の自分を正当化したかった。
アニカは強ばった表情のまま、ゆらりと身体を起こした。
「ありがとう……ございます……」
例を言われるなんて予想をしていなかった。
アニカの礼は、弱さではなかった。ただ、心からの感謝だけだった。だからこそ、悪意に満ちていたリグリスの胸を貫いた。
二度瞬きをしたリグリスに、アニカはかすれてなお可憐な声で告げた。
「この方を埋葬……させてください……」