第3話
そのときだった。
ガッ、という音と共に、馬車から何かが飛び出す。
白い生き物に見えた。毛の長い、兎でも狼でもないいびつなな生き物だ。その証拠に目が、なかった。あるべきところに、ざらついた白い皮膚が盛り上がっているだけだった。
立ちすくむアニカの前で、リグリスがさっと腕を差し出す。まるでアニカを庇うような仕草だった。
「今のは……?」
「小型の白魔です」
言うなりリグリスは背中に負っていた荷から、金属の筒のようなものを取りだした。そしてそれを構えるなり、バン、と音を立てる。白い生き物が雪原を跳ね、血まみれになりながら転がって果てた。
――今のはなに? なにが起きたの?
立ち尽くすアニカにリグリスが言う。
「銃です。ご存じありませんか?」
リグリスは冷たく言うと、転がった白い生き物に歩み寄った。
「大型の食い残しを漁っていたのでしょう。……皆、油断するな」
――食い残し……? 漁る?
リグリスの言葉に、アニカはさっと青ざめた。
「あ……あ……っ」
アニカはぐらつく足で、おびただしい血の源である馬車に歩み寄る。
栗色の髪の護衛の声が、聞こえた気がした。
『どうか姫様の未来が、やすらぎに満ちたものでありますように』
震えながら、アニカは馬車の残骸に手を掛ける。そのとき、ぼとりと何かが落ちた。
「ひっ」
アニカはとっさに悲鳴を呑み込む。
――何の棒……? 服の……袖みたいな……爪がついてる、手の先……!
そこに転がっていたのは、人間の腕、だった。
――う……そ……!
指先に見えるのは、あの護衛の爪だ。
栗色の髪の護衛の。
旅路の間、ずっと彼の手を見ていた。だから彼の爪だと分かる。
――ど、どうして、腕……だけ……?
かろうじて身体を支えていた脚が、ガクガクと震え出す。
背後から、静かなリグリスの声が聞こえた。
「その部分は、食らっても美味くはないんです。だから白魔でも捨てていく」
凍える風に吹かれながら、アニカはゆっくりと振り返った。
「肘から先なんて骨しかないでしょう」
「あの、あ……」
何か言おうとした刹那、喉元に強い吐き気がせり上がってきた。
アニカはとっさにリグリスに背を向け、胃液を吐きだす。
――い、いや……嫌……っ……。
肩で息をするアニカに、リグリスは言った。
「遺体の回収をしますか? あの大きさなら簡単だ。けれど急いで、大型の白魔が戻ってくる前にここを去らねばなりません」
「で、でも遺体の回収を……」
「ここはあいつらの餌場になっている。貴女を抱えて戦うのは不利なんです」
「でも……っ!」
「何もできずに食らわれるだけの貴女に反論の権利などない」
生々しい言葉に、アニカの脳裏に千切れた腕が浮かんだ。
確かに大きくはない。
自分を励ましてくれた栗色の髪の護衛は、肉片になってしまったのだ。
「……っ、う……」
再び吐き気がこみ上げてくる。
口元を押さえたアニカは、涙目で血にまみれた雪原を見渡した。
――白魔……どれほどの化物なの……?
話では何度も聞いたことがある。
けれど実際に『白魔に襲われた現場』を目にしたら想像も付かない。
「早く仲間とやらの腕を拾ってください。城に戻りましょう」
リグリスがアニカに背を向ける。刹那、アニカの視界がぐにゃりと歪んだ。
「アニカ殿?」
口が動かず、何も答えられない。アニカはそのまま、冷たい雪の上に叩きつけられた。
声が聞こえる。
「どうなさいますか、リグリス様」
「こいつは不死身の女なのでしょう? 置いていっても……」
リグリスに付き従ってきた、アステリオ領の男たちの声だ。
どの声も、アニカへの憎悪を滾らせていた。
そこに、静かなリグリスの声が響く。
「さすがに身体を食い尽くされたら、『翠の眼の聖女』といえども蘇れないだろう。連れて帰る」
――リグリス……様……。
アニカの意識が薄れていく。
「リグリス様は、この女を本当に花嫁に迎えるのですか?」
「ああ」
「なぜです! 王家は長い間、我々をこの白魔の地獄に閉じ込めてきた張本人です! あいつらが送り付けてきた花嫁を、なぜ……っ……」
一人の若い兵士が、吐き捨てるように言った。
「こっちは白魔に家族を、仲間を引き裂かれてきたってのに……!」
その目には、憎しみと涙が混じっていた。
そうだ。
アステリオ領は、豊かな鉱物資源を有する反面、危険な白魔が跋扈する地獄でもある。
数百年前、王家はアステリオ家の人間に、この恐ろしい領地を押しつけ……そして放置した。
アステリオ領の憎悪がどんなに育とうとも、放置した。
その結果が今だ。
アニカを取り巻く、この憎しみだ。
気を失いゆくアニカに、リグリスの声が届く。
「俺は彼女に翠の目の跡継ぎを産んでもらう。白魔に喰われぬ子を。喰らわれても、立ち上がる子をな」
――わた……しに……産ませる……?
リグリスはなにを言っているのだろう。
もう、目を開けていられない。
「『不死身の辺境伯』とやらが産まれれば、白魔との戦いもさぞ捗るだろう」
リグリスの声は、身体を苛む冷気よりも冷たかった。
「それが王家の意思だ。俺たちは永遠に王家から解放されない。そのことは覚えておけ」