第2話
「囮にですか? さすがは不死身の王女と名高い貴女だ。殺しても死なないというその身体を差し出してくださるとは」
リグリスの声は冷え切っていた。
まるで先ほどまでアニカが踏み締めていた雪のようだ。
その冷たい声に、アニカは思わず肩を波打たせる。
「は……はい」
――リグリス様は私の『不死』の力をご存じだったのね。当然だわ。私の『特異体質』は皆が知るところだもの。
「いいでしょう、貴女の覚悟はわかりました。そこまでおっしゃるのなら、俺も力を貸しましょう。白魔の牙に自らかかってくださるという、貴女の尊い犠牲に感謝します」
吐き捨てるような言葉に、アニカは奥歯を噛みしめた。
歓迎などされるとは、当然思っていなかった。厄介者扱いされる覚悟くらい出来ていた。
けれど、今の彼の態度はそれ以下だ。
殺意さえ感じる。
――王家は……アステリオ辺境伯家から想像以上に憎まれているのね。
突き刺すようなリグリスの眼差しから、アニカはそっと目をそらした。
一時間後。
高熱に苛まれたアニカは、ふらつく足でリグリスたち一行の後を追っていた。
何度も何度も『もう歩けない』と思いながら、アニカは真っ白な雪の上を進み続ける。
ふらつき続けるアニカを、リグリスの一行は一度も振り返ろうとしなかった。王家の空っぽ姫など案じる対象ではないからだろう。
アニカは身体のきつさに耐え、歯を食いしばる。
――私のわがままで、御者と護衛を助けに行きたいと言ったのだもの。倒れてはだめ。いざとなったら、私が白魔の囮になればいい。
アニカの脳裏に、辺境領への道中が浮かんだ。
――私に優しくしてくださった方たちには、報いたい。私は、誰にも望まれないこの命を差し出すしかできないから。
旅の道中、御者も護衛たちもアニカに親切だった。
『姫様、長い旅路でお疲れでしょうから、何かあったら声をかけてくださいね』
そんな風に優しくされるのは、初めてだった。
とくに栗色の髪の護衛は、日頃から『妾腹の王女』の境遇に同情してくれた。
『なぜ姫様が、アステリオのような辺境に嫁がねばならないのでしょう』
栗色の髪の護衛は、ことあるごとに悔しそうにそう繰り返していた。
『聖なる翠の眼』とは、この国の王族に遺伝する特異体質のことである。
特に王位を継ぐものに現れると言われ、この目を持つものは不死身に近い体を持つと言われてきた。
アニカの父ハロルド王は、アニカと同じ『聖なる翠の眼』の持ち主である。
軽い傷ならばたちどころに癒える肉体を持ち、『祝福されし王』と国民から讃えられている。
だがこの特別な眼の色は、王妃との子供たちには遺伝しなかった。
あろうことか、愛妾の娘アニカだけが受け継いでしまったのである。
祝福されるべき力は、祝福されない娘へと継がれたのだ。しかも、父より遥かに強い『力』と共に。
アニカは祝福なんてされたことがない。
この眼も、身体も、ずっと呪いだった。
――白魔に食われるのは、痛いのかしら……。それでも、どんなに辛くても耐えなければ、王妃様に罰されるときのように。
ぐっと唇を噛んだそのとき、不意にリグリスの声が聞こえた。
「貴女がお探しのものは、あれですか?」
「っ……あ……」
ふらついていたアニカは、ようやくの思いで顔を上げる。
そして、目の前の光景に言葉を失った。
アニカを辺境まで運んできた馬車が、雪に埋もれて転がっている。
そしてその馬車から伸びる鮮血の筋が、一、二、三、四、五……。
――な、なに……あの……血は……!
降り積む雪に呑まれていた生臭い匂いが、アニカの鼻を鋭く刺す。
二頭の馬と、三人の怪我人の姿は、壊れた馬車の中には見当たらなかった。
アニカが馬車から抜け出した時、護衛二人と御者には息はあったのだ。
彼らは、馬車を出て助けを求めに行ったのだろうか。
――だとしたらどこへ行ってしまったの? あんな大量の血を流して、どこへ……。
どくん、どくん、と心臓が鳴る。冷たい汗が、凍てつく身体に滲む。
蒼白になるアニカを無視して、リグリスが部下たちに言った。
「白魔が近くにいる。全員油断するな、どこかで俺たちを見ているぞ」