第1話
――愛がなくても、私を抱くことはできるのね。
アニカは夫の銀の髪に指をくぐらせながら、絶望と熱を同時に味わっていた。
吐息が熱くなっていく。夫リグリスのたくましい身体が、さらに深くアニカを組み敷いた。
「あ……」
声を漏らすと、唇で唇を塞がれる。
――リグリス様は私の声なんて、聞きたくないのかもしれない。
アニカの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
泣けるようになったのは、ここに嫁いできてから。
誰かに望まれないことを『苦しい』と思うようになったのも、ここに嫁いできたからだ。
この結婚は、望まれない契約結婚だった。
『空っぽ姫』の自分は、その結婚に納得していた。
どこに行こうと自分の人生は変わらない。憎まれ、疎まれ、排除される人生は変わらない。
そう思ってここに嫁いできたのに。
それでもアニカの中に心が生まれた。
――愛さないなら、口づけなんてしないでほしかった。私を妻として扱ったりしないでほしかった……。
こんなに苦しいなら、心なんて持ちたくなかった。
だがそれは、アニカの我が儘だ。
アニカの義務は、ここでリグリスの妻として『跡継ぎ』を産むことだけ。
彼には愛も、優しさも求めてはいけない契約。
必要なのは、ただ男の子を産む『器』。それだけだ。
――もう泣いては駄目。哀れみを乞うなんて、したくない。
アニカはぎゅっと目を閉じ、夫の背中に縋り付く。今夜も外は吹雪だ。
リグリスに出会った日も、こんな雪だった。
――苦しくなんてない……私は平気。今までも、どんな扱いでも平気だったのだから。
リグリスの大きな手がアニカのかさかさの手をぎゅっと握りしめる。アニカは涙で歪んだ視界のまま、その手を、そっと握り返した。
◆
『最果ての地アステリオへ嫁ぎ、辺境伯リグリス・アステリオの妻となれ』
それが父、ハロルド王の命令だった。
慣れない雪を踏みながら、アニカは唇を噛みしめる。
雪道の崖で馬車が滑落したのだ。
御者や護衛の生死は分からず、アニカだけは無事だった。
――辺境領までたどり着いて、助けを呼ばなくては。早く、早くしないと、この吹雪では……!
この先は己の足で歩くか、凍え死ぬかのどちらかしかない。
だがやがて、アニカの脚は動かなくなる。
いつ転んだのか、アニカは雪の上に倒れ伏していた。
――私は平気。私は『空っぽ』なのだから、苦痛など感じるはずがない。
歯を食いしばって己の身体にそう言い聞かせるが、脚は動かない。身体を起こすことも出来ない。身体に、白い雪がしんしんと降り積もっていく。
そのとき、アニカの耳に男の声が届いた。
「貴女が、ハロルド王の王女ですか?」
――だれ……?
吹雪にまぎれても、その声ははっきりと聞こえた。なんと良く通る声だろう。瀕死のアニカは最後の力を振り絞って顔を上げる。
自分を見下ろしているのは、真っ青な目の青年だった。口元は覆われていて、その表情はよく見えない。
「は……い……」
かすれ声で答えると、青年が何か合図をする。アニカの凍えた身体が、青年に軽々と担ぎ上げられた。
「貴方は、だれ……?」
アニカの問いに、青年が答える。
「リグリスと申す者です」
――それ……って……もしか……して……。
アニカの意識が薄れていく。
「貴女の夫……と名乗るべきでしょうか? 歓迎はしておりませんが、よろしく、我が花嫁殿」
歓迎はしていない。
その声の冷たさだけが耳に残る。
――分かっているわ。私は空っぽ姫。誰からも愛されることのない、王家の余り物……。
リグリスと名乗った青年の声と共に、アニカは意識を失った。
アニカは、暗い夢を見ていた。
『ああ、くそ、なぶり殺しにしてやりたい、お前が『聖なる翠の目』を持ってさえいなければ!』
王妃の喚き声と共に、アニカに鎌が振り下ろされる。
痛い、痛すぎて声も出ない。だが鎌で切り裂かれたアニカの肌は、たちまちのうちに癒えていく。血の海の中、傷ひとつないアニカの体がほの白く浮かび上がって見えた。
『ああ嫌だ、あの女と同じ顔で、なぜこの翠の目をしているの?』
『お待ちになって、お母様、鎌を使ったらさすがに失血死してしまうわ』
甲高い声が聞こえる。妹姫のシェーラだ。
『……チッ、仕方ないわね、シェーラ、申し訳ないけれど棒を持って来てちょうだい』
「言われなくても準備していてよ、お母様。どうせ傷『だけ』は消えるんですもの。妾の子なんて思う存分なぶってやりましょ』
『まあ、いい子ねシェーラ! バケモノの扱い方をよく分かっていること!』
棒を手にした王妃の前で、アニカは身をすくませた。
あの棒で気絶するまで殴られるのは毎日のことだ。けれど慣れてはいない。あの苦痛に慣れる日は永遠に来ないだろう。
――大丈夫、耐えられる。私は空っぽの人間なんだから。
『恨むならお前の母親を恨みなさい! 私の陛下を寝とった、お前の母親を……!』
王妃の顔が、嗜虐の愉悦に歪んだ。
『死ね、死ね、死ね、死ね、売女の娘は早く死ね!』
「……っ!」
――大丈夫、耐えられ……!
繰り返し自分に言い聞かせたとき、アニカの意識が覚醒する。
目に映ったのは、知らない天井だった。
――ここは……。
瞬きをした刹那、己の体が高熱に侵されていると気づく。
病弱なアニカが高熱を出すのは、日常茶飯事だ。
もう慣れた。
――知らない……部屋……。
横たわっているのも苦しい。喉が焼けるように痛み、目が眩んだ。気分が悪くて目を開けていられず、アニカは弱々しく目を閉じる。
――そうだ、私! なにがあっても辺境領にたどり着かないと! 馬車が……っ!
懸命に息を整えていたアニカは、ハッとしてもう一度目を開けた。
その時、扉が開く音が聞こえた。見事な銀髪の青年が部屋に入ってくるところだった。
彼の真っ青な目と、アニカの緑の目が合う。
長身の、ひどく美しい男だ。
高熱に浮かされていても、彼の美貌だけははっきりと分かった。
「良く無事にたどり着かれました、アニカ王女」
さきほどリグリス、と名乗った声だった。
「あ、あの、馬車が崖から落ちて! 御者と護衛を助けに戻らねば……」
リグリスの言葉にアニカは激しく首を振る。しかしリグリスは、冷淡な言葉でアニカの懇願をさえぎった。
「もう無理ですね」
「ど、どうしてですか?」
「今は夜だ、人間が外で生き延びられる時間帯ではありません」
「そんな……!」
絶句したアニカに、青年は無表情に告げた。
「貴女は辺境領の夜の危険性をご存じないのですか?」
「なにが危険なのでしょう?」
「白魔が出ます。人を食う白魔が。俺たちに出来ることは扉を閉ざし、かんぬきを下ろして、朝を待つことだけです。貴女は聞いたことはないのですか? 白魔が生き物の骨を食む音を」
さすがに世間知らずなアニカも、白魔の存在は知っている。
辺境領に出る怪物だ。獣の姿をしていて、群れをなし、彷徨う人間を骨まで食らうと聞いている。
リグリスは腕組みをし、ひどくだるそうにため息をついた。
「もしくは、覚悟を決めて白魔を狩るか」
「狩、る……?」
「命がけの作業になりますから、ただでは引き受けられません」
――お、金……は……。
アニカはとっさに身体を起こし、胸のあたりをまさぐる。
母の形見のネックレスが肌に貼り付いていた。
それを外し、アニカはリグリスに差し出す。
「こ、これをお持ちください」
「宝石ごときで俺たちに命をかけろというのですか?」
どうやら、リグリスの心は動かなかったようだ。
しかしこのまま、御者たちを見捨てることは出来ない。
アニカは寝台を降り、冷淡な表情のリグリスの前に膝をつく。
「では私を……白魔の囮にしてくださいませ。私は、死ぬ思いには慣れておりますから……っ!」