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第9話|炎の痕跡

 黒煙が夜空に立ち昇る。アンリは医科学校の廊下を駆け抜けていた。足音が、暗い廊下に空しく響く。


 十年前と同じ光景。同じ場所。そして同じ匂い。父が命を落とした、あの夜を思い出させる風景。


 研究棟に近づくにつれ、煙の臭いが強くなる。窓から差し込む月明かりに、浮遊する煙が白く輝いていた。しかし火の勢いは、十年前ほどではない。むしろ、限られた範囲でしか燃えていないようだった。


 アンリの記憶の中で、あの夜の光景が蘇る。大きな炎。走り回る人々の声。そして、父の研究室から立ち上る黒煙。全てを焼き尽くすような炎の前で、ただ立ちすくむしかなかった十六歳の自分。あの時、炎の向こうにいたのは、同じ年頃の少女だったのか。


「父の研究室...」


 アンリは階段を駆け上がりながら、呟いた。三階。研究室の扉の前で、彼は足を止める。十年前と変わらない光景。変わったのは、扉に掛けられた「使用禁止」の札だけ。あの火災の後、誰も足を踏み入れることのなかった場所。


 扉の隙間から、かすかな明かりが漏れていた。月の光だろうか。それとも―。


 アンリが扉を開けると、月明かりに照らされた研究室に、エレオノールが佇んでいた。白い煙が、まだかすかに残っている。書類や試験管の散乱した机。まるで、時が止まったかのような光景。


「よく分かりましたね」エレオノールは振り向きもせず、窓の外を見つめたまま言った。「私がここに来ることが」


「十年前と同じ、火薬の臭いがしましたから」


 アンリの声は冷静を装っていたが、その拳は震えていた。父が最期を迎えたこの場所。そこに、全ての始まりがいたとは。


「そう。あの夜と同じ」エレオノールはゆっくりと振り向く。「でも、今夜は失敗作の証拠を燃やすだけ。あなたのお父様のように、邪魔な人を消す必要はありません」


「父を...消した?」


 アンリの声が震える。エレオノールの瞳に、月の光が冷たく映る。少女だった面影は既になく、そこにあるのは計算し尽くされた冷徹な意志だけ。


「ええ。でも、それは両親の意思ではなく、私の判断でした」


「あなたの...判断?」


「ええ」エレオノールは窓辺から一歩踏み出した。足元を照らす月明かりが、彼女の動きに合わせて揺れる。「もう、隠す必要もありませんから、お話ししましょうか。十年前のこの研究室で、何があったのか」


「まだ子供だった私に、誰も疑いの目を向けませんでした」エレオノールは研究室をゆっくりと歩き始める。足音が、静かに響く。「研究室に忍び込むのも簡単でした。お父様は、毎晩遅くまで、私の家族の秘密を暴こうとしていた」


 エレオノールは窓際で立ち止まり、月を見上げた。


「ベルナール家の没落は、私たち自身の罪。父も母も、この毒の使い方を誤った。でも、私は違う」その声は、どこか遠い記憶を追うように途切れがちだった。「幼い頃から、祖母に教わってきたのです。この毒には使命がある。それは決して―」


 エレオノールは言葉を切り、アンリをまっすぐ見つめた。「お父様は良い方でした。研究者として、真実を追い求めただけ。でも、時として真実は、多くの命を危険に晒す。だから私は...」


 月明かりが、彼女の横顔を青白く照らしている。その姿は、まるで今にも消え去りそうな幻のようだった。


 その時、背後から響く足音に、アンリは振り向いた。クラリスが、息を切らせて立っていた。


「まあ」エレオノールは意外そうな表情を見せる。「あなたまでいらしたの?」


「もう、十分です」クラリスは一歩前に踏み出した。「これ以上、誰も傷つける必要は...」


「傷つける?」エレオノールが冷たく笑う。「私は、罪を清めているだけよ。家の誇りと、この力の真の意味を守るため」


「罪?」クラリスは首を振る。「あなたこそ...」


「私の両親は、この毒の力を私利私欲のために使おうとした。でも、それは間違い」エレオノールの声には、凛とした覚悟が滲んでいた。「この力には、もっと崇高な目的があるはず。祖母は私にそう教えた。そして私は...」


 その時、エレオノールはゆっくりと手を上げた。その手には、小さな薬瓶が握られている。月明かりに照らされた液体が、不気味な輝きを放つ。


「そして私は、その教えを守るため、自らの手で家族の過ちさえも断つ決意をした」エレオノールの声が静かに響く。「今夜、この研究室で燃やすのは、その記憶の最後の一片」


「エレオノール!それを置いて!」


 クラリスが叫ぶ前に、エレオノールの手が素早く動いた。薬瓶の中身が、床に広がった書類の上にこぼれる。そして、一筋の火花が―。


 まばゆい光が、研究室を真昼のように照らす。熱波と共に、古い書類が一気に炎に包まれる。


 アンリとクラリスが目を開けた時、そこにあったのは燃え盛る書類の山。そして開け放たれた窓。エレオノールは、月明かりの中で優雅に微笑んでいた。


「デュモン家の晩餐会で、お会いしましょう」エレオノールは冷たく微笑んだ。「特別な席を、用意していますから」


「逃がすわけには...」

 クラリスが踏み出した時、廊下から足音が近づいてきた。研究棟の警備や、使用人たちの声が響く。


 エレオノールは優雅に身を翻すと、夜の闇の中へと消えていった。背後では炎が広がり、アンリの父が残した最後の痕跡を、全て焼き尽くしていく。


「父の...研究が」アンリは燃え上がる炎を見つめる。かつて父が真実を追い求めたように、今度は自分が暴いてみせる。


 クラリスは首筋のアザに触れながら、エレオノールの最後の言葉を反芻していた。デュモン家の晩餐会。それは、次なる戦いの舞台となるはずだった。


 満月は、まだ高く昇ったばかりだった。この夜は、まだ始まったばかり。そして彼女たちは、これから訪れる闇の深さを、まだ知らなかった。

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