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第8話|呪縛の刻印

 エレオノールが去ってから数時間。療養所の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。


 クラリスは、緊急で療養所に移送したヴェルミュ夫人の熱を確かめながら、首筋の花形のアザを見つめる。朝のうちは危険な状態だったが、アンリの応急処置と、クラリスの看病のおかげで、少しずつ容態は安定してきていた。


 それでも、夫人の意識が戻る前に呟いた言葉が気になる。

「あの日の呪縛」―。


「クラリスさん」


 廊下から、アンリの声が響く。その声音に、何か重要な発見があったことを感じ取った。


「医務室に来ていただけますか。花のアザについて、気になる事が」


 医務室は、夕暮れの光で赤く染まっていた。


 机の上には、アンリが広げた資料の山。その傍らに、見覚えのある形をした図版が並んでいる。花のアザのスケッチだ。


「これをご覧ください」


 アンリは一枚の古い文献を取り出した。黄ばんだ紙面には、クラリスの首筋にあるものと瓜二つの花の形が描かれている。


「二十年以上前の記録です。しかも...」アンリは静かに続けた。「これは、エレオノールの実家、ベルナール家の書庫から発見された資料の写しなのです」


 クラリスは息を呑んだ。ベルナール家。没落前の、エレオノールの家の名だ。


「この花のアザには、特異な性質があります」アンリは別の資料を指さした。「毒を調合した家系によって、微妙に形が異なるのです」


 資料には、いくつもの花の形が並んでいた。どれも一見似ているが、よく見ると花びらの形や茎の角度に微妙な違いがある。


「つまり」アンリの瞳が鋭く光る。「このアザの形から、どの家系の毒なのかが分かるということです」


 クラリスは無意識に首筋に手を当てた。そこにある花の形は、エレオノールの、いや、ベルナール家の証だったのか。


「それだけではありません」アンリは別の資料を手に取った。「毒を調合できるのは、その家系の者だけ。しかし、使用できるのは、ある特定の『時』だけだというのです」


 その時、ノックの音が響いた。


「失礼します」看護師が慌ただしく入ってくる。「ヴェルミュ夫人が目を覚まされました」


 夫人は、夕陽に照らされた白いベッドの上で、窓の外を見つめていた。


「十年前、ベルナール家が没落する直前」夫人は静かに目を開いた。「あの館で、不可解な死が続きました」


 窓の外を見つめる夫人の横顔に、夕陽が影を落とす。


「花の形のアザを残して、次々と命を落としていった人々。そして最後には、エレオノールの両親までもが...」


「エレオノールはその時、まだ子供だったはず」アンリが静かに言う。


 クラリスは夫人の言葉を待った。しかし夫人は、しばらくの間、沈黙を守っていた。何かを言うべきか迷っているような、そんな表情だった。


「ベルナール家には」やがて夫人は目を閉じ、重い口を開く。「代々受け継がれてきた使命がありました。『花冠の雫』を守り、そして...必要な時にだけ使う」


 夫人の声が震える。「それが、彼らに与えられた特権であり、責務だった。しかし...」


 夫人は一度深く息を吸い、言葉を続けた。


「エレオノールの両親は、その力を別の目的に使おうとした。貴族社会での影響力を強めるため」


 窓から差し込む夕陽が、夫人の苦しげな表情を赤く染める。


「そして、その報いとして」アンリの声が、部屋の静寂を破る。


 夫人はゆっくりと頷いた。「ええ。ベルナール家は没落し、両親は命を落とした」


 クラリスは自分の首筋に手を当てる。そこにある花の形が、かすかに熱を帯びているような気がした。


「でも、エレオノールは...」夫人の声が途切れる。「彼女は違う道を選んだのです」


「違う、道?」


「両親の野心ではなく、家系の使命そのものに囚われていった」夫人の目が遠くを見つめる。「彼女にとって、それは贖罪なのです。掟を破った者たちへの、清めの儀式として...」


 部屋の空気が凍る。夫人の言葉の意味を、誰もが理解し始めていた。


「時間が...ない」突然、夫人の声が弱まる。「満月の夜まで、あと三日。その時が来れば...エレオノールは...最後の儀式を...」


「儀式?」クラリスが身を乗り出す。


「彼女自身の、命を...代償にした...」


 夫人の声が消え入るように弱まっていく。アンリが慌てて脈を確認する。


「夫人?」


 しかし、既に意識は遠のいていた。


 クラリスは窓際に立ち、沈みゆく夕陽を見つめた。空には、まだ朧げな姿の月が浮かんでいる。その光を受けて、首筋のアザが静かに疼いた。


 使命と呪縛の境界線が曖昧になるほど、深く歪んでしまったエレオノールの心。それを止めるためには―。


「アンリさん」クラリスは振り返る。「ベルナール家の記録、もう一度調べましょう。きっと、そこに何か...」


 アンリが頷く前に、遠くで鐘が鳴り響いた。その音が、まるで時間の残り少なさを告げているかのように、重く響いていた。


 鐘の余韻が消えゆく中、アンリは窓際に立ったまま、何かを決意したように深くため息をつく。


「実は、私にも話しておかねばならないことが」


 その声には、いつもの冷静さが欠けていた。クラリスは初めて、アンリの表情に迷いの色を見た。


「十年前、ベルナール家の事件を調査していたのは、私の父でした」


 アンリは懐から、一枚の古びた写真を取り出す。そこには、若き日の父らしき人物と、ベルナール家当主との笑顔の一枚が。夕暮れの光の中、二人の表情は妙に生き生きとしていた。


「父は王立医科学校の毒物研究者。花冠の雫の解毒薬を研究していました」アンリは写真を見つめながら言った。「ベルナール家当主の協力もあり、研究は順調に進んでいたそうです」


「しかし、エレオノールの両親は...」


「ええ。彼らは研究に強く反対していました」アンリの声が暗く沈む。「そして研究が大詰めを迎えていた頃、父の研究室で火災が起きて...」


 窓の外に浮かび始めた月が、アンリの横顔を淡く照らす。


 その時、医務室の扉が激しく開く音が響いた。


「アンリ様!」慌てた様子の助手が駆け込んでくる。「エレオノール・デュモン夫人が、王立医科学校の...父君の元研究室に」


 クラリスの首筋のアザが、激しく疼きだした。


「行きましょう」クラリスも立ち上がる。


「待ってください」アンリが彼女を制する。「あなたは、ここで夫人の看病を」


「でも...」


「エレオノールにも、何か事情があるはずです」アンリはクラリスの目をまっすぐ見つめた。「十年前の火災の真相も、きっと...」


 その時、遠くで爆発音が轟いた。研究棟の方角から、黒煙が立ち上っている。


 まるで、十年前のあの夜のように―。

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