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第7話|花の痕跡

 春の夜明け。王立医科学校の研究室に、朝日が差し込んでいた。


「これが、過去十年の症例です」


 アンリが次々と資料を広げていく。黄ばんだ記録用紙。医師たちの所見。そして、被害者たちのスケッチ。全ての患者に共通しているのは、花の形をしたアザ。クラリスは無意識に首筋に手を当てた。


「失踪、または死亡」アンリの声が冷たく響く。「いずれも、貴族社会の女性たち。そして、ほとんどの場合、エレオノールの足跡が...」


「そして今、ヴェルミュ子爵夫人が狙われている」


 アンリは一枚の肖像画を取り出した。凛とした美しい貴婦人。その横顔には、どこか悲しげな影が感じられた。


「夫人は、かつてエレオノールの実家と深い繋がりがあったそうです」アンリは静かに続けた。「没落する前の話です。そして今、夫人は亡き夫の遺産を巡る複雑な問題を抱えている。エレオノールが接近する理由として、十分すぎる状況かもしれません」


「でも、それだけではないはずです」クラリスは首を振った。「エレオノールの行動には、もっと別の...」


「ええ」アンリは肖像画に目を落とす。「夫人は、没落貴族の救済活動を密かに行っているとも。エレオノールの過去を知る人物としても、危険な存在なのかもしれません」


 机の上に広げられた記録の山。その一枚一枚が、失われた命の重みを語っているようだった。


「クラリスさん」


 アンリの声に顔を上げると、彼は診察用の椅子を指さした。


「あなたのアザも、詳しく調べさせていただけませんか」


 クラリスは静かに頷き、首筋のスカーフを外した。


「これは...」アンリの表情が強張る。「これほど鮮明な形状は、初めて見ます」


 冷たい指先が首筋に触れる。クラリスは小さく息を呑んだ。


「花びらの形が規則的すぎる」アンリが眉を寄せる。「自然な内出血ではあり得ない形状です。これは明らかに...」


 その時、扉が勢いよく開いた。


「アンリ様!」

 慌てた様子の若い助手が飛び込んでくる。

「ヴェルミュ夫人が急に体調を崩されました。発熱と、首筋に異常が...」


 クラリスとアンリの目が合う。


「やはり、エレオノールが」


 アンリは素早く上着を羽織った。


「今すぐ夫人の館へ向かいましょう」その声には、これまでにない切迫感が滲んでいた。「あの方は、エレオノールの過去を知る重要な鍵です」


 ヴェルミュ子爵夫人の館に到着した時には、既に昼過ぎだった。


「奥様は寝室で」執事が案内する。「昨夜から、急に...」


 寝台に横たわる夫人の姿を見て、クラリスは息を呑んだ。優美な横顔は青ざめ、額には冷や汗が浮かんでいる。そして、首筋には、あの花の形が浮かび始めていた。


 かつての自分と同じ症状。蒼白な顔色、乱れた呼吸。記憶が蘇り、背筋が凍る。


「アンリさん」


 クラリスが目配せすると、アンリは医師として夫人の診察を始めた。その手際は確かだが、眉間には深い皺が刻まれている。


「毒の種類は同じです」診察を終えたアンリが小声で告げる。「ただし、投与量は慎重に調整されている。これは...」


「失礼いたします」


 突然、部屋の扉が開く音。振り返った先の入り口に、エレオノールが立っていた。


「まあ」その唇が、ゆっくりと微笑みを形作る。「こんなところで、お二人にお会いするなんて」


 クラリスとアンリは、夫人のベッドと入り口のエレオノールの間に自然と立ちはだかるような形になっていた。


「ヴェルミュ夫人のご様子が気になって」エレオノールは部屋の入り口から声をかけた。「まさか、このような状態とは...」


 その声は心配そうに響くが、瞳には冷たい光が宿っている。夫人の首筋に浮かぶ花の形のアザを見つめるその視線に、クラリスは背筋が凍るのを感じた。


 エレオノールは優雅に一歩を踏み出した。その黒いドレスの裾が、静かに床を掃う。ヴェルミュ夫人のベッドに近づこうとするその姿に、クラリスは思わず身構えた。


「エレオノール」クラリスは低い声で言った。「もういい加減に。どうして夫人を?」


「何のことかしら?」エレオノールは入り口で優雅に首を傾げる。「ああ、もしかして...夫人の症状が、あなたと同じだとでも?」


 クラリスの拳が震える。しかし、アンリが静かに腕を伸ばし、彼女を制した。


「デュモン夫人」アンリの声は冷静だった。「過去十年、同じ症状で命を落とした方々の記録を調べています。花の形のアザ。そして、全ての事例であなたの関与が」


「まあ」エレオノールは涼しげに笑った。「私に罪を着せたいのなら、もう少しまともな証拠が必要ではなくて?」


 その時、ベッドから微かな呻き声が漏れた。エレオノールの表情が、一瞬だけ歪む。毒の効果が予想より弱まっているのか、夫人が意識を取り戻しかけていた。


「ヴェルミュ夫人は、あなたの過去をご存知なのでしょう」アンリは静かに続けた。「没落前のあなたの家で起きた、あの事件のことも」


 廊下に差し込む陽の光が、エレオノールの顔を不気味に照らし出す。その瞳から、それまでの余裕が消え失せた。


「お気を付けになった方が」その声は、氷のように冷たかった。「深入りしすぎると、後悔することになりますよ」


「それは脅しですか?」

 アンリの視線がエレオノールを射抜く。


 その時、ベッドから夫人の声が漏れた。

「エレ...オノール...」


 苦しげな吐息交じりの声に、エレオノールの表情が一瞬凍りつく。その反応を見逃さなかったアンリが、一歩前に出た。


「夫人が目を覚ましそうですね」アンリの声には、わずかな挑発が滲んでいた。「私たちの目の前で、何か話されるのは、まずいのではありませんか?」


「そうですわね」エレオノールは冷たく微笑んだ。「ですが、私にはもう用は済みましたから」


 その言葉が何かの引き金となったように、部屋の空気が張り詰める。優雅な微笑みの奥に潜んでいた本質が、一瞬だけ覗いた気がした。


「クラリスさん、せっかくの再出発。今度は、もう少し賢明な選択をなさることを願っています」


 クラリスは夫人のベッドサイドに戻り、アンリと共に応急の治療を始めた。その時、夫人の乾いた唇が僅かに動く。


「エレオノール...」夫人の声は、かすれながらも意外なほど明確だった。「あの子は...まだ、あの日の呪縛から逃れられていない...」


「夫人」アンリが身を乗り出す。「あの日とは?」


 しかし、夫人の意識は再び遠のいていった。残されたのは、エレオノールの過去を示唆する不吉な言葉と、首筋に浮かぶ花の形のアザ。その花びらは、まるで何かを語りかけるように、不気味な影を落としていた。


 

 

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