第6話|調査官アンリ
「次は上手くいくかしら」
あの声がまだ耳元で囁いている。冷ややかで、静かな殺意を帯びた声。サヴァン家の宴、最後の瞬間。エレオノールの微笑みの裏に潜んでいた何か。首筋のアザが、その記憶と共にまた疼きだす。
彼女の視線の先には、確実に次の標的がいる。その確信が、クラリスの胸を締め付けた。
なぜ、エレオノールはここまでするのか。単なる野心のためだけではないはず。クラリスは、未だにその本当の理由が掴めないでいた。
だが、恐れているだけでは何も変わらない。次の犠牲者を出さないために、今は動かなければ。
春の日差しの中、クラリスの評判は貴族社会に広まっていった。
「あの方の料理を食べてから、すっかり元気になられたそうよ」
「私の友人も、体調を崩していたのが...」
「デュモン家の元奥様だとか?」
貴族たちの間で囁かれる噂を、クラリスは冷静に受け止めていた。この評判は、次なる犠牲者を守るための盾となるはず。誰かが体調を崩せば、すぐにクラリスの元へ話が届く。
今日も、新たな依頼が舞い込んでいる。ヴェルサン侯爵家での晩餐会。五十名を超える大規模な宴だという。
「先日のサヴァン家でのお噂を伺いまして」
執事が丁寧に頭を下げる。クラリスは内心で微笑んだ。上流階級の社交界で、評判は確実に広がっている。エレオノールの耳にも、届いているはずだ。
調理場は、いつもながらの活気に満ちていた。本日のメインは、鴨のコンフィ。香り高いソースを添えて。クラリスは料理人たちに的確な指示を出しながら、会場の様子も探っていた。
「まあ、クラリスさん?」
見知らぬ声に振り返ると、小柄な年配の女性が立っていた。白髪が多く混じった髪を固く結い上げ、質素な紺色のドレスに白いエプロンを身につけている。しわがれた声と相まって、一見するとただの年老いた家政婦に見えた。しかし、その切れ長の瞳には、長年貴族に仕えてきた者特有の鋭さが宿っている。
「ロザリーさん?」
記憶が蘇る。デュモン家で働いていた年配の家政婦だ。エレオノールの下で、長年働いていた女性。思い返せば、いつも物陰で皆の様子を観察していた、裏方の要のような存在だった。
「まさか、こんなところでお会いするなんて」ロザリーは周囲を見渡し、声を落とした。「お話ししたいことが...」
クラリスは一瞬迷ったが、すぐに決断した。
「調理場の奥で」
人目を避けた場所で、ロザリーは震える声で語り始めた。
「私、もう黙ってはいられないんです」その目は、過去の記憶に怯えているようだった。「レミー家の令嬢のこと、ご存知ですか?」
クラリスの背筋が凍る。
「三年前、エレオノール様は、よくレミー家に出入りしていました。その頃から、令嬢は体調を崩され始めて...」
ロザリーの証言は、クラリスの予感を裏付けていった。花の形をしたアザ。次第に衰えていく体調。そして、突然の失踪。
「でも、それだけではありません」ロザリーは更に声を落とした。「その前にも...ブーケ家の若奥様が...」
話を聞くほどに、クラリスの心の中で疑問が膨らんでいく。これほど計画的な毒殺の連鎖。そこには、ただの野心や嫉妬以上の何かがあるはずだ。しかし、その真相はまだ闇の中―。
「そして今、ヴェルミュ子爵夫人が標的だと思うんです」
「ヴェルミュ夫人?」
「はい。エレオノール様は先日、夫人の館を訪ねられて...」
その時、調理場から人声が聞こえた。宴の準備が佳境を迎えている。
「申し訳ありません。私は、もう...」
ロザリーは怯えたように立ち去ろうとした。
「ロザリーさん」クラリスは静かに呼び止めた。「ご心配なく。もう、誰も傷つけさせはしません」
その晩、夜風が窓のカーテンを揺らす。クラリスは手元の記録に目を落としていた。エレオノールの犯罪の痕跡。しかし、その全貌はまだ闇の中―。
「失礼します」
静寂を切り裂く声が、クラリスを現実に引き戻した。月明かりに浮かぶ影。冷たい風に揺れるカーテンの向こう、ドアの隙間から現れた青年の姿に、彼女は無意識に息を呑んだ。
「王立医科学校の調査官、アンリと申します」
名乗る声は静かだが、妙に硬質で冷ややかだった。その青灰色の瞳は、まるで心の奥底まで見透かすような鋭さを帯びている。クラリスの胸に、一抹の不安が広がる。深い藍色のジャケットに身を包んだ姿は、貴族にありがちな華美な装いとは一線を画していた。
「貴族社会で発生している奇妙な症状――特に、花の形をしたアザに関して調査を進めています」アンリの視線が、クラリスの首元に吸い寄せられた。
クラリスは反射的に首筋に手を当てた。スカーフの下に隠れたアザが、火傷のように熱を持つ。
「あなたに協力をお願いする理由は、簡単です」アンリは一歩近づき、低い声で続けた。「貴族たちの間で流れる噂――それがどれだけ助けになっているか、あなた自身も分かっているはずです。あなたの評判が、今回の事件を追う上で唯一の糸口になるのです」
青灰色の瞳が、クラリスの内側を見透かすようにじっと見つめる。クラリスは思わず息を呑み、目をそらした。その瞳には、ただの善意ではなく、深い決意と覚悟が宿っている。
「私は...」答えようとして、言葉が詰まった。彼の言葉を信じていいのか?それとも――。
だが、首筋のアザがひりつくような感覚を伴って蘇る。その痛みが、クラリスの迷いを吹き飛ばした。ロザリーの証言。次々と浮かび上がる被害者たち。もう、逃げるわけにはいかない。
「分かりました」小さく頷く。彼女の声は震えていない。むしろ、闇に向かう覚悟がそこに込められている。
月明かりの中、二つの影が重なった。これが新たな戦いの始まりだと、クラリスは直感していた。