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第5話|影の宴

 クラリスが出張料理人として初めての仕事を終えてから、一週間が過ぎていた。早春の柔らかな日差しが差し込む療養所の図書室で、彼女は黄ばんだ新聞をめくっていた。


「令嬢、突然の失踪」

「原因不明の体調不良か」

「捜査打ち切り」


 三年前のレミー男爵家の事件に関する記事。断片的な情報の中から、真実を探り出そうとしていた矢先―。


「お客様がいらっしゃいました」


 マリーの声に、クラリスは新聞から目を上げた。応接室に通されたのは、アレクサンドラ・サヴァン伯爵夫人。四十代半ばながら、凛とした佇まいの貴婦人だ。深い青のドレスに、家の紋章が刻まれた純銀のブローチ。その気品ある物腰からは、名門の誇りが感じられた。


「こちらで」


 給仕が運んできた紅茶の香りが、部屋に広がる。窓からは療養所の庭に咲く花々が見える。


「噂の料理人、とお聞きしましたので」夫人は紅茶に口をつけながら、穏やかに微笑んだ。「実は近々、宴を催すことになりまして」


 クラリスは一瞬、目を細めた。サヴァン家。三年前の新聞に、確かその名前が。


「お引き受けいたします」


 穏やかに答えながらも、クラリスの頭の中では記事の断片が結びつき始めていた。サヴァン家は三年前、レミー家との縁談を進めていたはず。そして、その矢先に起きた令嬢の失踪事件。


「実は、体調を崩しがちな家族もおりまして」


 夫人は言葉を選ぶように続ける。その表情に、一瞬、影が差した。


「私の料理が、お役に立てるのでしたら」


「ええ、ぜひ。クラスパン伯爵夫人の回復ぶりを伺いまして」


 会話の端々に、夫人の不安が垣間見える。クラリスは紅茶を口に運びながら、静かに観察を続けた。気品ある物腰の奥に、何か重苦しいものを抱えているようだ。


 *


 応接室での打ち合わせから三日後。クラリスは早朝、サヴァン伯爵邸を訪れていた。宴までの一週間、夫人の体調に合わせた食事と、当日の料理の準備を任されている。


 薔薇の咲き乱れる正門をくぐり、広大な前庭を抜けると、重厚な館が姿を現した。デュモン家より一回り大きい邸宅は、その佇まいからも由緒正しい家柄が感じられる。


「こちらへどうぞ」


 案内された台所は、かつてのデュモン家を彷彿とさせた。クラリスは静かに包丁を走らせる。食材の状態は完璧。しかし、彼女の意識は料理以外のところにもあった。


「伯爵夫人は、お加減が優れないとか」


 使用人頭のマルグリットが、心配そうに話す。白髪まじりの髪を固く結い上げた彼女は、館の古参として信頼を集めているようだった。


「ええ、最初は単なる疲れかと思ったのですが」マルグリットは声を落とす。「最近、手首や首筋に紫色のアザが。しかも花のような形をしているんです。医者も原因が分からず...」


 クラリスの手が止まった。花の形のアザ。それは彼女自身が経験した毒の症状そのものだった。しかも、レミー家の令嬢の記事にも同じ症状の記述が。


「お医者様は?」


「毎日のように診ていらっしゃいます。でも原因が」


 三年前のレミー家の令嬢も、同じような症状だったはず。そして今、この館でも。


「あの、使用人の方で、三年前からいらっしゃる方は?」


「ええ、私ともう一人。ただ、以前は別の方も」マルグリットは言葉を選びながら続ける。「デュモン家の今の奥様も、たまにいらしていました」


 クラリスの予感は的中した。エレオノールは、この館とも繋がりがあったのだ。


 宴の準備は着々と進んだ。クラリスは表向き、完璧な料理人を演じながら、館の中を観察していく。使用人たちとの何気ない会話、夫人の様子、そして何より、食事に関わる全ての動き。


 三日目の夜。夫人の体調は日に日に悪化していた。花のようなアザは、首筋から鎖骨へと広がりつつある。このままでは、三年前の令嬢と同じ運命を―。


「マルグリットさん」クラリスは決意を固めた。「夫人の食事、全て私が直接お運びしてもよろしいでしょうか」


 そして宴当日。


 朝から館は慌ただしかった。五十名を超える来客のための料理の準備。クラリスは厨房で陣頭指揮を執りながら、夫人の朝食を自ら作り、運んでいく。


 そこには料理人としての誇りだけでなく、毒で苦しんだ者としての使命感があった。もう誰も、あの苦しみを味わわせたくない。しかし同時に、心の奥底では恐れもあった。再びエレオノールと向き合うこと。あの底知れぬ闇と対峙すること。


 廊下を歩きながら、かすかに手が震える。それでも、逃げるわけにはいかない。


「まあ、これは」


 廊下の向こうから、よく知った声が響く。エレオノールが、デュモン夫人として華やかな装いで立っていた。一瞬、背筋が凍る。しかし、その感覚は直ちに静かな怒りへと変わった。


「ご無沙汰しております」


 クラリスの手に持ったトレイが、かすかに震える。その震えは、もはや恐れからではない。抑えきれない憤りが、体の芯から込み上げてくる。目の前の優雅な貴婦人の姿の向こうに、あの夜の冷酷な微笑みが重なる。


「療養所を出られたとは知りませんでしたわ」エレオノールの声には、氷のような冷たさが滲んでいる。「もう、包丁も扱えるようになったのですね」


 その言葉の裏に潜む嘲りに、クラリスは半年前の記憶が蘇るのを感じた。しかし、もう昔のような無力さはない。


「ええ、おかげさまで」


 二人の間に、重苦しい空気が流れる。廊下に差し込む朝日が、二人の影を長く伸ばしていた。


「でも、お気をつけになった方が」エレオノールが一歩近づく。「包丁は、繊細な道具ですから。誤って、何かを切ってしまわないように」


 その威圧的な雰囲気に、かつての自分なら怯んでいただろう。しかし今は違う。


「ご心配なく」クラリスはトレイをしっかりと持ち直した。「私の包丁は、決して無駄な傷は付けません。必要なものだけを、的確に切り分けますから」


 エレオノールの瞳が、一瞬、冷たく光る。それは三年前、レミー家の令嬢が見た最後の光景だったのかもしれない。その想像に、クラリスの決意はさらに固まった。


「そうそう」エレオノールは優雅に微笑む。「今宵の宴、私も大変楽しみにしているんですのよ」


 その笑みの裏に、クラリスは確かな殺意を感じ取った。今夜、この館で何かが起ころうとしている。


「マルグリット」


 エレオノールが去った後、クラリスは使用人頭を呼び止めた。心臓が早鐘を打っている。かつての無力さを思い出させる相手との対峙は、想像以上に彼女の心を掻き乱していた。


 しかし、今は迷っている場合ではない。目の前には、救わなければならない命がある。


「はい?」


「宴の献立、少し変更を。全ての料理に、この食材を使わせてください」


 クラリスは巾着から、特別に選んだハーブの束を取り出した。療養所で学んだ知識が、今、役立とうとしている。これさえあれば、どんな毒でもある程度は効果を抑えられるはず。


 さらに、各料理人に細かな指示を出す。


「メインの肉料理には必ずビターハーブを。デザートにはこの根菜のピューレを。控えめにですが、味を損なわない程度に」


 一品一品に、解毒の効果を持つ食材を組み合わせていく。エレオノールがどの料理に毒を仕込んでくるか、まだ分からない。だからこそ、全ての可能性に備えなければ。


 *


 夜の帳が下りる頃、館は次々と到着する馬車で賑わいを増していた。


 厨房では、クラリスの指示の下、料理人たちが最後の仕上げに追われている。表向きは華やかな宴の準備。しかし彼女の頭の中では、もう一つの戦いが始まっていた。


 エレオノールの動きを探る目。給仕たちの動線を確認する耳。そして、料理に仕込まれた解毒の香りを嗅ぎ分ける鼻。全ての感覚を研ぎ澄ませながら、クラリスは厨房を采配していく。


 宴が始まり、次々と料理が運び出されていく。クラリスは全ての皿に目を光らせた。どの料理がエレオノールの手に渡るか、予測できない。だからこそ、一品たりとも見逃すわけにはいかない。


 首筋のアザは、スカーフで隠されているが、確実に広がっている。そのアザの形を見るたびに、自分の体に残る傷跡が疼くような気がした。今夜を逃せば、もう手遅れになるかもしれない。


「デュモン夫人が、お手洗いへ」


 囁かれた言葉に、クラリスは一瞬動きを止める。次の一手か。しかし、ここで動けば、サヴァン夫人の料理への監視が手薄になる。


 その時、給仕の小声が耳に入る。


「ソースを別添えにとのことですが」


 見ると、銀の小鉢に盛られた見覚えのないソースが、デュモン夫人の席へ向かおうとしていた。咄嗟にクラリスは給仕を止める。


「そのソースは私が確認していないものです。こちらをお使いください」


 急いでハーブを効かせた新しいソースを作り直し、銀の小鉢に盛り付け直す。サヴァン夫人の席からは、また苦しげな咳が聞こえてきた。一刻も早く、この宴を――。


 エレオノールが席に戻った時、その表情が一瞬曇るのが見えた。毒を仕込もうとした場所に、自分の知らないソースが置かれている。その意味を理解した瞬間、彼女の瞳に鋭い光が宿った。


 宴は夜更けまで続いた。一品また一品、全ての料理に神経を注ぎ込む。それは料理人としての誇りと、人の命を守る戦いだった。


 最後のデザートが運ばれる頃、クラリスは小さく息をついた。今夜の宴は、これで終わる。


「お見事でした、クラリスさん」


 帰り際、エレオノールがそっと耳打ちした。


「でも、次は上手くいくかしら」


 その言葉には、まるで蛇が獲物に向かって発する警告のような冷たさがあった。これが終わりではない。むしろ、本当の戦いはこれからなのかもしれない。


 クラリスは厨房に戻りながら、己の覚悟を確かめていた。二人の、果てしない戦いの幕が、今、切って落とされたのだ。

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