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暗黒竜の渇望  作者: らんた
第一部 序編
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第四章 第二節 北への侵略

 闇は闇である限りどこへでも行ける。ヴィシャップはさっそく夕闇にアルボルズ山脈の洞窟で闇の中へとろけさせ、西のアララト山の洞窟に移動した。南側は相変わらず光が強き世界だった。だが、光の弱い北方はアフラの信仰もなく、人々の行き交いも巨大な山脈のせいでほとんどなかった。

 アララト山の洞窟の奥深くで空間が揺らぎ、闇がゼリー状になりそこに狼の頭を頂くヴィシャップが姿を現した。ヴィシャップは運動さながらに手を握ったり開けたりした。

 力が漲っている。それだけでは無かった。魔女時代ですら修得できなかった闇の魔法を千も操ることができるようになったのだ。アジ・ダハーカの化身となった代償として、であるが……。

 洞窟で出て、巨体を蛇行しながら山を下るとそこは大草原であった。遊牧民が次々行き交う壮大な空間である。


 ――分っておるな。ここを惨劇の場にして、闇と絶望の大地にするのだ……ヴィシャップよ。


 ヴィシャップにアジ・ダハーカの思念が頭に語りかけてくる。


 ――もちろんでございまする。


 自己の目を通して主が我の思念に語りかけている。試されているのだ。


 我が本当の闇かどうかを……!


 ――さっそく近隣の村を殲滅いたしましょう。狼の時よりも惨酷に、大量に。


 ――そなたの体は我が瞑想すればお前の目を通してお前の目の光景をみることができる。惨劇は我の糧となるよう期待しておるぞ。


 (言うまでもない。復讐の時さ)


 そういうと翼を広げ、下にある村に業火の炎を浴びせた。突然の襲撃に戸惑う村人達。


 次に破滅に導く爪を裂いた。容易に鉄の剣が折れ、鎧を切り裂いた。横真っ二つに分かれる遊牧民の戦士。


 次に右の指で魔法陣を描き、雷を浴びせた。炎がさらに広がり、焼け焦げた夫婦の姿が見えた。左で魔法陣を描くと氷の矢が次々村人を刺していく。


 特攻していく騎馬兵を尾でなぎ倒し、落馬していく兵。瀕死の兵に大蛇の尾がからみつく。尾をからめ引き締めるとにぶい音が響きやがて兵士は動かなくなった。村が全滅し、残ったのは死体と燃えさかる廃屋だけであった。


 次の村で同じことを繰り返した。次の村ではさらに牙の威力を試し、村人を突き刺した。流れ行く毒液。やはり炎を吐きすぎると飢餓感が襲った。さっそく食事をすませ、獲物を歯牙にかけ、血を堪能した。右の指で魔法陣を描き村人を石化させた。出来上がった石像は尾で叩き割った。


 (つまらん。そうだ。いい事を思い付いたぞ。かつてのタルウィのように破滅と破壊だけをせず……ははっ。人間にはもっと深い絶望を味わせてやろう。そう、人の魂だけを殺すのだ)


 そう想うと飛翔し、さらに次の村を襲った。


 襲ったあとに家々に炎を撒き散らした後、村長の村に行き、尾で村長の家を破壊し、そこにいた村長を握り締めてこう言い放った。


「先々の村のようになりたくなければ降伏せよ。命までは取らん。ただし、条件がある」


 村長が握り締められたまま掌にあわててひざまつく。さらに懇願するようにかすれた声で言った。


「何でも従います!! 村人の者だけはお助けください」


 ヴィシャップはほんの少し握る力を強めた。


「してその条件と……は?」


 歪んだ笑みを浮かべながら答える暗黒の大蛇がそこにいた。


「それはな、全て力のある者に服従することと、全ての自由を認めること、そして魔のものどもの支配に甘んじることの三つじゃ。何、簡単じゃ。力こそ全てという世じゃ」


 ヴィシャップはほんの少し握る力を弱めた。


「このようにな」


 そう言うと大蛇は尾で支柱なぎ倒し、家を破壊した。壊れたことによって納戸に隠れている青年が見つかってしまった。それを左手でつかむと右手で掴んでいた村長をそっけなく投げた。鈍い音が床に響く。


「よく見ておるのじゃ、村長。これが力が全ての世じゃ」

 

(われとて闇空間そのものになる時のみ命は永遠に維持されるが、肉を得た姿でこの世に居る限り、それは永遠ではない。ならばここで人と交わり、我の腹をはらませておくとするか……人間に殺された分の命をここでな!)


 舌の位置を変え、青年に紫の煙をかける。青年の身体はしびれたまま無抵抗な状態となり、床に倒れる。大蛇はさらに桃色の煙を吹きかけた。青年は恍惚こうこつに浸る。


 次に、爪で青年の服を器用に切り裂く。さらに暗黒の大蛇は手足の鍵爪を引っ込めた。その代わり、引っ込めた爪からは大量のゼリー状の油が生じた。


 「大切な()を傷つけてはいかぬからの」


 指先が青年の肌をなぞる。油は冷たく粘りつき、流れるたびに筋肉の緊張をほどき、痛みの記憶を溶かしていった。次に自らの躰を同じ膜で覆うと、その被膜は良心の末那識まなしきを完全に消し去り、逆に封じられていた欲望の末那識まなしきを濃く、明瞭にする。大蛇の目が細まり、唇の端が薄く裂ける。喜びに満ちた暗黒竜の渇望が姿を持って現す。


(くくっ……ついでだ。まずは己のからだが本当に両性具有になったのかも確かめて見るとしよう)


 その後――大蛇は人の理解を遥かに超えた、禍々しい行いを始めた。


 やがて、青年の喉から人の声とは思えぬ悲鳴が洩れる。その声は夜を裂き、村の闇を震わせた。見ていた村長は胸を押さえて崩れ落ち、そのまま息絶える。耐え難き光景であったのだ。

 大蛇は縦長の瞳孔の奥で、冷ややかに青年を見据える。だが、その瞳の奥には抗い難い愉悦の熱が宿り始めていた。口の端がわずかに歪み、牙を覗かせる。悦楽の波動がその鱗を伝って蠢くたび、尖った爪がゆるやかに元の形を取り戻していく。歓喜とも嘆息ともつかぬ声が、村のすべてを包み込むように響き渡った。青年はその声を聞くなり、己の理性が崩れていくのを感じ、絶望と狂気の狭間で叫んだ。するとさらに何度も何度も青年の魂から搾り取るように絶望を吐き出した。だが成し遂げていないものがあった。


(まだだ……まだ足りぬ。我が受けた絶望は、こんなものではない――!)


 大蛇は快楽にも似た飢えに突き動かされ今度は青年の絶望を受け入れる。青年の吐息ひとつすら、芳醇な供物であるかのように。

 やがて悦喜えっきの声と共に身が細かく震えた。サバトの主は余韻に沈み、長き沈黙の中に身を委ねる。その静寂すら、甘美な供犠の一部と化していた。血は流れ、そして止まり、痛みは快楽へと転じる。熱を帯びた吐息が、夜気を濁らせた。

 破壊神は再び首を巡らせ、焦げた村を見渡した。誰ひとり、その姿に刃向かう者はいない。恐怖が祈りのように家々を縫い留めていた。


(ふむ……()のが抗体が、あの躰に行き渡ったようだな)


 己の躰が完全体であることを確かめ、ひとしずくの笑みをこぼす。新たな命の鼓動すら感じ取れたのだ。


(これは……僥倖ぎょうこう。魔族の地、奪われし命、そして完全体の躰。男として初めての名誉まで。あらゆるものを、()は――)


 ――ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………


 闇は脈打つように再び蠢動しゅんどうする。その声音は確かに「獲た」と発せられたはずだった。けれども、喉奥を焦がすような悦びと虚無の熱に喉が焼け、声にならぬ呻きとなって崩れ落ちる。

 歓喜は歓喜として、もはやその形すら留めていない。満ちたはずなのに、胸の内は乾いていた。いや、それすらどうでもよい。すべてが手中にある。その実感だけが、この夜にかすかに残る体温だった。最後に、大蛇は青年の絶望を舌の上で確かめるように味わい尽くした。


 事を終えると、裸の青年をそっと床に横たえた。青年の肌は毒の血に濡れ、異様な光沢を帯びていた。

 やがて赤黒い血管が浮き上がり、四肢へ、そして全身へと広がる。震え、痙攣けいれんし、泡を吹きながらその肉が赤く染まっていく――。

 そして、静止。息絶えたと思われた次の瞬間、青年の瞳が縦に裂かれた。もはやそこに自我の影はない。


(……これで奴の躰も、我が“半魔”の系譜に連なる)


 「お前の役目は終わった。だが――くくっ……なかなかであったぞ」


 大蛇は割れた舌で、濡れた唇を舐める。


 「言い忘れていたな。人の身に我が血は毒。ほんの一滴でも触れただけで死ぬ。だが、お前だけは違う。妾が許した。お前には我が“油”を与えた。毒と拮抗し、免疫を生む。ゆえに、お前は魔の者として生まれ変わるのだ」


 その声は、優しく、残酷だった。


 「このまま生き恥を晒して生きるも良し。あるいは、心まで闇に染め、我が鱗の庇護に身を沈めるもよい。何せお前は、この子の父なのだからな」


 鱗をなぞる指が、艶やかに光った。


 だが青年は無言で、燃える村を後にした。その背は、拒絶と喪失とが溶け合った影のようであった。


 「あ~ぁ……やっぱり壊れちゃった。あはっ、ひっ……ひっ……ひっ!」


 策士の笑いは、欲に濡れた夜気を裂いた。

 

 (ふっ……そのまま野に生きるか? 野垂れ死にを選ぶか? それとも自死か? 狂気を抱えたまま“人”として生きるか? いずれにせよ――それは魔にして人の心の選択。絶望よの。その絶望すら、我の糧となるのだ)


 ――くっ、くっ、くっ、くっ……。見ているだけで、胸の奥が満たされていくわ。我が“完全体”となるその日のための予行までなったわ。悦楽の欠片、その味ももらい受けた。さて……分かっておろう。そなたはこれより“国の女王”となり、“民の母”として玉座に座すのだ。だが同時に、我の手に抱かれた眷属であることを。それさえ守ればさらなる快楽と力、その両方を授けようぞ。


 ――女王でございますね。御意。


 男と女の声が入り混じる声で答えた。この瞬間、ヴィシャップの運命は定まった。その身は王冠の重みと引き換えに、暗き契約の鎖に繋がれたのだ。


(……悦楽の波動が我に返ってくる。くく……我も、抑えきれぬほど再び漏れてしまう。男と男の交わりを嫌悪し、傀儡くぐつ契約を解こうと出来なかったのは誤算だったが――まぁ、よい。失敗すら、悦びのうちに含まれるものだからな)


 我が謀略の唯一の失敗。そう思いながら青年を見る。もう遠くまで行って見えなくなりつつあった。


(あの青年も損したな。魔族になれば女王の()が側室として迎え入れたというのに五蘊盛苦ごうんじょうくに塗れる人生を選ぶとは……。あ、そうだ。ここの村人の事を忘れていた。奴らに宣言せねば) 


 そう、サバトは終わった。


 「約束通りここの村人は保護する。ただし、奴隷としてな」


 ヴィシャップの声に答えるかのように闇から魔族が次々と現れた。青年の弟や妹も当然のごとく保護された。


◆◆◆◆


 これ以後、後にアルメニアと呼ばれる大地は魔の支配下に置かれた。ペルシャから大量に魔のものどもが押し寄せ人間を支配下に置き、人間を奴隷としたのだ。力こそ全て。力なきものは何されても服従することとなった。こうしてさらに人と魔との間に竜人や獣人も生まれ、魔となるものも増えた。


 ヴィシャップは奴隷となった人間に宮殿を作らせた。闇の力で守らせた宮殿は強固であった。六角ある城にはそれぞれ魔法陣が描かれ、さらに全体に魔法陣が描かれた。


 ヴィシャップは魔の希望の星と呼ばれ、その国の女王となった。今や光の国となったペルシャから逃れてきた魔が次々と移住し、混血した半魔ともいえる竜人や獣人、鳥人などが一大都市を形成した。


 やがて子を産んだ。卵が割れて出て来たそれは上半分が人間、下が暗黒の男の子の大蛇であった。「アジ・ラーフラ」と命名された。将来の王となる子であった。ヴィシャップは惜しみなく愛を注いだ。


 正面から人間社会を攻めることが失敗した魔の奇策とは、内部から人間の血を薄め、魔に染め上げ、人口を増やすことであった。


 半魔と純粋な魔の差別は「自由」の名のもとに絶対的に禁じたため、暗黒の都市は急激に拡大した。


 ヴィシャップは宮殿のテラスに出て国民が集う中で右手を天に向かって印を結び左手を大地に向けて印を結び呪文を唱えた。するとヴィシャップの躰から闇の波動が起き周りの草木を闇色に染めた。完全体に……両性具有になった者だけが許される印であり……闇の波動はその証拠でもあった。印の意味は「解体して再統合せよ」という意思表示である。己の躰も世界をも一旦解体して再統合した者だけが示す資格のある印である。もしただの魔族や人間がこの印を結び呪文を唱えると体が四散してしまうのだ。


 「これより、この地は魔族の地となる!」


 国民はこの声と姿に畏怖し同時に喝采かっさいがあがった。


(まさかこの我がサバトの主催者側になるとは。それも国単位のサバトの主催者側。元魔女のこの私がこんな光景を目にするとは……二度も命を懸けて完全体の魔族に生まれ変わった甲斐があったというもの)


 ヴィシャップは印を解き……喝采の声を背後に宮殿に戻った。


(人間を救うために一度だけ薬草を学びにサバトに参加したことが……我の手で人間族の国を亡ぼすきっかけを作るとは……なんという歴史の皮肉。そういえばあの時契りを交わした女悪魔パリカーのムーシュは元気だろうか? もう一回呼び寄せて見るか)


 そう、サバトとは狂乱の宴の場でもあり半魔が生まれる原因の場でもあった。ということはサバトを国全体の規模に拡大すれば……魔の国になれるではないかというヴィシャップの起死回生策だったのだ。


と、その時ヴィシャップの右手が勝手に動き胸に当てられた。


 ――分かっておるな。そなたは我の傀儡くぐつに過ぎんことに。このようにいつでもお前の躰を動させる事が出来るという事に。あまりサバトの長であるオヤジを失望させないでくれよ? 


 ――わかっておりまする、ダハーカ様


 その時闇から生じた者が現れた。漆黒の体に蝙蝠の翼。間違いない。魔女時代の徒事相手あだごとあいてのムーシュだ。彼女と交わったことで女同士の初めてと魔力を覚えたのであった。


 「監視役のムーシュよ。お久しぶりね。大丈夫。監視だけなんてむごい事はしないわ。貴方には契約通りもっともっと薬草の事教えてあげる。毒草の事もね。それに……楽しい事いっぱい出来そうじゃない?」


その顔は強欲に満ちていた。


 「私を()にしない?」


 それは私生活をも監視されるという意味だった。


 「断る。それにお前の子ではない子を産んだ」


 我が子アジ・ラーフラを守るための精いっぱいの抵抗だった。


 「いいわ。その代わり快楽の場は作らせて?」


 「承知」


 女王はなんと深々と監視役に頭を下げた。


 こうしてアルメニアは傀儡くぐつを通じて暗黒の大地へと化したのであった。純化された狂気は美しい。美しいゆえに純化される。人が不幸になるのは純化された狂気に吸い寄せられるからだというのに。そこまでヴィシャップは計算し尽くしていた……。アルメニアは徐々に砂漠が消え美しさで染まった。


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