昭和32年、山羊のいる農村風景 母はヤギ乳を売る 小夜物語 第98話
☆前書きに代えて
昭和32年。そこはとある田舎の県の、県庁所在地からローカル単線電車に、ゴトゴトと揺られて2時間余り、、たどり着いた無人駅から少し歩いて山里をたどるとようやく開けてくる開墾地だった、
そこに我が家があった。私は当時小学校3年生だった。
思い出せばきりもない、、つぎからつぎに、、現れては消えゆく思いでよ。
わたしもすっかり年を取りました、
もう、未来は、、無きに等しい年齢となり果てました。
人生の80パーセントがすでに過去形です。
未来は?そう、、あと、、10年?それとも20年?
まあそんなところでしょうか?
さて今回はそんな沸いてはさまざまな消えゆく思い出のかずかずから
「山羊の思い出」だけに特化してお話してみたいと思います
いいえ?
特別に山羊に、思い入れが、ある、というわけではありません。
ただ、、、、
なんとなく?、、というだけですよ、
それでは、、、よろしかったら。
お暇でしたら、、、
しばらく、、、私の,埒もない、回顧談に、、お付き合いくださいませ。
☆初めに
山羊のお話の前に、、我が家の当時の概要?についてザっとふれておきたいと思います。
当時の(昭和三〇年代)四反部百姓の農業生活はどんなだったろうか?
より正確に言うと、、我が家の畑の面積は、、そうですね、、、
うーーん、記憶の糸を手繰ってみると、、
約、、、2900坪?でしょうか??
これでもまあ当時のの農家では平均的なお百姓さんですね。
さらに、、
思い出の糸を手繰りながら、どんな作物、耕作、施肥、除草、収穫、食事、献立をしていたのか振り返ってみたい。
作った作物は小麦大麦、なすキュウリ、トマトメロン、とうもろこし、ネギにたまねぎインゲンエンドウ、
陸稲、大豆、薩摩いも、ジャガイモ、黍粟稗などの雑穀、飼っていたのは鶏チャボ、はと、山羊、うさぎ
猫犬、メジロ、金魚にフナ、
庭木は小梅、グミ、スモモ、棗、イチジク、胡桃、栗、柿、お茶の木もある。茗荷、蕗も生えている。
にらも自生している、
要するに自給自足である。当時何処の農家もこんなだった。
小麦は大々的に作付けした。粉は何でも使えたし、うどん、すいとん、まんじゅう、てんぷら、たらし焼き(お好み焼きのこと)オッペシなど、重宝であったから大量に作ったものだった。
秋に作付けし冬には麦踏という作業もある。
そして6月には刈り取り。刈り取るとそこにひばりの巣があったりして、たのしかったなあ。
収穫すると穀箱という巨大な貯蔵庫に入れておく。ケヤキの一枚板で高さ1.5メートル。縦3メートル横1メートルという巨大な木の箱である。勿論原麦のままである。
必要なときはそれを持って共同加工場に持っていって引いてもらい粉にする。
共同加工場というのは村に一軒ある、農産物の加工する持込工場である。
ベルトが駆動する大きな粉挽器があり、おじさんが独りいて持っていくと加工賃を取って粉に引いてくれるのである。騒音と粉の粉末が散乱して真っ白で工場内はひどい物だった。
大麦は押し麦に加工してもらう。
米の取れない開墾地では米は買うしかない。陸稲しかできない、しかも陸稲はまずい。
で、押し麦と米を半々にして炊く、当地で言うところの、割り飯である。
私もこの割り飯しか食ったことはなかった。
さてこのうどん粉であるが、
この粉を持って、村に一軒ある製麺所に持っていくとなんと干しうどんと交換してくれるのである。
干しうどんもそういうわけで良く食べたね。
このうどんやの息子が殺人事件を起こして服役したのはそれからまもなくではあったが。
トウモロコシもいっぱい作ったね、今のように生食なんてしない。
これは勿論カチカチに硬く完熟させて保管し、必要なときに例の加工場で製粉して、もろこしまんじゅうにしたり
して食べるのである。
ぼそぼそしたまずいまんじゅうだった。うどん粉を少し混ぜると滑らかさが増してよい。
サツマイモはこれを収穫して、蒸かし、それを薄く切り、むしろに並べて乾し、ほしいもにするのである。だが出来たのは、いまどきのアンナ粉吹きの美味しそうなのではなく、硬くて石のようなものだった。それをブリキのドウコ,銅の壷に入れて保存する。
食べるときは湯びたしにして、ほとばかして、やわらかくしてから食べるという次第。
芋アンにするにはそれを砂糖と共に煮るのである。
このサツマイモであるが、傷みやすいのである。すぐ腐ってしまい黒く変色してしまう。
で、芋室に保存する。芋室とは深さ2メートルくらいの穴である。
我が家にも物置の中に掘られていた。川原石で縁取り補強された立派なものだった。
ココへサツマイモを入れておく。しかし、こんな穴であるからまた、鼠の出ること、
かじられれている、芋が一杯あったね、
ジャガイモはタダ蒸かして塩をつけて食べるというシンプルなのが一般的だったね。
キビはモチキビであり、それをもちに搗く、粘りがあり風味豊かなもちになる、お色は黄色である。
大豆は枝豆なんかでは食べない、硬く完熟させて、蒸かし豆味噌を自家製で作るのである。
豆米小麦を蒸かして筵に広げる、さまして麹菌ヲ混ぜて筵をかぶせて発酵させる。
黄色く麹菌が増殖すればよい。
それはすり鉢ですりつぶして、ミソだまにして、カメに入れて1年以上寝かせる。
すると味噌になっている。
キュウリにつけたり、なすいためにしたり、味噌汁に、ほんとにミソは役立った。
鶏は放し飼いで庭のミミズを食ったりハコベを食ったりでエサは原則やらない。
でも卵を産んでくれるという重宝な生き物である。
庭には果樹がたくさんアリ、小梅の甘酸っぱい味は忘れられない。
グミはほんのりした甘さ、スモモはとにかくすっぱいが完熟するとドロ甘い。
あのスモモの木、今は実家にはもうない。
柿は甘がきはそのまま食べるしまた渋柿は干し柿にする。
川を剥いて。タコ糸を通して軒先に乾す。
やがて粉を吹いて良い具合に仕上がるという寸法。
梅は勿論梅干にする。塩ずけにし、浸かったらら3日3番の土用干し、梅酢は勿論利用する。
栗、くるみは乾燥させて保存する、
栗はそれを粉にして栗アンに、くるみは割ってくるみアンやそばつゆに、
自給自足生活である。
昭和三〇年代開墾地では、みんなこんな生活をしていました。
さて?
だいぶ前置きが長くなりすぎましたね?
それではここからは、、山羊の話となります。
☆山羊の話
庭畑の隅には父の手作りの山羊小屋があり、、
山羊は雌山羊を2頭ほど飼っていた。
山羊小屋には敷き藁を一面にしいて、ふかふかにしてそこに2頭の山羊がいた。
真っ白い山羊で、、雌なのに、、真っ白いあごひげが生えていたっけ。
といっても、、観賞用に?飼っていたわけではありませんよ、
あくまでも副業であり小遣い稼ぎ用です。
では一体、どのように山羊で稼ぐのか??
それは、、、、、
村には、、種付け用のオス山羊を飼っている農家があり、
時期が来るとそこへ連れて行って交配してもらうのである。
オス山羊の立派だったこと今も脳裏にはっきり覚えている。
母がめす山羊に首縄をつけて引いて、、その農家に行くのである、私もついてゆく、、。
オス山羊は大きくて立派でメス山羊の三倍も大きかった。怖そうである。
其処へオス山羊農家のおじさんが、メス山羊をオス山羊に引き合わせる
オスは興奮した様子でメスに乗りかかり、、盛んに腰を激しく振っている。
それを母と小3の私が眺めているのである
今から振り返れば、、異様な??光景だろうか?
当時は別に何とも思わなかった、というより、、田舎ではありふれた風景?だったし?
その意味が性にめざめていなかった9歳の私には
まったく理解不能だった、、ということもその理由だという事実である。
しばらくすると、、オスが離れる、そうして、、種付けは終了である。
母はなにがしかの金銭をその農家のおじさんに「種付け料」として手渡す。
さてそうして我が家の雌山羊はやがてめでたく?妊娠、餌もたくさん食うようになる、。
私は篭をしょって、鎌を持ち、餌の草取りに毎日行ったものだった。しんせんな草が一番だったのである。
線路沿いとか、雑木林の入り口とか、畑の畔とかに新鮮な草が生い茂っていた。
学校から帰ると、、それが私のお手伝い仕事だった。
餌は新鮮な草が一番だったが、それだけでは妊娠中の山羊には足りない、
栄養価の高い
ふすまの雑炊?も母が飲ませていた、ふすまを加工場から買ってきて水に溶くだけ、、、。。
これは油分があって山羊にいいのだそうだ
山羊はずーずーとバケツから雑炊をすすすっていたっけ。
やがて、、子山羊が生まれると、その出産も大変だ、
産気づいた山羊はめえめえとけたたましくなくし、
母はそこで急いでやぎ小屋に行って、経過観察である。順調なら、自然分娩で、ほっとくが、
難産の時はなかなか子山羊が出てこなくって、、母が子山羊の頭を引っ張って出してやるのである。その様子を小3の私が見ている、まさにワイルドである。
子山羊が顔を出してびによーーんと出てくる。
すると母山羊はその排出された血まみれの羊膜をぺろぺろとなめて食べてしまうのである。
そして子山羊の体をきれいに嘗め尽くす、、
まあ、、すごい出産風景であるが、、別に田舎暮らしの私にとってはどうという衝撃でもなかったことではあったのであるが、
さて、、こうして、、
子山羊が出来ると、母山羊は山羊乳が出る。これがお目当てである。
子山羊にはすこしだけ?のましてあとは母が手で搾乳するのである。
きれいなバケツを母山羊の下にあてがい、
母が器用に両手で絞ってゆく
ジャージャーと勢いよく乳汁がバケツにほとばしりたまってゆく、
乳がよく出るように、新鮮な草だけでなく、ふすま汁も飲ませる
ヤギ乳は毎日、毎日絞れます、毎日そうですね。
一頭から、バケツ8分目くらいは取れるのです。
さて、、こうして得られた『ヤギ乳』はどうするのか?
毎日、、母と私で飲む??
いいえ、、飲みません。
ヤギ乳はですね
これを母が毎日絞り、アルミ鍋で煮て、、煮沸殺菌しますね
これは,、煮過ぎたらだめです、味がまずくなるからです
ふわーっと、一瞬、煮立ったらすぐに火を止めます、
その時、表面には薄い皮膜ができているはずです。
それを箸で救って取り除く、
これ以上ぐつぐつ煮たらだめです。
、
それをすぐに冷まして
それを
サイダービンの空き瓶につめて栓をして
契約している?近所の家に配達するのです。
サイダー瓶10本くらいは取れますから結構良い小遣いにはなりますね。
わたしと母で配達して代りに昨日の空き瓶を回収、それを熱湯で煮て洗いつぎの日に使うというローテーションですね。
当時牛乳配達なんてものは、こんな田舎には当地にはなくて
乳牛を飼育している家もありませんでしたから
山羊乳はすごい人気がありました。
こんな片田舎では当時は乳製品なんてありませんでしたからね。
さてヤギ乳のお味はといえば、
牛乳に比べると山羊乳は相当濃厚で、味も独特の癖がある。
独特の臭みがあるのである。
しかし慣れたらこんなおいしい物はない。
特に病気がちな方とか
体の弱い人や
老人とか
コドモの発育によいという評判でした。
つまり田舎では引っ張りだこの人気だったのです。
まあとは言っても永久に乳が出るわけではなく子山羊が大きくなればもう
乳は当然出なくなります。
そうすると、、今度は大きくなった子山羊を売ってお金にするという塩梅でしたね。
このように昭和30年代には山羊は重宝な副業?として農家に人気があったのです。
思い出せばきりもない
思い出の切れ切れ、、
そのきれっぱしの糸が偶然つながったとき
わたしは一気に少年に引き戻されて
若かった母と、、ヤギの夢に浸るのでしょうね。
ところでヤギ乳一本当時いくらだったのでしょうか?
実は
その記録帖が残ってるんです。
勿論母が書いたものです。
この古びた大學ノートを見ると、、胸が締め付けられるような
あの頃がまざまざとよみがえり、、郷愁と回顧に
胸が苦しくなります。。
それではその古びたノートから母の原文通りに
ほんの一部だけを、書き写してみたいとおもいます。
堀口さん、、、、11日より、配達、7月18日まで
21日より、二合
飯野さん、、、、18日はじめ 2合
黒沢さん、、、、三日はじめ 2合
南さん、、、、 三日はじめ 3合
さて?ところで、、値段が書いてありませんね?
いったい、いくらで売ってたのか?
たぶん?
2合で、、50円?100円??くらいだったのでしょうかね??
わたしですか?
わたし当時9歳ですよ、
覚えてるわけないですよ。