10 分岐点
夜の風が頬を撫で、湯上がりの体温を奪っていく。吐く息は白く、コートのポケットに突っ込んだ手は冷たい。
学長から話を聞かされ、その答えを出せずにいる。人気の少ない中庭でぼんやりと空を眺め、最後の言葉を思い出す。
――レイノアに、お主らしき少年を探している者がいるそうじゃ。
黒髪黒目の、独特な話し方をする少女だと言っていた。一人で、必死で。ただ、ランバートという名前ではないらしい。
ウルシヤアキヨシを探している。
俺のところまで話が来たのは、黒髪黒目という特徴と、剣舞祭での一件があったから。リオさんを通じて伝わってきたらしい。
六聖者の誰かなのは、間違いないだろう。
だが、ほかの五人はどうした? なぜ俺のことを探しに戻ってくる?
嫌な予感しか湧いてこない。
あいつらは曲がりなりにも聖者で、戦闘能力においては俺を遥に上回る恩恵を受けているはず……なのに。
足音が二つ。振り返って、手招きする。
「悪いな。呼び出して」
カトレアとノアは、やや困惑した表情で近づいてくる。勘のいい二人は、俺の様子がいつもと違うことを察したらしい。
「少し、……大事な話があるんだ」
周囲に人の気配がないのを確認して、二人に視線を。
「〝咎人”のこと、学長から聞いたんだ。あいつらは俺のこと、狙ってくるかもしれない」
「――っ」
覚悟していなかったわけではないのだろう。二人の表情は硬くなりこそしたが、驚愕というほどではない。
「どうすればいいかわからないんだ。俺がここにいないと、二人が危ないときに守れない。けど……俺がここにいると、二人を危険に巻き込むかもしれない」
「で、でも、バートなら〝咎人”に勝てるわよね」
「確実じゃない。勝てるかもしれないし、負けるかもしれない……いや、違うな」
自分で口に出して、気がついた。
負ける。
向こうに本気を出されたら、俺は確実に負ける。
七人の聖者が全力を尽くし、やっと対等に渡り合える相手に、俺が一人で敵うはずがないのだ。心の中ではそれを知っていたのに、たった一度の幸運が思考を鈍くしていた。
俺を信じてくれるカトレアに言われて、冷静になって、やっとわかった。
俺は、そんなに強くない。
エリナ先生とも引き分けになる。そのくらいの実力だ。スキルをいくら生み出したって、使う間を与えられなければ意味がない。防御を無視する攻撃だって、防戦一方じゃないのと同じだ。
そんな単純なことにも気がつかず、目を逸らしたのは、自分への甘えだ。
俺は……カトレアとノアを呼んで、引き留めて欲しかったのだ。
今のままでいいと、守ってやれると信じたかった。これ以上の高みへ手を伸ばすにしても、学院というぬるま湯で。教師という立場で、なにを危険に晒されることもなく――たどり着くはずがない。
あらゆるスキルの熟練度は既にカンストしている。習得できるものはすべて得た。
だが、それでも足りないと言うのならば。
茨の道を行く以外に、どうやって成長などあり得る? カトレアたちと同じ歩幅で行けば、間違いなく俺は置いて行かれる。ついていけなくなる。
自惚れるな。見間違うな。
自分の目指すものを、なりたい未来像を、失うな。
「悪い、カトレア。今の俺じゃお前を守れない」
側にいたい。誰よりも近くで君のことを守りたい。
だけど。今の俺には、守ることなどできないから。いたずらに君のことを危険に晒すくらいなら、俺は。
「出て行くよ。だから、しばらくお別れだ」
「どうして!? バートはもう……強いのに。誰よりもずっと、……強いのに?」
「弱いよ。俺はもっと強くならなくちゃならない」
カトレアは唇を噛んで俯いてしまう。
ノアは、どうしていいかわからなそうに、俺のことをじっと見て固まっていた。
「……行かせてくれ」
長い沈黙があった。
俯いたままでカトレアは手を伸ばして、俺の腕にぎゅっとつかまる。ノアもそれを真似てか、反対の腕につかまってきた。
そのままじっと固まって、何度も言葉を飲み込んで、最後にカトレアはこう言った。
「死なないでね。絶対に」
俺は静かに頷いて、そして。
夜明けと共にレイノア行きの馬車へ乗った。
†
桜花都市レイノア。
大して間も置かずに帰ってきた街は、当然のことながら大きな変化は見られない。強いて言えば、道を歩いているだけで注目を浴びることくらいだ。
気候はちょうど良く、道の木々は桜色の花弁を散らしている。
マイアーズ学院長からの指示通り、大通りを歩いて行くとエルフの貴族が立っている。
「やあ、思ったより早かったね。バートくん」
「事態がここまで切迫しているとは思わなかったですね」
「そうだね。僕も驚いたよ。けど、そうだね。これは不思議なことじゃない」
リオさんは踵を返し、やけに豪華なレストランへ入っていく。
「どういうことですか?」
隣をついていきながら、質問を投げた。
「人間族に『聖者』が現れる時、魔族には〝咎人”が現れ、争いの均衡を保つ。この世界ができた頃からあるルールみたいなものでね。互いの戦力は常に平等に保たれるようになっているんだ」
――まるで誰かが、操作しているように。
核心を突かれるのと同時に、強烈な違和感にぶつかった。
俺はこの世界に来る前に、この世界の神に会っている。そしてその神は、世界を救う英雄になれと。人の俺に力を託送として――結局それは、六人の聖者に与えられたけれど。
外部からの絶対の干渉者、神は人間族に肩入れしている。
それなのに、均衡?
同じ時期に二つの力は生まれる?
思えばおかしい。聖者たちは神から力を与えられる。
だが、〝咎人”はどこから力を得ている?
神に匹敵する、相反する力が存在しているとしか思えない。
神ではないなにか、神すらも想定外の存在が、この世界にはいるのではないか。
「…………」
「バートくんの知り合いだろう? 『書の聖者』の女の子は」
「…………」
だとすれば俺はそいつに踊らされている?
いつから? どこから?
なにから?
神すらも?
「バートくん?」
「すいません。なんでもないです。ええと、……なんでしたっけ」
強引に思考を打ち止めにして、頭を振る。
「君を探している子のこと。この部屋に待たせているんだけど」
レストランの一室、奥まった部屋の扉を使用人が開く。
開ける光景。質の良い調度品と、円卓。並んだチェアの一つに、黒髪の少女がちょこんと座っていた。
この世界に来て、見ることのなくなった黒髪黒目。ひどく寂しそうに縮こまる彼女は、
「須藤……やっぱり、お前か」
「うる、しやくん……」
目が合うと須藤は立ち上がって、一直線に飛び込んできた。
目を真っ赤にして、全身を震えさせながら、俺の胸の中に。しがみつくように崩れて、顔を埋めて泣き出す。
「生きてた……ひとりじゃなかっだ……」
「どうした須藤……ほかのやつらは?」
必死に背中をさすって落ち着かせながら、俺は、聞きたくないことを聞く。
予想できていた最悪は、彼女の口から告げられた。
「みんな、いない……ウチ以外、みんな、いなくなったんよ」
聖者たちが既に、敗北したという事実を。
俺たちの敵は、神よりも凶悪なものであることを。
知ってしまったのだ。