12 ノア
私を示す言葉は、あれ、これ、それ、奴隷、てめえ、ゴミ、クズ……多いけど、どこにも暖かみを含むものはなかった。
誰かに優しくされた記憶はない。生まれた時から売り物として育てられた私は、兄妹の中でも最も雑に育てられた。獣化しそうになれば、力尽くで抑えられて、苦しくて苦しくて仕方がなかった。
生きていたくないという願望はあったが、どうしてか死ねなかった。
愛されて育つ兄妹たちの姿が、運ばれる檻の中から見えた普通の世界がほしくて。ほしくて仕方がなかったから、諦められなくて。
だけどそれは、この手足に枷がつけられ、鎖で縛られている限りは不可能だと知っていたから。夢だった。
夢だったから、いざ目の前に与えられて、どうすればいいかわからなくなってしまった。
チーズフォンデュ、というものを食べた時、ここは天国なんじゃないかと思った。
とろとろで暖かくて、幸せの味がした。
目の前で私を見ていたランバートさんは嬉しそうにしていて、カトレア様は抱きしめてきた。
どうして?
どうして私は、可愛いと言われるのだろう。
私は、可愛くなんかないのに。
愛されるはずなんかないのに。
さっきランバートさんが言っていた。カトレア様は、優しいから優しいのだと。なんとなく、その意味はわかる。
だって昨日、私は傷つけたのだ。理性を失って、暴れ回って、たくさんケガをさせた。今日だって、まだ回復していないはずなのに。私の前で痛そうな顔も、疲れた様子も見せない。
どうして?
どうして私は、信じられないはずなのに。
信じたくなんてないはずなのに。
この人たちのことを、信じてしまいそうなのだろう。
わからない。わからないというのは、息苦しい。こんなことなら、ずっと奴隷で、檻の中で、わかることだけに苦しんでいたほうがよかったと……。
そうやって言い切ることすら、もう、できないくらいに。
だけど。
それじゃあ、この人たちに裏切られたら? 捨てられたら? また、ひどいことをされたら? どうやって私は生きていけるだろう。どうして私は生きていられるだろう。
「疲れちゃったかな」
「病み上がりだしな……ケーキは明日でいいか」
声が遠くに聞こえた。
抗おうとしたけれど、ダメだった。上からかけられた温かいもののせいで、眠気が襲ってくる。
ほんのちょっとだけ、ほんのちょっとだけだからと言い訳して、意識を手放す。
…………。
……。
目を開けると、私はソファの上に横たえられていた。毛布を掛けられている。
起きたのは、食器の音がしたからだ。
「ん、起きたっぽいな」
「おはよう」
二人は揃ってテーブルに座り、向かい合っていた。
もしかして、一晩中眠ってしまったのだろうか。
「あ、あの……ごめんなさい」
謝らなければ。謝らなければ。
先に寝るなんて、勝手に寝るなんて、主人よりも早く起きていないなんて。
「カトレア、お前なんか怖いこと言ったのか?」
「バートこそ、変なこと吹き込んだんじゃないの?」
「「まさか」」
二人揃って首を振って、顔を向けてくる。
「どうして謝ったの?」
「……それは、早く起きて、働かないから……」
「どう思う、カトレア。と、不眠不休の俺が言うのもあれな話だが」
「ほんと、バートがいると基準が狂うのよね。でも逆に、バート一人でなんでもできちゃうし。働かなくても怒らないわ」
「いや、俺の仕事量」
「子供は寝るのも仕事のうちでしょ」
「……否定はしない。というか、その通りだ」
ランバートさんは黒髪をわしわし掻き上げ、
「ということだ。よく食べてよく学びよく遊びよく寝て、よく整地すればそれでいい」
「整地はしなくていいからね?」
理解ができなかった。
怒るどころか、二人はなんでもないようにしている。
「おいで」
笑顔で手招きしてくれる。
「腹減ったろ。さくっと作るから、カトレアに抱きしめられとけ」
ご飯を用意してくれる。
「バート、その前にあれ」
この人たちは、私にいろんなものをくれる。
そしてそれがなにかは、もう、気がついていた。
これまでの人生で、もらえなかったもの。
これまでの人生で、なくしてきたもの。
「名前な。……気に入るかわからないから、嫌だったら言ってくれ。っていうか、カトレアが言えばいいだろ、ご主人様なんだから」
「考えたのはバートでしょ。私のセンスがないから……正直、自分でも悲しくなるくらい」
「そうだけどな……じゃあ、いいか」
ランバートさんは戻ってきて、私の前に座る。
やや緊張した面持ちで、
「ノア」
と告げた。
それは紛れもなく、二人が私にくれた、私の名前だった。
私のことを認めてくれて、私のことを考えてくれて、私のために与えてくれたものだ。
胸が温かくなった。
「名前の意味は、希望だ」
目の前が明るくなった。
光が見える。そこに、二人いる。
笑って待っていてくれて、手を差し伸べてくれる人たち。
入ってもいいのだろうか。私も、その中にいてもいいのだろうか。
聞かなくても、答えはわかる気がした。
だから――
「気に入らなかった……なら、なかったことにしてほしいんだが」
「ノアは、ノアです。ノアがいいです。ノアになりたいです」
この名前を抱きしめて、二人のそばにいよう。
もう、ゴミなんかじゃない。