第7章 2018年9月10日~9月11日午後1時15分
俺には気がかりがある。だから昼休みに佐倉さんを呼び出した。教室で二人が顔を合わせて騒がれるのは嫌だったけれど「暗がりに誘い出して何かしようというわけじゃないんだから」と、だだっ広い校庭の一番隅っこ。佐倉さんと二人でフェンスの横に来たところで、敷物は持ってないから、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「佐倉さんも座ったら?」
あ、しまった!
と思ったときにはもう遅く、佐倉さんもその場にしゃがみ込んだ。
美少女をウ○コ座りさせてしまったのはまずかったと思う。でも、やっぱり、かわいい! つい俺の顔がにやける。
でも、話す内容は、少しだけ暗くて重いんだ。
「佐倉さん、最近笑うようになったけど、俺らのチームの中だけだよね。他の人を笑うのって、やっぱり、怖い?」
佐倉さんは無表情な顔を俺からやや背けて黙り込む。しばらく時間が流れて、俺がしびれを切らした。
「佐倉さん、この話、つらい?」
佐倉さんが俺の方を向いた。
「怖いです」
「まあ、俺だって、関係ない人を笑って、仕返しされるの、怖いしね」
本音がぽろっと出た。
笑いは、控えめに言っても、礼を失しているところがある。
後で釈明して仲直りできる関係なら良い。
つながりがほとんどない人間を笑うと、笑われた側がこらえるか、笑った側が仕返しを受けるか、たいていは良くないことが起きる。
だから避ける。笑わない。
そのことは毎日感じているはずだったのに、言葉で考えると、つい、どうして笑わないのだろうかと結論づけていた。
「この話、俺の方が悪かったよ。赤の他人を笑うのって、あんまり良くないしね。まあ、どうしても笑っちゃうときもあるけどね」
「どんなときです?」
そう問い返した佐倉さんは、真面目だった。
改めて聞かれると、困る問いだ。
「そうだなあ、相手があまりにひどいことをしていて、情状酌量の余地がないとき、とかかな。こいつは馬鹿にされてもしょうがないと思えるときってたまにあるよ」
そのとき、校庭から叫び声が上がった。
声がした方を見ると、声の向こう、三階建ての校舎の屋上から、男子生徒が一人、落ちそうになっているところを両腕を二人の男子生徒に掴まれてかろうじてぶら下がっていた。
落ちかかっている男子生徒は、吉崎だった。
屋上の高さから、校庭に向けて、一枚の紙がひらひらと落ちていく。見慣れた色の綺麗な印刷。一万円札だった。
この状況を冷静に見ると、風に飛ばされた一万円札を取ろうとして足を滑らして屋上から落ちかかった、というところだ。だが、そんなことがそうそうあるだろうか。
今はあるのだ。bocketがあるから。
bocketの匿名のボケは「ウケた」が多い参加者のものが選択される。しかしそれはあくまで傾向に過ぎない。時折番狂わせがあることを、噂で聞いたことがある。
まわりを親衛隊で固めた吉崎に、その番狂わせが起きた。そういう解釈ができる。
しかし、これは本当にbocketのボケなのか? bocketは身体にだけは危害を加えない。三階建ての校舎の屋上から落ちれば、少なくとも足の骨折、悪ければ命に関わる。
それも大事だが、周囲の人間にとっては、相手が吉崎だというのが重要だ。校内の「ウケた」を一手に集め王国を作った吉崎だ。あとで何をするか分からない。落ちていく一万円札を拾ったりしたら、どんな仕返しが来るだろう?
誰も笑えない。無言の中を、一万円札がひらひらと落ちていった。
皆の注目を浴びる中、吉崎の取り巻き二人がどうにかして吉崎を屋上に引き上げた。結局怪我はなく、これがbocketで引き起こされたという間接証拠になった。
校庭の皆が、関わり合いにならなかったことに胸をなで下ろしていた。
そのとき。
「ハハ、ハ、ハハハ。アハハハ」
小さな笑い声が聞こえた。俺のとても近くから。
佐倉さんが笑っていた。
声は小さいけれど澄んでいて、顔は屈託から解き放たれて明るい。
学校の皆が、初めて佐倉さんの笑い顔を見た。それは美しいのに、美しすぎて場違いであるが故に、皆はおぞましいものを見たような顔をした。
その視線は横にいる俺にも突き刺さる。怖い。
「佐倉さん、今、笑うところ?」
「あんな強い人でも、bocketに引っかかるところが、おかしくて…… アハハ」
俺はさっき言った。「相手があまりにひどいことをしていて、情状酌量の余地がないとき、とかかな」。
吉崎がやってきたことは「ひどい」の一言だ。暴力をちらつかせて「ウケた」を独り占めし、協力した人間も平気で裏切った。
彼を笑うことができる人間がいなくなった吉崎が、一番笑われるべき人間なのだ。
佐倉さんは、笑われるべき人間を、きちんと分かっていた。買いかぶりかもしれないけれど、俺はそう思うことにした。
佐倉さんを突き刺さる視線の中に孤立させてはいけない。仲間を増やそう。
俺は、笑う。
「そうだよな。あれだけみんなを脅して『ウケた』をかき集めても、運が悪いとボケに引っかかるんだもんな」
「意外とbocketって何が起きるか分からないんですね」
「人を踏みつけにしても、ダメなときってあるんだな」
笑う佐倉さんと俺を、校庭の皆が冷たい目で見る。「どうなっても知らねえぞ」と小声で誰かが言った。それでも佐倉さんと俺は笑い、動けない皆の間を一万円札が風に吹かれてずりずりと動いていく。
校舎から吉崎が出てきた。一万円札を見つけると一目散に走り出した。周囲が吉崎の行く先を空ける。一万円札が吹き寄ってくると、汚いものが来たかのように逃げた。そうして、誰も拾わなかった一万円札を吉崎は拾って財布にしまった。そのあと、校庭でただ二人笑っている佐倉さんと俺に歩み寄ってくる。怒りの形相で。
座ったままでは、何かあったときに逃げられない。俺は立ち上がって、佐倉さんに手で促した。俺につられて佐倉さんも立ち上がった。
二人で吉崎と対した。
吉崎は、目で俺たちをねめつけ、ズボンのポケットに手を入れ「ジャラ」と鳴らした。
「佐倉、おまえか?」
佐倉さんは震えている。
「私……じゃ……ありません」
「笑ってたじゃねえか」
「私の……ボケじゃ……ありません」
「なんだと!」
ここは俺が前に出なきゃダメだ。
「佐倉さんはまだ『ウケた』が5個しかないんだ。いくら番狂わせが起きたとしても、当たり前に考えて、他の奴だろ」
「俺っ娘! おまえか!」
吉崎は俺の鼻先までにじり寄ってくる。佐倉さんのときと違い、男子の俺には容赦する気がない。
喧嘩慣れの差があるにしても、俺だって「男」だ。ここで折れるわけにいかない。
「俺だって、『ウケた』を集めるグループに4人しかいないんだから、吉崎の親衛隊を突破できるわけないじゃねえか」
いくら俺が男子だといっても、ここは衆人環視だ。吉崎だって、そんなに乱
暴はできない。ポケットのあれも、音で想像を膨らませるだけで、実際にここで使うわけじゃない。ひるまず強気に出ればいい。
「じゃあ、なんでおまえらだけが笑ってるんだ!」
「ギャグセンスの差じゃないの?」
俺は吉崎の鼻先でひときわ大きく笑ってやった。
吉崎が振り向いた。そのとき、俺の左足に蹴手繰りが来た。
俺はバランスを崩し、地面に手をつく。佐倉さんがかがみ込み「大丈夫?」と声をかけるから「大丈夫」と(力なく)答える。
「佐倉! 俺っ娘! 覚えてろよ!」
吉崎は捨て台詞を吐いて俺たちから去る。校庭の皆は、吉崎に従順の姿勢を示すため、佐倉さんと俺に「馬鹿が」とか「終わったな」とか悪態をついていく。
俺たちはすっかり孤立した。地面に手をつく俺の姿は無様だ。でも、隣の佐倉さんが肩をさすってくれた。
こうなると、多分、明日は復讐のボケが来るだろう。何ができる? 何もできない。ただ、不安を誰かに打ち明けて楽になりたい。高加良なら、こんなときも笑い飛ばしてくれるはずだ。
俺が教室に戻ったとき、高加良がどこにいるのか分からなかった。
「高加良」という名字で呼ばれている人物ならいた。そいつは自席に座って校庭を見ている、フリをしていた。その目線は遠くにあって、世の全てを半分見つつも半分目に入っておらず、悩める哲学者のように黙考していた。
「高加良……」
俺は呼びかけるのに少し遠慮した。
「……楠木か」
振り返った高加良の顔に笑いはなかった。真面目な人格者に見えるその顔は、評価は上がりそうだが、生気に欠けていた。
ここは俺の愚痴を打ち明けるどころではない。俺は隣の席に座って高加良の顔をのぞき込む。
「高加良、何か悩み事があるか?」
「笑いって、こんなに卑しいものだったか?」
「卑しいって……」
「俺はこんな下卑たものを信じたのかな?」
高加良は、半分俺を見つつ、半分でどこか遠いところを見ていた。ため息はつかなかった。
それ以上は言わなくても分かる。語尾は疑問系だったけど、心の一番奥で得心している。bocketは人間の卑しいところを解放して、それが笑いなのだと認識を迫っている。高加良が信じたものが汚された、いや、初めから腐っていたといたと認めざるを得なくなっていた。
そっちに行っちゃダメだ。でも、真正面から呼びかけて青春ドラマを演じるのは俺たちの間柄にそぐわないようで、遠回しにおちゃらけたことしか言えない。
「こういうときこそ、笑えば良いと思うよ、だよ」
「その笑いって、他人を貶めるものなのかな。俺は自信がないよ」
半分遠くを見ている視線は、戻ってこなかった。
「高加良。今ここで笑いを信じられなくなったら、おまえには何にも残らないだろ。おまえは信じた道を進め」
「楠木、俺を買いかぶりすぎだよ。笑ってられないときもあるんだ」
俺と高加良の間で、九月なのに、冷たい空気が流れる。骨の髄が冷える。
「楠木」
高加良の方から呼びかけてきた。
「文佳には、このこと、黙っていてくれないか。文佳は、表面は強いけど、奥底が乙女だから、支える人がいないとダメなんだ。俺のこんな姿は見せられないよ」
「分かった」
あの相沢さんが? とは思うのだけれど、友の頼みを無下に断る空気じゃない。
そこでチャイムが鳴った。
「さあて、平常運転に戻らないとな」
高加良は座ったまま伸びをした。腕を下ろしたとき、いつもの半分笑った顔が戻っていた。
さっきのは気の迷いだ。幻影だ。BL妄想だ。
そう思えれば楽だったんだけれど、高加良を見ていて、いつもにはない影が見える。
授業が終わって、これからの計画を話し合うのに、一度ぐらいはドーナツショップにでも行ってみないかという話になったのだけれど、学校を出るときに高加良が「ちょっとトイレ。先行っといて」というので、俺だけ登校口に向かった。「大だから時間かかる」と言っていたけど、実のところ、どうだろう、心の澱を流すのは時間がかかるのだろうか。
下足に履き替えて校舎を出たところで相沢さんがいた。
「あれ? 高加良は?」
俺の名を呼ばないところが相沢さんらしい。もう諦めたよ。
「トイレ。女の子に言うことじゃないけど」
「そう……」
相沢さんは、横にいた俺をほったらかして真っ正面を向いて、そのまま黙っている。
このままじゃ間が持たないよ。
「相沢さん、悩み事あるの?」
相沢さんが俺を見た。
「悩み事なら誰にだってあるわよ」
「話したら楽にならない?」
「あんたじゃダメね」
カチン! ……ときたけど、ここで怒ったらぶち壊しになるからやめだ。
「じゃあ、高加良は?」
「悠一なら大丈夫よ」
「そんなに高加良を信用してる?」
相沢さんは、恥ずかしそうに(相沢さんでも恥ずかしそうにするのか!)、俺から目をそらした。
「私だって、心の中はグチャグチャ、迷ったり怯えたりするわよ。でも、悠一は、いつも笑いで包んでくれる。悠一がいるから、私は強がっていられる。あんた、悠一と付き合いが長いのに、悠一こと何にも分かってないのね」
じゃあ高加良と別れて大人しくなって欲しいな。
と思ったけど言えなかった。
それに、もう一つ言えないことがある。
高加良はそんな聖人じゃない。今、現に、苦境に立たされて潰れかかっている。
相沢さんが見ている高加良の姿は幻影なんだ。高加良にも支える人が必要なんだ。
それを言うのは、高加良から口止めされていた。
「待たせたな」
後ろから高加良の声が聞こえた。
俺は高加良の表情を確認したくて首が痛くなるほど早く振り向いた。
高加良はいつものように笑っていた。
「悠一、やっと来たの?」
相沢さんもさっきまでとはうって変わって明るい声で答える。
「男にはいろいろ用事があるのさ」
高加良の言葉はぼかすときの常用句だった。何をぼかしたのか。それは隠されていた。
「高加良がいないと私たちのグループはまとまらないんだから。しっかりしてよ」
「俺がいたって笑ってるだけだぜ」
いつもと変わらぬ、バカップルの軽いやりとり。
その奥底は、心を閉ざしかけている男と、男に頼り切りの女。
俺の耳に、破綻の足音が聞こえた。
「ところで佐倉さんは? そもそも来るの?」
相沢さんの一言多い問いかけ。俺はスマホを取り出した。
「日直だから遅れるって。あ、それ、全員のStringに届いてるじゃん」
「あんたならもっと詳しいこと知ってるかと思って」
「佐倉さんとの仲の買いかぶり、ありがとうございます」
俺たちはドーナツショップに歩き出した。
ドーナツショップは楽しかった。子どもに見られたりしないし。かわいい佐倉さんがドーナツをゆっくりと食べるところを見られて、ダブルデートってこんなんかな、という妄想にも浸れた。でも、高加良と相沢さんの先の見えない明るさが気がかりで、ドーナツもコーラも甘くなかった。
夜になって、高加良と相沢さんに署名付きボケを送って、佐倉さんには匿名のボケを送った。きっとなんの防御にもならない。そのことが気がかりで、眠れなかった。
朝になって、恐る恐るスマホを見たら、まあ最悪のボケが届いていた。匿名だけど、誰の手下がどういうつもりで送ったかは大体分かる。俺は佐倉さんにStringで連絡を入れた。
俺、今日はなんとかなるよ。
「さあさあ、濡れた服は脱がないと風邪引くよ」
って送りつけられたけど、
俺、男だから、別に困らないし。
すぐに返事は来なかった。もそもそと朝食を食べて、学校に出ようかとしたとき、スマホのLEDランプが光っているのに気がついた。開くと、佐倉さんからの返事が届いていた。
学校に来たら、
私のスマホを見てもらえませんか?
なんだろう。
10秒ほど経って気がつく。
言いたくないほどひどいんだ。
俺は返事を送った。
分かった。
朝礼の前に佐倉さんのクラスに行く。
俺は遅刻しても良いから。
いつも通りの投稿時刻だから、佐倉さんは余裕があるけど、俺は時間ギリギリ。そこを無理に佐倉さんの教室に押しかける。「またか」と言った奴がいたが、気にしない。
佐倉さんは、以前のような、無表情だった。
「佐倉さん、来たよ。スマホを見せて」
佐倉さんは、おぼつかない、取り落としそうな手つきでスマホを取り出して俺に見せた。
さあさあ、濡れた服は脱がないと風邪引くよ
どうして俺と同じものが? 匿名のボケは一人一つだけだろ?
でも理由はいくらでもつく。吉崎の子飼いがあらかじめ連絡を取り合った可能性は十分にある。それに、システムが表示された候補を選択してボケを作るbocketのシステムだ。裏で悪意が働いている可能性は否定できない。でも、そんなひどいことが起きるのか?
その考えを俺は改めた。bocketなんて、悪意の塊じゃないか。
問題は佐倉さんだ。女の子だぞ。これはまずいんじゃないのか。
動揺している佐倉さんにはとりあえず落ち着いてもらわなければいけない。
「佐倉さん、現実になるかもしれないけど、なんとか見られないようにするから。俺がそばにいるから」
「大丈夫?」
佐倉さんが俺の顔を見て、一言こぼした。ここで投げ出すわけにはいかない。
「大丈夫だから」
そのときチャイムが鳴った。違う教室から来ている俺は遅刻だ。佐倉さんの担任の先生に「何やってる!」と怒鳴られたが、内申書の点数なんて、くそ食らえ。
授業の合間に佐倉さんと連絡を取り合う。本当は授業中もStringしたかったけれど、スマホ没収で連絡だけできなくなるのが怖かったからできなかった。1、2時間目は動きがなかったけど、3時間目が終わった休み時間にクラスの他の男子からStringのメッセージが入った。
昼休み、空いてるか?
校庭に来てくれないかな
俺は佐倉さんに確認する。
俺は昼休みに校庭に呼び出された。
佐倉さんが別の場所に行くなら
呼び出しは無視して佐倉さんの側に行く。
私も校庭に呼び出されました
分かった。
一緒に行こう。
俺は授業は上の空で4時間目が終わるのを待った。
昼休みになって、佐倉さんの教室に行くと、佐倉さんは自席に座っていた。俺は佐倉さんの手を取って教室を出る。佐倉さんの手を握ったのは初めてだったけど、もうこの手は洗わないとかエロい妄想をしている余裕はない。
校庭は、普段通り、一部の男子がサッカーをして、平和な情景だ。
俺は佐倉さんの手を握り、佐倉さんの前に立ちかばう構えをとる。佐倉さんの手が震えている。
「皆さん、来ないですね」
佐倉さんの言葉は、誰が来るのか分からないことを表していた。
「まだ、分からないからね」
気を抜いて離ればなれになったところを狙われるのが一番怖い。俺は佐倉さんの手を一層強く握った。
5分経ったところで、生徒の一団が、つまり一団と呼べるだけの人数が校舎から出てきた。
男子が5人。女子が7人。男子は普段は俺に恨みがなさそうな(俺、そんなに悪いことしてないぞ)人間だが、女子の先頭は佐倉さんをオモチャにしていた3人だ。
男子と女子がそれぞれ二手に分かれて、一方は校舎脇の水道に据え付けられたホースを持ち出してくる。まさか、わざとかけるつもりか。
俺たちに向かってきたのは男女3人ずつ。女子はいじめっ子3人。その中の一人が俺の目前に来る。
「佐倉さん、彼氏できたんだね。幸せそうじゃない」
その後ろからホースを引っ張ってくる集団が近づいてくる。
人数かけて取り囲んで水ぶっかけて服を脱がそうってか? 公開の場で? ひねりが何もない、全くのイジメじゃないか。
「あんたが幸せになるのって、むかつくんだよね」
その後ろの女子が手招きすると、水道の蛇口に張り付いていた女子が蛇口をひねった。
俺と佐倉さんをホースの水が襲う。俺はなんとか前に立って佐倉さんをかばうが、佐倉さんも結構濡れていく。
そのとき、男子と女子が俺たちに襲いかかった。女子は佐倉さんに、男子は俺に、俺たちの手足をとって二人を引き離す。俺の手の中から佐倉さんの手が抜けていった。
俺たち二人は交互にホースの水を浴びる。三対一だ。為す術もない。
いじめっ子の女子が下卑た笑い顔をした。
「さあさあ、濡れた服は脱がないと風邪引くよ」
女子二人が佐倉さんの手足を押さえ、一人がシャツのボタンを解いていく。次第にあらわになる肩、胸。
ピンクのブラジャーが丸出しになった。
そうか、ピンクなのか。
というスケベ心が心の隅に浮かんだけれど、蹂躙されていく佐倉さんを見続けることに罪悪感が浮かぶ。
校庭の隅、俺らから離れたところで、嫌な笑い声がした。
吉崎だった。
脱がされていく佐倉さんを見て、なんの屈託もなく笑っている。
このゲスが!
佐倉さんを蹂躙する手は止まらず、ついにスカートもずり下ろされた。青いパンツが目の前に見えた。
佐倉さんは身体のラインもバランスがとれていて綺麗だった。胸の膨らみもウェストのくびれも腰の丸みも全部見えた。ずっと見たいと妄想してきた姿だけれど、俺の息子を膨らませる余裕はない。
俺を押さえつける男子も、俺のシャツのボタンを解きはじめ、ズボンもずり下ろされた。トランクスがあらわになる。ブリーフじゃなくてよかった。シャツを脱がせた男子がにやりと笑う。
「おまえ、男子だから、上の下着は脱いでも良いよな?」
抵抗もむなしく、上の下着を脱がされた。
遠くから、吉崎の声が聞こえた。
「本当に胸無ぇんだな」
「あるわけないだろ。あったらキモいわ!」
俺の叫びを吉崎はかんらかんらと笑って流した。
校舎の校庭側のベランダは人だかり。下着姿に剥かれた俺たちを見ていた。
校庭まで響く、笑い、笑い、笑い。
職員室から先生が飛び出して、俺たちを押さえつけていた生徒たちが逃げる。
このままだと先生に事情を聞かれるだろう。
辱められた佐倉さんを教師からの質問「責め」に会わせてはいけない。
俺は佐倉さんのシャツを手に取って佐倉さんの前面にかけ、もう片手で佐倉さんのスカートを持ち上げ、佐倉さんに合図して先生から走って逃げた。
校舎の裏側まで走ったら二人して息が切れた。佐倉さんのシャツは、水浸しになった校庭に無造作に放り投げられていたから、泥だらけになっていて、佐倉さんのきめ細やかな肌に泥がついていた。
俺、何してるんだ?
佐倉さんに「大丈夫だ」と請け負って、このザマだ。何が大丈夫だ。
佐倉さんを見るのが怖くて、真正面から見られない。
やや横を向いているとき、視界の隅に、ホースの水とは違う水滴が見えた。
佐倉さんが、泣いている。
数日前までの、佐倉さんが怪物に見えたときも、ついこの間の、佐倉さんの綺麗な笑顔を見たときも、佐倉さんが泣くだなんて想像しなかった。
でも、泣くのだ。
今までは心が死んでいたから、笑いもしなければ、泣きもしなかった。
笑える心は、泣くこともできる。泣いてしまう。
心を取り戻して、地獄の苦しみを味わっている。
佐倉さんは、泣いて、泣いて、泣き続ける。
俺は見てるしかない。
しばらく泣いて、佐倉さんは泣き疲れて、嗚咽も弱くなった。
俺たちの関係は、ここが限界なんだろう。そう分かった。
俺は佐倉さんに向き直った。
「佐倉さん、俺じゃ、佐倉さんを守れない。他の奴に乗り換えた方が良い。佐倉さんなら、笑顔を見せれば、きっと守ってくれる人はいるよ」
「楠木君が良いです」
俺は耳を疑った。弱いけど、はっきりとした声。
「俺、全然ダメだよ。それでもいいの?」
「ハイ」
佐倉さんは言い切った。俺より佐倉さんの方が肝が据わっている。佐倉さん、強いんだな。
でも、俺たちが限界に来ているのも事実だ。限界を超えて、俺たちはどこに行けるんだ?