表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

第3章 2018年9月3日~9月5日

 bocketの猛威は土日も治まらなかった。俺はコンビニで酔っ払いに絡まれて酒を口に含まされそうになり、もがいたところで頭から酒をかぶった。酒をかぶるところまでがbocketのボケだった。ひでぇ。とぼとぼと帰るとき、あきらかにbocketにやられた人間を見かけた。あちこちで混乱が起きていた。

 でも、殺気立っているのは、休みが明けて顔なじみが揃う月曜日の学校だ。

 今日も俺たちが受け取った匿名のボケはグループ外から届いたものだった。高加良は新撰組映画さながらの階段落ちをやった。相沢さんは授業中に20回も電話がかかってきて全部不動産販売だった。そして俺は「女の尻に敷かれた、文字通り」と入っていて、4時間目が終わったところでまだ現実になっていない。

 給食が終わり昼休みに入ったけれど、女子に近づくのが怖くて、自分の席で昼寝しようと思ったけれども、心配事があるからなかなか寝付けない。

 そんなとき、教室の廊下側から、俺を呼ぶ声がした。

「楠木、佐倉さんが呼んでるぞ」

 佐倉さんか…… って、あの佐倉さん?

 学校一の美少女で、こないだエロビデオを学校に持ってきた、心が死んでる佐倉さん?

 本当か? と思って顔を上げたら、確かに教室の入り口にいた。その瞬間、目が合った。佐倉さんは俺がいることに気づいたようで教室の中に入ってくる。俺はとっさに顔を机の上に突っ伏して手で覆った。つかつかと足音が俺の横まで近づいてくる。

「楠木君、起きてますか?」

 寝てます、と言うわけにはいかないのでただ黙る。

 周囲から男子の声が飛ぶ。

「楠木、顔を上げないと佐倉さんがかわいそうだろ」

 それでも俺は寝たふりをする。

 長かった。5分ぐらいたったろう。そのとき。

「楠木君、起きて」

 佐倉さんの声がした。

 おい、もう何分も経ってるんだぞ。その間、ずっと横で待ってたのか? 普通あきらめるだろ。このままだと本気で昼休み中ずっと俺の横で待ちかねないぞ。

 俺は顔を上げた。佐倉さんは、あの日通学路で見たとおりの心がないかのような表情で俺を見ていた。不気味だったけど、女の子を立たせて自分だけが座っているのって失礼だから、佐倉さんと目線が合うように立ち上がった。その瞬間、横から男子の「美少女二人並んでるよ」と声が飛んだ。言い返したかったけれど女の子の前だからやめた。ただ佐倉さんとの話を済ませることだけを考える。

「佐倉さん、どうしたの?」

 佐倉さんは表情を変えず。

「楠木君にお願いがあるんです」

「何?」

「bocketでお互いのボケにウケたをつけてほしいんです」

「bocketって、あのボケが現実になるbocketでグループを組みたいってこと?」

「そうです」

 佐倉さんは、頼み事をしているにもかかわらず、心の動きが全くない顔をしている。俺より背が1、2cm高いから、わずかに俺の顔を見下ろす形になる。無表情な顔に見つめられるのは恐怖だ。

「他に頼む人はいないの?」

「楠木君がいいんです」

 と、何もうれしくなさそうな顔で言う。

 そのとき、ふと気づいた。今日のボケ、佐倉さんの下に敷かれるのかな? 佐倉さんだったらいいかもしれない。体つきはきれいだし、あまり重くなさそうだし。だったら他の女子よりはいいな。会話を続けるのは恐怖だけど、ボケが現実になるまで引き延ばした方がいいのか?

「佐倉さんはどこかグループには入ってないんだ?」

「どこにも入っていません」

「bocketやってるなんて意外だったけど、友達いるの?」

「同じクラスの人に誘われて入りました」

「その子たちのグループには?」

「呼ばれませんでした」

 アプリに誘ったこのグループに誘われなかったって、何か触れてはいけない話題に触れたかもしれない。どう話を転がそう……

 その瞬間、俺のすぐ上を女の子のものっぽいペンケースが飛んで、クラスの戸塚さんがそのペンケースを追いかけて走ってきた。ちょっと待って! 佐倉さんより体重が三割ぐらい重そうなんだけど!

 ドカッ! と戸塚さんが俺にぶつかり、俺は倒れて、俺の背中の上に戸塚さんのお尻が乗っかった。うん、肉がついたやわらかいお尻。重い。

 周囲から「何やってんだよ」と笑い声が上がる中、佐倉さんを見ると、それでも表情は死んでいる。戸塚さんが立ち上がって「楠木君、ごめん」と頭を下げてその場を去った間、ずっと顔色を変えなかった。そして俺が立ち上がったところで一言。

「楠木君、大丈夫?」

 言葉の上では心配しているのだけれども、全く心配する様子の見えない顔で言われると、怖い。こんな怪物、仲間内に引き込んでいいのか? まずいだろ……

「ごめん。bocketの件だけど、お断りさせてもらえないかな。仲間がほしかったら、他をあたってくれない?」

「私、楠木君がいいんです」

 と何もうれしくなさそうな顔で言われると断るのに罪悪感がなくなる。

「やっぱり、できないよ」

「そうですか」

 佐倉さんは表情を変えず俺の横から去っていく。正直、関わり合いにならなくてよかった。

 昼休みも終わりに近くなって高加良が教室に戻ってきた。教室に入ったところで他の奴が高加良に何か耳打ちした。席に座った俺のところにやってきて言う。

「佐倉さんが来たんだって?」

「bocketでウケたをつけてほしいって。断ったけど」

 高加良が残念そうな顔をした。普通の人はこういう風に表情が変わるんだよなぁ、とほっとするけど、何かこちらが悪いことをしたのか?

「楠木、いつも言ってることは嘘だったんだな」

「嘘って、何が?」

「女の子を守れる男になりたいって言葉、もう言うなよ」

「どうして?」

「せっかく女の子がおまえを頼ってきたのに、こちらから振り払ってどうするんだよ」

 ……考えてなかった。

 確かに女の子を守る男になるチャンスだった。日頃願っていたことが叶う寸前だった。それを相手が怪物じみていたから放り投げてしまった。強い男って、そんなときにもうろたえず相手を包み込めるんだろうか。俺、器が小さいな。

「俺、悪いことしたのかな?」

「十分悪い」

「もう遅いよ。断ったし」

 高加良は明るい顔を作った。

「やり直すのに遅すぎることはないさ。後で佐倉さんのところに行け。悪かったのはこっちなんだから、きちんと謝ってな」

「そうする」

 高加良は俺の肩をポンとたたいた。

「頑張れ。ただ、文佳が素性の知れない人間を仲間内に引き込むことに噛みつくかもしれないのが問題だな。佐倉さんの人となりと思惑、見極めるのは楠木の責任な」

「分かった」

 ここで校内にチャイムが鳴った。

 授業中、先生の言うことは全く耳に入れず、この後で佐倉さんの思惑を知るにはどうしたらいいかを考えていた。結構長く話し合わないと本当に思っていることは引き出せないだろう。となると10分の休み時間では無理で、放課後にじっくりと話し合わないといけない。佐倉さん、部活に入っているという噂はなかったな。俺と同じ帰宅部なら時間はあるな。女の子をいきなり連れ込んで怪しまれない場所。ファストフード店だと同級生にばったり会うかもな。やっぱりあの児童公園か。ああくそ、授業、早く終われ。

 6限目の授業が終わり終礼が終わると、俺は佐倉さんのクラスに走った。まだいるだろうか。

 果たして、そこに佐倉さんはいなかった。

 そこには、掃除用のバケツを頭からかぶり演劇部の発声練習よろしく言葉を読み上げる女の子がいた。

「あめんぼ あかいな あいうえお

 うきもに こえびも およいでる

 かきのき くりのき かきくけこ

 きつつき こつこつ かれけやき

 ささげに すをかけ さしすせそ

 そのうお あさせで さしました

 あれ、これで終わりですか? 続きはないんですか?」

 周囲では男子生徒も女子生徒も大笑いしている。「これが馬鹿だ」とか「もっとやれー」とかはやし立てている。

 俺はその女の子の後ろに回ってバケツを持ち上げた。それが佐倉さんだった。男子生徒が「何するんだよ」と声を上げたけど手を出しはしなかった。

「佐倉さん、ちょっと話いいかな」

 後ろを振り向いた佐倉さんは無表情で、声はつぶやきと言っていいほど小さかった。

「楠木君、何ですか?」

「いや、あの、昼休みの話だけど、一方的に断って悪かったから、もうちょっと話がしたいなって。ところで、何してたの?」

「詩を読んでたんです」

 佐倉さんは俺の手からバケツを取り上げると、ひっくり返して中身を見せた。バケツの中に、さっき読み上げていた詩が書いてある紙が貼ってある。確かにサ行で終わっていた。

「で、何でそんなことしてたの?」

「詩を読んでたんです」

 ……この子と会話をするのか。前途多難だ。

「変なこと聞いて悪かった。bocket の話をしたいけど、立って話すのもつらいし、人にあまり聞かれていい話でもないから、二人でよそに行って話そうよ」

 佐倉さんは無表情だけど、さっきよりは大きい声で。

「ここでいいですけど」

 俺、ほとんど女の子だけど、一応、変なとこに連れて行こうとする男子として警戒されてるのかな。どうやって分かってもらおう。

 いや、この子に分かってもらうのは無理だ。強引にいこう。俺、男だし。

 俺は佐倉さんの手を取って教室の外へと連れ出した。佐倉さんの顔は無表情だけど、足が抵抗している。それでも強引にいかなきゃだめだ。

 俺は佐倉さんの両腕をつかんで、佐倉さんの身体を俺と真っ正面に向かわせた。

「あの、bocket で仲間を組むとなると、人に聞かれちゃいけない話も出てくるの。だから、人が聞いていないところに行こう。このまま校外に出よう」

「あの……」

「何?」

「鞄を取りに戻っていいですか?」

 俺が珍しく発揮した男らしさは、どこか抜けていた。

 児童公園は俺と佐倉さんが合流した通学路からは斜めの方向にある。

 佐倉さんは周囲をきょろきょろ見渡している。

 あれ、慣れない道に来て不安なのかな? 佐倉さんにも、不安という感情があるのかな?

 佐倉さんにも、心があるのかな?

 途中でコンビニによって、俺と佐倉さんの分のペットボトルを自腹で買った。佐倉さんは無糖紅茶が好きだと言った。佐倉さんにも好みがあることを、初めて知った。

 児童公園に着いて、二人でベンチに座ると、佐倉さんは俺から渡されたペットボトルを両手で持ったままだ。

「飲んだら?」

 佐倉さんは反応しない。

 俺は自分のダイエットコークのふたを開け、一口飲んで佐倉さんにペットボトルを見せた。

「佐倉さんもどう?」

 佐倉さんはおずおずと無糖紅茶のふたを開け、二口ほど飲んだ。

 さて、そろそろ切り出す頃合いだ。

「佐倉さん、bocket してたんだ。友達はいるの?」

「友達って、どのくらいなら友達ですか?」

 佐倉さんは無表情のまま俺の顔をのぞき込む。

「そんなに深く考えなくても」

「どのくらいなら友達ですか?」

 不意を突かれた。確かに佐倉さんには友達は……いなさそうだ。

「そうだなあ。学校が終わってから一緒に遊ぶぐらいが友達で、学校で会話するだけならクラスメイトかな」

「クラスメイトなら、います」

「何人くらい? あ、学校で会話する人数じゃなくて、bocket の友達リスト……友達じゃなくてクラスメイトだけど、リストに何人いる?」

 佐倉さんは鞄からスマホを取り出して操作し始めた。確認しているのだろう。だいたい何人、で答えればいいのに、律儀なのか忘れているのか、どっちか分からない。

「12人です」

「その人たちから、『ウケた』をつけ合おうという話は出なかったの?」

 しばらく間が空く。もうだめかな、と思ったところで佐倉さんの口が動いた。

「誰も私と話をしませんでした」

「何か、クラスメイトを怒らせることした? 匿名のボケでひどいのを送ったとか?」

「匿名のボケを送ったことはありません」

「じゃあ、何もしてないの?」

「私、いるだけで、だめなんです」

「いるだけでって?」

「いるだけで、怒らせるんです。楠木君、もしかして、お昼から、怒ってませんか?」

 佐倉さんの顔は無表情だ。顔だけ見ると変わらない。だけど、言葉が、おかしい。

 どうやったら近づけるんだろう。俺と佐倉さんの間が、夜に霧が出ているみたいな闇の中に見えた。手探りで、踏み込む。

「怒ってないよ。いるだけで怒るようなら、怒る他人が勝手なことしてると思うけどなあ。理由がないんでしょ」

「理由はあります」

「悪いことしたの」

「してるんです」

「何を?」

「言いたく、ありません」

 佐倉さんはうつむいて俺から顔を背けた。佐倉さんが「うつむく」というネガティブな感情を持っていることを初めて知った。顔は無表情だろうけれど、傾いた首のラインがおびえを表していた。

 少し間を空けて、呼びかける。

「言ってくれないと、帰らないよ」

 反応がない。

「正直、俺は、佐倉さんが何をしたのか分からない。だから聞いてるのに、黙ってると……」

 この一言は言ってはいけないけど、膠着状態を打ち壊すにはこの一言しかないと思った。

「怒るよ」

 佐倉さんは動かない。

 だめかな。

 あきらめてダイエットコークに口をつけたとき、佐倉さんが顔を持ち上げた。

「私、笑い顔が汚いんです。子供の頃から、笑うたびに周りの人を不愉快にさせて、迷惑をかけてきたんです。bocket は笑うためのアプリですよね。私が笑ったら、みんなが嫌な気分になるんです。私がボケを送ってみんなが笑うのはいいって、見たいって、言ってもらえたんです。でも私が笑っちゃいけないんです。楠木君も、私の笑い顔が汚いって思いますよね?」

 淡々と語る佐倉さんの顔は無表情だけど、俺の目には、頬が震えているように、感じた。

「俺、分からないよ。だって、佐倉さんが笑ったところ、見たことないもの。ちょっと、笑ってみて」

 佐倉さんが首を左右に振った。初めて、自分の意思で身振りをつけた。

「嫌です。楠木君に嫌われたくありません」

「笑い顔がちょっとよくない女の子なんていっぱいいるから、それだけで怒ったりしないよ。佐倉さんの顔、別に変なところないし」

 最上級の美少女だし、とは、事実であっても、歯が浮くような台詞だから重い空気の中では言えなかった。

「やっぱり、できません」

 佐倉さんはまたうつむいてしまった。

 この話は、もうだめなんだろう。

「じゃあ、話を変えるよ。今日のあれ、バケツをかぶったのだけど、あれ、匿名のボケ?」

 佐倉さんは首を左右に振った。

「どうしてあんなことしたの?」

 佐倉さんは小声で。

「したいから、です」

「バケツの中に紙を貼ったのも、自分で?」

 佐倉さんは動かない。

 一分、二分。時間が流れる。

「佐倉さん、今日は黙っててもいいから、飲み物飲み終わるまでここにいよう。今のままだと佐倉さんが仲間に入ることに俺の友達を説得できないから、明日、また話そ?」

 佐倉さんはこくんと頷いて、ペットボトルに口をつけた。俺はゆっくり飲もうとしたけれど、佐倉さんはペットボトルを水平に近い状態にしてのどに流し込み、むせて美少女なのに醜態をさらして、俺が送るのも断って帰っていった。

 翌日も相沢さんのボケは防御にならず、俺は黒板のチョークを鼻に突っ込まれた。ひどい目に遭ったと思いながら男子トイレ(俺は生物学的に男だから!)に行って出てきたとき、たまたま同じタイミングで隣の女子トイレから出てきた女子が笑っていた。

「サクラ、すげえ笑えるよね」

 サクラ、の一言が佐倉さんを呼び捨てにするものだと思えた。

 俺は女子の後をつけることにした。

 女子は三人。幸いなことに後ろは見ていない。

 箸が転げても笑う年頃の女の子の笑い顔は、後ろからちらと見える限り、卑しかった。

「Stringで『バケツかぶって』って送ったら、はいはいって従ってさあ。まあ、bocket で送ってたから絶対にやる訳なんだけど、あの子bocketなくてもやったんじゃない? 頭空っぽなんじゃないの?」

「ほんと、馬鹿はオモチャだよね」

「あのルックスだったら絶対女子の敵だけど、うち、佐倉好きだよ。笑えるもん」

「あっはっは」×3

 本当は情報収集しなきゃいけないんだけど、あまりの暴言を聞き続ける気になれず、俺は三人から離れた。

 これは、イジメだ。

 放課後、俺は佐倉さんのクラスに行って佐倉さんを連れ出した。またコンビニによってペットボトル飲料を買った。俺といれば飲み物を買ってもらえると思うかもしれないけれどそんなことはかまわなかった。昨日と同じベンチに座って、また飲み物を勧めて、話を切り出した。

「今日、女子が話すのを聞いたんだけど、昨日のバケツをかぶったの、bocket でやらされたんでしょ? 事実だったら、首を縦に振って」

 佐倉さんはこくんと頷いた。

「やらされてたの、言えなかった?」

 佐倉さんはこくんと頷いた。

「助ける人、いなかったんだね?」

 佐倉さんはこくんと頷いた。

「抜き打ちの持ち物検査でエロビデオが見つかった日、bocket の初日だったよね。あれも呪い? あ、女の子が口にすることじゃないよね」

「あの日は……」

 佐倉さんが口を開いたのは意外だった。

「登校中にクラスメイトに鞄をとられて、走って逃げるところを追いかけようとしたら腕を捕まれて、すぐに鞄は戻ってきたんだけど中を確認してなくて」

「仕返しが怖くて、黙ってたんだ?」

 佐倉さんはこくんと頷いた。

「大変だったね」

 佐倉さんはこくんと頷いた。

 大変だったなんてもんじゃない。学校の中で孤立無援だったんじゃないか。bocket だって、一方的にもてあそばれるばっかりで、佐倉さんは黙って耐えてたんだ。

「笑い顔が汚いって言われたの、今いじめてる人たちから?」

「それは、違うんです」

「違うって?」

「汚いって言われたのは小学校一、二年生の頃で、男子女子関係なく嫌がられたんです」

「馬鹿にされてる、って思わなかった?」

「あんなにたくさんの人が嫌がったから、きっと本当なんです」

 この話になると、佐倉さんは顔を背けてしまう。俺が待っていると、じりじりと時間だけが流れる。

 こうなるとらちがあかない。ここは強引に行かせてもらう。

 俺はペットボトルを脇に置くと両手で佐倉さんの頭をつかみぐいっと顔を俺の方に向けた。

「ここで笑ってみて」

「そんなこと、できない」

 佐倉さんの言葉からですます調が消えた。

「佐倉さんの笑い顔、俺が見るから」

「楠木君も嫌だと思う」

「いいから!」

 佐倉さんは『どうにか』笑い顔を作ろうとし始めた。その顔はこわばっていて、目と口の動きが合っていなかったりして、なんだか脅されてるときに無理に笑い顔を作ろうとしているような、ある意味笑える顔だったのだけれども、素が最上級だから、決定的な破綻はしない。

 俺は手を離した。佐倉さんの顔がいつもの無表情に戻る。

「佐倉さんの笑い顔、見たけど、そんなにおかしくないよ。周りの子が馬鹿にしてたんだと思う」

「本当ですか?」

「本当だよ」

「嫌な気分になりませんでしたか?」

 変だったんだけど、ここはオブラートに包もう。

「微笑ましかったかな」

「よかった……」

 その瞬間、俺は、花がほころぶという言葉の意味を知った。

 あれは何のニュースだったか、大手企業が、受付嬢の代わりをするアンドロイドを開発したという映像を見た。それは、確かに整った女性の顔を模してはいたのだけれども、調和は全くなく、作り物という言葉も足りないんじゃないかと言うくらい不自然で、こんなものに受付をさせようなんて大手企業が何を考えているんだと思った。

 現代の一流の科学者が集まっても無様な姿しかさらせないアンドロイドの前に、異世界から魔術師がやってきて、杖の一振りで魂を入れたような、魔法が、目の前で起きた。

 自分の笑い顔は汚いんだという囚われから抜け出した佐倉さんの安堵した顔は、俺が見てきた女性の中で一番、綺麗だった。

 俺はぽっかり開いてしまった口を慌てて押さえた。ペットボトルがぼとんと落ちた。地面にダイエットコークの水たまりが広がっていく。

 俺の様子を見た佐倉さんの顔が少し翳る。

「やっぱり、不気味ですか?」

 俺は両手を左右にオーバーリアクションで振って否定する。

「いや、そんなことないよ。大丈夫だから。ていうか、かわいいなって思って」

「かわいいですか?」

「かわいいって」

 俺は首がもげそうなほど上下に振った。

 佐倉さんは顔にうれしさを出した。

「笑い顔がかわいいって言われたの、初めてです」

 そうだよなあ。今まで表情が死んでたものなあ。笑ったことがなかったもんなあ。

 佐倉さんをいつまでも見ていたい。けど、今日の用事はそれじゃない。気持ちを切り替えようと、俺は咳払いする。

「で、本題だけど、bocketでウケたが欲しかったら、他の人に頼むこともできたじゃない。いじめっ子はいたかもしれないけど、関係ない子もいただろうし。そもそも、俺、男だから、女子の佐倉さんが頼み事をするのはハードルが高かったんじゃない? どうして俺に話を振ったの?」

 真剣な話になるから、佐倉さんの顔から少し光が減った。俺から視線を外し、正面を向いてうつむいて口を開く。

「女子でも、特に仲のいい人はいないんです。前に友達はいないって言いましたよね。それでも、男子に声をかけるのは、やっぱり怖くて。ただ……」

 佐倉さんは顔を上げて俺を見た。

「楠木君なら、優しそうだから、お願いできるかもしれないと思いました」

 俺、特に優しくした覚えないんだけど。何でそんなこと思うんだろう。

 ……顔か。やっぱし顔か。

 そこら辺の女子よりかわいいということになっている顔してるもんなあ。いい人に見られたんだろうなあ。

 こんなかわいい子に信用されて、俺は初めて俺をこの顔に産んでくれた母さんに感謝した。

「俺も、最初は驚いたけど、佐倉さんの事情を聞いたら気持ちが分かったから、無下に断ろうって気にならないしね」

 嘘だ。最初は怪物・佐倉さんのお願いなんて断る気満々だった。そんなこと言ったらムードが壊れるから、最初から乗り気だったことにしておこう。

「じゃあ、誰も誘ってくれる人はいなかったんだね」

 そのとき魔法が解けた。いつもの無表情な佐倉さんに戻った。そして黙り込んでしまった。

 三十秒。一分。沈黙が続く。

 こちらから促さないと。

「佐倉さん、落ち着こう。ほら、お茶飲んで」

 俺は佐倉さんのペットボトルに手を添えて口元に近づける。佐倉さんはおずおずとふたを開けて口をつけて、一口、二口。ペットボトルのふたを閉めて、誰もいない方向を見た。

「吉崎君が『俺とHなことをするなら守ってやる』って言ったんです」

 あの吉崎が? そりゃあ『ウケた』はいっぱい持ってるだろう。だけど条件がひどい。

「吉崎君につきあえって言われたの?」

 佐倉さんは首を横に振った。

「『つきあうんですか?』って聞いたら、『つきあうんじゃねえよ。Hなことさせろよ』って言ったんです」

 下衆だ。骨の髄からどうしようもない奴だ。恨みついでに、そんな約束守ってもらえるかどうかも分からないという疑いも添えておこう。

「それは、断って正解だと思う。悪いのは吉崎だ」

 佐倉さんは遠くを見たまま、

「ありがとうございます」

 とつぶやいた。

 こんな話はもうやめだ。

「俺が『ウケた』を集めているグループは人数が少ないんだ。トップは高加良。いつも笑いをとろうとしてる奴だけど、佐倉さん、知ってる?」

 佐倉さんが顔を上げた。

「面白い人だって聞いたことがあります。楠木君は友達なんですか?」

 まあ「友達だ」と言えばすむ話。だけど、ここは場を和ませる必要があるから、ここは俺のとっておきの恥ずかしい話を披露しよう。

「初めて会ったのは中学校に入ったときでさ。市外から高加良が転校してきたんだ。高加良は人付き合いがうまいから、すぐにクラスの中心になってさ、女顔でからかわれていた俺なんかどうでもよかったはずなんだ。それが、夏休み直前だったな、街の中心部にショッピングセンターのプレオあるでしょ、高加良が俺に向かって日曜日に一緒にプレオに行かないかって誘ったんだ。面白い奴だから友達になれたらいいなって俺も楽しみにしてたんだよ。それで先にプレオに着いて待ってたら、高加良の奴、女装してやってきたんだ。下半身なんかスカートだよ。中学生になってるから、そろそろ第二次性徴期始まってるでしょ。すね毛が生えてるのに剃らずにやってきてさあ。すっげえ見苦しいの。俺、『もうやだ、一緒にいたくねえ』って言ったんだよ。それを高加良の奴が強引に押しの一手で俺を説得して、滅多にないから記念撮影しようって、スマホで写真撮ったんだ。そしたら高加良の奴、Stringでクラス中の男子に『女の子二人でお買い物!』ってメッセージ回してさあ。月曜日に学校に来たら俺、変態扱いだよ。当然高加良も変態ってことになったけど、そりゃあいつが悪い。そうやって二人してクラスで浮いたところで、高加良が『俺、友達いないからさあ』って俺に声かけたんだよ。人を巻き込んで、全く迷惑な奴だよ」

 すると佐倉さんがクスリと笑ってくれた。

「高加良君、楠木君と友達になりたかったんですね」

「いや、俺、結構迷惑したんだけど。友達になりたいなら、もっといい手があると思うけどなあ」

「他の友達をなくしてもかまわないほどですよね?」

 言われてみれば、そうかもしれない。はめられた直後は怒りでいっぱいだった。つい最近まで、高加良のことはただの馬鹿だと思っていたから、笑いをとりたくてとち狂ったんだろうと思っていた。でも、最近のあいつを見ていると、実は高加良は地頭がいい。きちんと世渡りすればクラスの中心でいられたはずだ。それがどうしてあんな自滅的なことをしたんだろうかと考えると、俺と友達になりたかったっていう、とってもおこがましい考えが現実に思えてくる。

「そうかもしれないね。笑いの的だった俺とつきあって何が面白いと思ったのか、よく分からないけどね」

「高加良君、楠木君がよっぽど好きなんですね?」

 えっ?

「いや、それは、ちょっと、別の意味になるから。俺の顔だと、特に」

「いいことじゃないですか」

「そ、そうかな……」

 やっぱり佐倉さんは人づきあいに慣れてないな。世間は裏の意味で受け取るということを感づいて欲しいけど。

 そのとき、公園の入り口に小学校低学年の男の子が三人いた。真ん中の男の子はリーダー格らしく戦隊物のレッドの仮面を頭に斜めにかけている。

 来たか。今日の俺のbocketの呪い。

 俺は佐倉さんの前に右手をかざして佐倉さんと三人の間に入った。

「佐倉さん、今から起きること、そばで見てて」

「何かあるんですか?」

「見てれば分かるから」

 三人は俺たちの前にやってくる。実に堂々とした態度で。真ん中のレッドの子が名乗りを上げる。

「見つけたぞ。悪の手先め。そのじょせいをどうするつもりだ?」

 よし、こうなったら受けて立とう。

「止めろと言われて止める気はないなあ。おまえらに俺が倒せるかな」

 ちっちゃい子どもと戦隊物ごっこしている形になったけど、あれ、佐倉さんが前に出てきた。そうか、ノリが分からないのか。佐倉さんが三人の顔をのぞき込んだ。

「あの、この人は私に優しくしてくれたの。悪いことしてないから、大丈夫よ」

「悪の手先に脅されてるな。もう大丈夫だ。俺たちが助けるから」

 佐倉さんに向けて、小声でそっと。

「この子たち、bocketで操られてる」

「え?」

 三人は俺を取り囲むと、後ろからロープを取り出した。重い荷物を縛るために使う太さ一センチ近い白いナイロンロープだ。二人が俺の両手を押さえ、レッドの子が俺の手首を後ろ手に縛る。正直、ぶん殴ってやりたい。でも小学校低学年相手に中学生が手を出せば俺が補導される。畜生、社会から守られてることをフルに使いやがって。あれ、ロープの結びが結構堅いな。もしかして家ではきちんと手伝いしている真面目なよい子なのか。俺がちっちゃいときはこんなにきれいに縛れなかったぞ。

 一人が手を離すと、俺は後ろから蹴られた。バランスを崩して膝をつく。ちょっと待て。そっちは手どころか足まで出すのかよ。そこに一人が俺の背に馬乗りになり、俺は地面に這いつくばった。もう一人が俺の足の上に乗り、最後の一人が俺の足首を後ろでのところまで折り曲げて縛り上げていく。相手が子どもじゃなかったら、絶対許してない。そんな相手に俺の腕力で勝てるかどうかはともかく……

 両手首と両足首をがちがちに縛られたところでレッドの子が俺にまたがる。

「いっぱんしみんを離すす気になったか?」

 一般市民。結構難しい言葉を知ってるじゃないか。

 ここはあくまで「ごっこ」だ。

「参りました。お許しください」

「正義は勝つのだ」

 三人揃えて雄叫びを上げた。右手を空に突き上げる。格好良く決めると、え? そこで帰っちゃうの? 縛り上げられた俺はほったらかし。三人は達成感に包まれて明るく公園を去って行く。

 あとには、地面に横倒しになった俺と、どうしていいのか分からない佐倉さんが残された。

 佐倉さんはしゃがんで俺の顔をのぞき込む。優しいからなあ。

「どうして何もしなかったんですか?」

「佐倉さん、笑っていいから」

「え?」

 俺の言葉は答えになってない。戸惑うのは当然だ。ここで背中を押してあげる必要がある。

「こういうとき、相手がかわいそうで気持ちを分かりたいと思うんだろうけど、普通の人は結構冷淡で、馬鹿なことをやってる相手を笑うものだから」

「でも……」

「他人を笑っていいんだよ」

 あ、俺、いいこと言った。のかな。

 佐倉さんは少し無理をして笑い顔を作る。ハハ、ハハ、と小さく声を振り絞る。

「いいんだよ。見ても無様だし。それに、これはごっこだから。分かってやってるんだよ」

 佐倉さんの声から力みが消えて、自然にハハハと声が出る。おとなしいけど、他のものに縛られていない笑い。俺は笑顔でうなずいて、佐倉さんを許した。

 佐倉さんが笑い疲れて、言葉をなくす。佐倉さんが立ち上がったとき、俺は不意に不安に襲われ、哀れに懇願した。

「お願い。ロープをほどいて。俺の力じゃほどけないから」

 俺の格好良さは、結局どこか抜けていた。

 ロープをほどかれた俺は、再び佐倉さんとベンチに座り、大変だったねと声を掛け合った。緊張は解けたかな。これからのことを話し合おう。

「佐倉さん。あと、俺のグループには女子の相沢さんがいて、三人だけなんだ。人数が少ないから『ウケた』が集まらないけど、いい人ばかりだから、すぐに輪に入れると思うよ」

 佐倉さんの表情が少し堅くなった。

「佐倉さん、そんな緊張しなくていいから」

「はい……」

 きっと、急に対人関係が広がることに緊張しているんだろう。

 佐倉さんと俺はしばらく雑談して、もう日も落ちてきた。ここら辺でいいよねとうなずき合うと、佐倉さんは立ち上がって俺に礼をした。

「今日はありがとうございます。あ、今日は、じゃなくて、明日からよろしくお願いします」

「よろしくね。また連絡するよ」

 連絡、連絡…… あ、bocket以外の連絡方法を確認していなかった。

 佐倉さんは俺に背を向けて去ろうとしている。

「佐倉さん、ちょっと待って。俺たち、連絡方法知らないでしょ」

 振り向いた佐倉さんは目を丸くしていた。佐倉さんも言われて気づいたんだろうな。俺からアクションとらないと。

「佐倉さん、Stringは使ってる?」

「使ってますけど……」

「友達登録しよう」

 俺はスマホを取り出して友達申請の二次元バーコードを見せた。佐倉さんがスマホを取り出すと、ちょっと慌ててるようで手つきが危なっかしい。ようやく登録画面を出したところで、シャッターボタンを押してパシャリ。後は佐倉さんから友達申請を送ってもらって、俺は承認ボタンを押した。

 俺のStringの友達リストに初めて女の子が載った。

 と喜んでいたら相沢さんのことを思い出してげんなりしたけれども顔に出すわけにはいかなかった。

 佐倉さんがまた頭を下げる。

「いろいろありがとうございました。楠木君が親切で助かりました」

「いいんだよ。こっちだって困ってたしね」

「そういうところ、優しいです。うれしいです」

 佐倉さんが俺のそばから去って行く。

 空は赤から濃紺に変わりつつあって、相沢さんの黒髪が空の色に溶けかかっている。分かれ道に入れば佐倉さんから離れていくんだけど、俺は曲がり角に立ち止まって、佐倉さんが見えなくなるまで後ろ姿を見ていた。

 俺、佐倉さんと友達になれたかな。明日、また話せるんだよな。あの明るい笑顔がもう一度見られるかな。いや、もう一度じゃない。毎日だって見られるんだ。

 俺の頭の中に佐倉さんの笑顔がエンドレスループする。笑顔が見られる場面をいくつもいくつも想像する。学校で校庭を見ながら。ファストフード店に入ってハンバーガーを食べながら。見たことのない佐倉さんの部屋で語らいながら。ずっと。ずっと。毎日だ。いつまでもだ。

 ふっと気がつくと、俺の顔は惚けていた。足が止まる。どうしたんだろう、俺。女の子を守れる男になりたいという、自分の欲望に佐倉さんを巻き込んだだけなのに。

 再び足を踏み出して三歩で真実に気づいた俺の足が止まった。

 俺、佐倉さんに一目惚れしたんだ。


 俺は帰ってから、高加良と相沢さんにStringで連絡した。高加良は軽いノリだったけれど、相沢さんは「顔で選んだんじゃないの?」と不信感バリバリ。まあ、あの人は馬鹿を信じないのがデフォだから、ここで引いてはいられない。

 二人にbocketのボケを送ったところで、佐倉さんを思い出した。高加良と相沢さんの二人を差し置くわけにはいかないから、bocketの方はまだ友達申請していなかった。俺の『ウケた』の数では防御にならないかもしれないけれど、せっかくいい感じになったのに、送らないのも残念な気分だ。

 俺は、今日友達登録したStringを早速取り出した。


                    佐倉さん、bocketの方は

                    高加良と相沢さんと

                    話をつけないともめそうだから

                    友達申請しなかったけど、

                    分かってもらったら、今度こそ、


                    友達になろうね


 一分。二分。五分。返事は来なかった。俺が風呂に入って、上がったところで、スマホの通知LEDが光っていた。俺はスマホの画面ロックを解除した。


  明日、

  そばにいてもらえませんか?


 え?

 これって脈あり? むこうもその気?

 その夜、俺は寝られなくて、朝日をばっちり拝み、寝ぼけ頭で母さんが作った朝食を食べた。

 学校に行ってからも、高加良はいいけど、相沢さんをなんとか話し合いの場につくところまで説得して、放課後に俺と高加良の教室で集まった。この四人が顔を合わせるなんて、学校生活でこれが初めてだ。

 俺は高加良と相沢さんの二人に事情を説明した。佐倉さんが小学校低学年のときにいじめられて自分の笑い顔が汚いとすり込まれたこと、中学校に入った今でも一部の女子からオモチャにされていること、佐倉さんに悪意はないこと。

「俺が話すのはこんなところだけど、どう思った?」

 高加良は興味ありげに聞いていたのだけれど、友達追加の鍵となる相沢さんの症状が渋い。誰とも、あの高加良とも目を合わせず、不機嫌なんだけれども怒っているわけでもなく、不愉快さを押し殺しているのが顔に出ていた。

 無表情なのは佐倉さんも同じだ。昨日の昼までと同じ、心が死んだ顔。いつもと同じ怪物の佐倉さん。

 どうしてこんなことに?

 高加良が相沢さんをはっきりと見た。

「俺は中学からこの街に引っ越してきたし、楠木は事情を知らなかったみたいだけど、文佳は同じ小学校だったりしないか?」

 相沢さんが口を開いた。

「小学校低学年の、善悪をまだ知らない頃の話よ」

 え? それって答えになってるのか?

 高加良は穏やかなんだけれど笑った様子はみじんもなく、相沢さんに返した。

「善悪を知らなかったから、同級生と一緒になって一緒になっていじめていたんだね」

 俺の脳裏に、小さな佐倉さんに悪意の呪詛を唱える小さな相沢さんが描かれた。

 ちょっと待て。日頃から人格が下劣な人間をさげすむあんたは偽物・作り物かよ! 表と裏は違うってことか? 高加良はバカップルだから優しく諭すだろう。そんなものじゃ生ぬるい。

「あんた、佐倉さんがどれだけ傷ついたか分かってるのか?」

「だから善悪を知らなかった小さい頃の話だって言ってるでしょ! 学年の八割はいじめに参加してたわ。何が起きるかなんて分からなかったのよ」

 相沢さんの態度は、いつもの相沢さんなら一言で切って捨てる、逆ギレだった。

 佐倉さんが俺を見た。表情が死んでるけど、すがるような目つきだと俺には分かった。

 俺がグループのメンバを話してから沈んでたのは、俺に「そばにいて欲しい」と言ったのは、これだったのか。

 この修羅場に高加良は穏やかな表情を崩さず(だから賢人を通り越して馬鹿だとみんなに言われるんだ)相沢さんに問うた。

「文佳の小学校、一学年何クラスあった?」

 相沢さんは虚を突かれたけれど、信頼している高加良の質問だから、おとなしく答えた。

「三クラスあったわ」

 三クラス…… ということは学年で80人はくだらないよな。その八割以上。少なくとも60人は「おまえの笑い顔は汚い」と刷り込み続けたのか。それは事実だと勘違いして全くおかしくない。

「そんな大人数でいじめて、佐倉さんがどんな気持ちだったか分かってるのか? いまさら開き直って、佐倉さんのこと考えてないだろ」

「分かってたって謝ってすむ問題だと思ってる? もう何年も費やして、過ぎた時間は戻らないのよ!」

 そうか。

 俺は、ひるんだ。

 高加良は俺と相沢さんの間に割って入った。

「楠木、いったん静まろう。楠木は佐倉さんに同情するだろうけれど、俺には文佳も大事なんだ」

 この場には、熱くなっている俺と、過去の失敗からの逃げ場がないことに苦しむ相沢さんと、いまだに相沢さんが怖い佐倉さんがいて、高加良一人が平静だった。

「楠木、おまえは顔のことでからかわれてばっかりだったけど、まわりが羨ましく思っていたことは気づかなかったか?」

「佐倉さんの話に関係ないだろ。質問に答えると、男が女みたいな顔していいことないだろ。こんな顔が羨ましいはずないじゃないか」

「楠木は自分の立場でしか見えてないんだな。楠木の顔、そこらの男性ホルモンダダ漏れのニキビ面より女子からの印象はよっぽど良いんだぞ。そんなのまわりの男子はみんな勘づいてる。羨ましい。悔しい。だからからかって自分より下の見下せる人間にしたがるんだ」

 確かに、佐倉さんが俺を頼ってきたのは、おそらく、俺の顔で好印象を持ったからだ。そう言われるとぐうの音も出ない。

「男子が女子みたいな顔をしていてもそうなんだ。女の子が絵に描いたような美少女だったら、周囲がどれだけうらやましがると思う?」

 高加良は視線を佐倉さんに向けた。佐倉さんは全身固まってしまう。

「だからっていじめていいってのか?」

「よくはないけど、子どもってそんなに聖人君子か? 人間は天使じゃない。悪意もサディズムもある。小学校の中で当時の佐倉さんは、ただそこにいるだけ、何も悪いことをしていない、というのは今なら分かる。でも、いるだけで何もしなくても人から好意をもらえる生まれつき恵まれた人間を見て、そのまま好意を捧げていたら、ふと、自分が損していると思う。憎らしいと思う。辱めたいと思う。それ結果、恵まれた人間が好意を得続けるか悪意を浴びせられるかは、紙一重の運だ。そして人は謝ろうとしない。後から謝ってもらえることは、まずないことなんだよ」

 そりゃ子どもがすることはその程度かもしれない。特別に恵まれた人間を引きずり下ろして楽しいのは俺だって感じる。でも、何もしてないのに嘘を信じ込まされた人がここにいるんだ。

「じゃあ黙ってろってのか?」

「でも、今なら事情が分かるよな」

 高加良の言葉は相沢さんに向けられていた。

「文佳、いじめられっ子がいじめっ子から謝ってもらうことは滅多にないけど、その滅多にないチャンスをつぶすことはないんじゃないかな。もう善悪が分かる年なんだし」

 相沢さんはむっすりしたまま立ち上がった。佐倉さんの前に歩み寄る。何する気だ? 手を上げたら承知しないぞ! 俺が間に入ろうとしたところで相沢さんが腰を折って深く頭を下げた。

「佐倉さん、小学校ではごめんなさい。あれは、私が何も分かってなかったから。許せないかもしれないけど、悪かったって思ってることは分かって」

 佐倉さんは驚いて、「それほどでも」というときのように両手を横に振った。

「いや、私だったら、大丈夫ですから」

 大丈夫じゃなかったじゃないか。俺は割り込む。

「佐倉さん、正直に言っていい。ここで取り繕って強い人のふりしちゃダメだ」

 佐倉さんはしばらく間を置いてつぶやいた。

「あのとき、みんなが、怖かったです。今でも、怖いです」

「ごめんなさい」

 佐倉さんと相沢さんがしばらく黙り、間が持たなくなったところで相沢さんが頭を上げ無言で椅子に座った。二人が申し訳なさを抱えていた。

 しばらく時間が流れたところで、あ、本題がまだ終わっていなかった。

「ところで、bocketの仲間の件なんだけど……」

「もう話し合いはいらないんじゃないかな」

「何も話し合ってないだろ」

 心配する俺の横で、相沢さんがばつが悪そうに無言で自分のスマホを佐倉さんの前に差し出した。画面には二次元バーコード。おびえている佐倉さんはしばらく見ていたけれど、何かに気づいたのか慌ててポケットを探り、スマホを取り出して相沢さんのスマホの画面を撮影した。そしてスマホを操作すると、相沢さんに視線を送った。視線を受け取った相沢さんはスマホを操作して、佐倉さんに目配せして一つうなずいた。

 無言のうちに二人の和解が成立した。

 それからは高加良も混じって、互いに友達申請と受理。これで佐倉さんが俺たちのグループに加わった。

「ところで、誰が誰を守るかなんだけど」

 相沢さんがちょっと疑いの顔で俺と佐倉さんを見る。

「レディーファーストということで防御力が高い人が女子を守るというのもアリなんだけど、楠木君が佐倉さんを引っ張ってきたんだから、ここは楠木君が責任を持って佐倉さんを守るんじゃないの?」

 あ、そうだ。俺が佐倉さんを守る立場に立つのか。って、待てよ。

「このグループで二番目に防御力が高いのは相沢さんでしょ。相沢さんじゃなくて俺が佐倉さんを守るの?」

「当然でしょ。巻き込んだの、あんたなんだから。あんたみたいな人間を信じてついてきた佐倉さんには、自分の判断ミスの責任をとってもらわなきゃダメでしょ」

「判断ミスって……」

 そりゃたしかに俺じゃ防御にならないけど…… それを口に出すわけにいかないけど……

 高加良も相沢さんの意見に納得した様子だ。

「楠木、これで一人前に女の子を守れる男になったじゃないか」

 そうか。俺にも、いつも言ってた「女の子を守る男」の番が回ってきたのか。よし。なんとかしてやってやる。

「じゃあ、佐倉さんの防御は俺がやるよ。高加良と相沢さん、俺と佐倉さん。このペアで決まりだな。佐倉さん、俺、『ウケた』が6しか無いから弱いけど、信じてくれるかな。佐倉さんはどのくらい『ウケた』があるの?」

 佐倉さんが凍り付いた。

「わた……ケた……くて……」

「急に話を決めてごめんね。いったん落ち着いて、もうちょっと大きな声で言って」

「私、友達がいなかったから、『ウケた』をもらったことがないんです」

 俺が凍り付いた。

 動かない身体の中でかろうじて回っている脳が、ああ、そうだよな、ずっと四面楚歌、笑われることはあっても、助けてもらえることはなかったもんなぁ、と、分かっても意味の無い答えを出す。

 実質最弱の俺と、完全に最弱の佐倉さん。考えられる限り、ほぼ最悪の船出だ。

 相沢さんがため息をつく。

「喜び勇んで連れてきたと思ったらとんでもないお荷物じゃない。自分の目で見て選んだんでしょ? いいじゃない。お似合いの二人で」

 俺は何も言い返せない。ただ高加良をすがるように見る。高加良はにこやかな顔ではね返した。

「楠木、自分のことは自分でな。まあこれから立つ瀬もあるさ」

 俺らのグループは一人増えてもまだ四人。クラスのみんなとは毎日『ウケた』の差が開いていくんだぞ。どうにもならないじゃないか。

 ほら、佐倉さんが、先への不安と巻き込んだ自責の念で、両手を口元に当てて震えている。これって、いいのか?

「佐倉さん、俺でよかったの?」

 佐倉さんは下を向き、小さな声を絞り出す。

「楠木君が、いいです……」

「決まりだな」

 高加良が念を押した。

 ここに俺と佐倉さんのどうしようもないペアが成立した。

 そのとき、校内放送のチャイムが鳴った。

「三年二組の楠木君。今日の数学のミニテストの裏に、教師の頭髪を揶揄する落書きが描かれていたとのことで、先生が説明を求めています。繰り返します。三年二組の楠木君。今日の数学のミニテストの裏に、教師の頭髪を揶揄する落書きが描かれていたとのことで、先生が説明を求めています。至急職員室まで来てください」

 忘れてた。俺の今日のbocket呪い。

 もちろん、ミニテストの裏に落書きを描いたのは俺じゃない。bocketに操られて生徒の誰かが描いたものだ。証拠はない。しかし罰は俺に降ってくるのだ。あの先生、見るに見事なバーコード頭だもんなあ。笑いのネタにしたかった奴の気持ちはよく分かる。

「繰り返します。三年二組の楠木君。今日の数学のミニテストの裏に、教師の頭髪を揶揄する落書きが描かれていたとのことで」

 もう止めろ。というか、そんな放送を続ければ、先生から大目玉が飛ぶぞ。それでも放送するところがbocketの呪いか!

 高加良と相沢さんが、笑いをこらえながらも、結局顔が笑っているし声も漏れている。一人、佐倉さんが深刻そうに黙っている。

 高加良と相沢さんには腹が立つよ。佐倉さんの方が人としてよっぽどまともだよ。

 だけど、こういうところで笑えないのは、過去を引きずってるからなんだ。人の失態を見て笑うのは、人の汚いところだけれど、それが普通の人の正直な気持ちなんだ。

「佐倉さん、ここ、笑うところだから」

「だって、楠木君、笑いものにされてかわいそうじゃないですか」

「佐倉さんだって、一緒になって笑っていいんだよ」

「でも……」

「佐倉さんが笑うところを見たら職員室に行くよ」

 佐倉さんは、戸惑いつつも、笑い顔を作った。

「なんだか、テレビのコントみたいです。ずっと笑えなかったんですけど、笑っていいんですか」

「笑うぐらいで普通だから」

 佐倉さんは「ハハハ」と声を漏らした。その声は澄んでいた。顔は、少々困った様子だけど、血が通っていて、元の作りの良さを最大限引き出した、とても好感の持てるものだった。

 佐倉さんを見た相沢さんが笑うのを止めて屈折した感情を見せた。

「佐倉さんを見てると、神様って本当に不公平だと思うわ。あの美貌で、どれだけの人を転がせるのかしら?」

 高加良もあからさまに笑うのはやめて平常に戻った。

「その分苦労もしたから、今ぐらいは許すところじゃない? 文佳」

 今ぐらいはって何だ! その笑顔は本来佐倉さんが持ってたものだ。やっと取り戻せたんじゃないか。

 高加良と相沢さんの態度に心の中で悪態をつき、佐倉さんの笑い顔をずっと見ていたかったけど、そろそろ行かないと本当に先生に怒られそうだから、俺は教室を出た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ