サマーコンサート⑥
皆が静まり返る。
誰も準備を始めない。
女子生徒のすすり泣く声も聞こえる。
怒らない事が逆に生徒たちを苦しめることになってしまったと後悔したが、口に出してしまった言葉はもう戻せない。
嫌な空気が流れる。
「まっま、始めましょう!」
住之江部長は左程怒る様子もなく、いつもの調子で軽く言う。
「言っておきますが、私は指揮者です。指揮者と言うからには皆さんの音を曲に合わせて引き出す能力に秀でていると思ってください。それではここで皆さんにクイズを出します。僕の得意な楽器は何でしょう?」
静まり返った部員たちが一瞬更に静まり返った中、小さな声で「ヴァイオリン」とか「ピアノ」とかの答えが帰って来る。
「いま、みなさんの答えを貰いましたが、どれも違います。実は僕、住之江房人……」
そこで黒板に自分の名前を書き始めて、あだ名が“住之江ボート”と言うギャグを言ったが、それは滑った。
「実は、僕は楽器を演奏することが出来ません」
その言葉に、おとなしくしていた生徒たちが一斉に「えーーーー!!」と驚いてガヤガヤし始めた。
「ハイ。その通り。でもそうじゃない。今、みなさんが“えー!”と驚きの声を上げた中に“そんなことはないよね”とそこの人、“ギャグ?”とそこの人“楽器が出来ないんじゃ指揮なんて出来ないだろ”と言ったそこの人に“あほか!?”と言ったそこの人、それに“クスッ”と笑ったそこの人がいましたが、ギャグではありません。アホです」
皆がキョトンとして、その次に笑い出した。
「今度は皆さんに聞きます。指揮者の能力について大切な物は何でしょう?」
「音をまとめること?」
「楽器を良く知ること?」
「曲を知ること?」
「ハイ。三番目の人正解です。指揮者にとって一番大切な事は、楽曲を知ることです。実は僕は、こう見えて……このようなオッサンの姿をしていますが1000以上の楽譜が頭の中に入っていて、その楽譜も素で書くことが出来ます。勿論絶対音感も有ります」
そう言って黒板にエルガーの威風堂々の各パートごとの譜面を書き始めた。
私も自分のパートなら書けるけれど、全員の譜面は書けないし、住之江部長が全部のパートを書き始めるのを初めて見て驚いた。
「ところで、ここに書いたのは何でしょう? これでこの曲が完璧に演奏できますか?演奏できると思う人は手を上げて」
数人が手を上げる。
「じゃあ今度は、これだけでは演奏できないと思う人は手を上げて」
また数人が手を上げた。
「はい、じゃあ貴女、どうして演奏できないと思いましたか?」
さされた鷺沼さんが「譜面には音の指示が書かれてあるだけで、音をどのくらいの大きさで出すかは個人の主観になっていて、全体でどう出して行くかが書かれていません」
「はい、その通り。でも演奏できると答えた人も間違いではありません。要は“どのように”演奏するかによって変わって来るのです。そしてそれをまとめるのが指揮者の仕事。だから指揮者は皆さんのように楽器の練習はしません。指揮者は音楽の勉強をするのが仕事です」
いつも抜けているようにしか見えない住之江部長の指揮者論に、生徒たちも私も圧倒された。
「ラベルのボレロと言う曲は知っていますよね。どんな曲ですか?」
高津さんが当てられて「繊細な曲」と答えた。
次に松田君が当てられて「繰り返しの中に、小さく静かな音から徐々に盛り上がって行く曲」と答えた。
「はい。皆さん良く知っていますね。これはウィキペディアにも書いてあるのですが、とある酒場で一人の踊り子が、舞台で足慣らしをしている。やがて興が乗ってきて、振りが大きくなってくる。最初はそっぽを向いていた客たちも、次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出すと言う光景を曲にしたものです。ボレロの指揮で有名なロシアのヴァレリー・ゲルギエフは、この曲の指揮を執るときには通常の指揮棒ではなくて、爪楊枝のような小さな棒を使います。そして僕と同じ禿かかった髪形です」
ドッと皆が笑い出した。
「じゃあ、今日は僕と一緒に曲の演奏を楽しみましょう!」
皆の雰囲気は良くなり、拍手が沸き上がった。
“さすが、部長!”私も話に呑まれて感動して拍手をしていた。





