令和⑩
コンサートは恙なく終わり、聴きに来てくれた人たちが何人も握手と労いの言葉を掛けてくれた。
「さあ、片付け、片付け!みんなの譜面台片付けておくから、千春は紘太朗と椅子とか片付けていてくれる?」
足立先輩が、そう言って出て行こうとする。
いつもの私なら、何も気が付かないまま「はい」と素直に従うところ。
でも、今日は違う。
足立先輩のピアノのおかげで、いつも以上に素直になれて、足立先輩の心まで素直に見える。
出て行こうとしていた足立先輩に駆け寄り、その袖を摘まんで止める。
「もう、置いて行かないでください」
足立先輩は、目を丸くして止まった。
「もう、心配しないでください――それより……」
「……そ れ よ り ? 」
「それより……先輩自身……」
なにを言おうとしたのか急に分からなくなり、ただそこまで口に出したとき、嗚咽が込み上げてきて声が出なくなった。
先輩が優しく肩を抱いてくれる。
「いいよ、千春。演奏していて二人の気持ちは良く分かったから」
背中を摩ってもらいながら、うんうんというように首を縦に振る。
「でもね、これで最後にするから、私の好きにさせて頂戴。でないと……私—―」
ハッと顔を上げたときには、既に足立先輩は後姿を見せて出口へと向かっていた。
身を起こして追いかけようとしたとき、二階から降りて来る江角君に声を掛けられた。
「鮎沢、その二つも……」
江角君が、私の外へ向けられた視線を追って話を止める。
江角君の位置からは、壁が邪魔して足立先輩の姿は見えない。
江角君が階段を有りて玄関が見えるようになるにしたがって、足立先輩の姿は逆に塀の陰に隠れて見えなくなってゆく。
「どうしたの?」
「ううん、なんにも」
「そう、じゃその二つ二階の206に持って行ってくれる?俺は事務所から掃除機出してくるから」
「はい」
江角君に言われる通り206号室に椅子を運んで行った。
なにも考えずに。
入った途端、窓に広がる風景を見て気が付いた。
「この部屋――」
そう。
この部屋は、高校二年生の時、登校中に倒れて江角君にこの病院へ運ばれた時に使わせてもらった部屋。
他の部屋とは少しだけ離れている一人部屋。
しばらくそこで外の景色を見ていると、後ろから「鮎沢」と江角君に声を掛けられた。
「この部屋、チョッとお洒落だよね」
振り向いて私が言う。
「ああ、ここは、叔父さんのために改造した部屋だから」
「叔父さんって……」
「そう夏花さんの旦那さん。事故で植物状態になってさ。それで二階にあった大部屋を二部屋改造して、この206が叔父さんの部屋。そして向かいの207は宿直室にして叔母さんが寝泊まりしていたんだ。でも叔父さんは長くは、もたなかった……」
「そう、悲しい部屋だったのね」
「うん。今でも叔母さん仕事で遅くなったとき、この部屋で寝ているみたい」
そんな大切な部屋に、入れてもらった事を申し訳なく思った。
そして、その逆に嬉しくも――。
江角君と二人、並んで外の景色を見る。
「叔父さんの居た平成の時代は終わったから、この部屋も何とかしないといけないと思うんだ。別に部屋が足りないってわけじゃないけど」
「じゃあ、好いんじゃない。大切な思い出だけでなく。大切な人にも貸してあげればいいじゃない」
「みんな大きな病院に行きたがるから、需要なんてないよ」
江角君が、寂しそうにそう言った。
「そうかな、私はこの部屋、好きだけど」
「ばか。元気な人間がいくら好きでも泊まれないだろ。ホテルじゃないんだから」
そう言って、二人で街の景色を見ていた。





