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春は、あけぼの⑬

「ロン。今日はありがとうね」


 駅まで着くと、住之江部長はありがとうとロンを撫でてくれた。

 そして私にも。


「今日は誘ってくれてありがとうございます。おかげで良い勉強が出来ました」


「いえ、私は何も」


「指揮者の勉強をしていて、僕には絶対的に出来ないと思っていたことがありました。それが今日ロンたちと出会うことによって克服できるような気がしてきました」


 指揮者の鳴るためには、音楽をよく知ることや音を聞き分ける能力の他にも、もっと大切なことがあるのだと言った。

 それは人間性。

 どれほど素晴らしい能力を持っていても、人間性が悪ければ誰にも信用してもらえなくて、誰も着いて来てはくれない。

 指揮者は、時として演奏家を叱ることだってある。

 嫌いだから叱るのではなく、もっと曲にあった演奏が出来るように叱るのだ。

 でも、全員が素直に受けとめる訳ではないし、曲の解釈自体意見が分かれることもある。

 そんな時に、とことん話し合ってお互いの理解を深め合えるのか、別れてしまうのかは人間性に掛かっている。

 住之江部長は、その大切なことをロンたちに教えて貰ったと言った。

 私の家の中だけでなく、私と一緒に居なくても、誰とでも同じように真摯に向き合うロン、ラッキー、マリーの姿。

 もしも誰かが自分を攻撃して来たら……そんなことは一切考えなくて無防備に弱点であるお腹を見せる姿。

 心から信頼してくれているからこそ、こちらも信頼に応えられるように頑張る。


「まさか、犬に教えられるとは思ってもいませんでした。そして、もうひとつ」


 何だろうと、ロンを見ていた顔を上げた。


「鮎沢さんが、今日僕を読んでくれたわけ」


 そう言われると戸惑う。

 正直、私は何も深くは考えていなかった。

 ただ、私が入部したことでギクシャクしてしまった住之江部長に、私と言う者を分かって欲しかった。

 私のしてきた音楽を、仲間を見て欲しかった。

 そして私の大切なロンを……。

 私には何をどうしたら良いのか、それ以上事は考えられなかったので、少しだけロンの力を借りたいというのも正直あった。

 でも、私が住之江部長を呼んだのは、それだけ。


「この前、森口美緒さんにストーカーだと言われた通り、僕は鮎沢さんのことが好きでした。そして今も。でも人も犬も命と感情を持つ者で、道具じゃない。決して個人の物になんて出来やしないし、それよりもお互いが分かり合えないといけない。鮎沢さんにとってもロンにとっても、お互いは唯一無二の存在だと思う。だけどお互いの殻に閉じこもることなく誰とでも分け隔てなく仲良く接する。そう、この僕にでも……」


 住之江部長は、そこまで一気に言うと、ひとつ大きく深呼吸をした。


「僕は江角には勝てないかも知れない。でも僕は鮎沢さんを好きでいることを諦めない。どうか鮎沢さんを好きでいる仲間の一員に、僕を付け加えては貰えないだろうか」


 なにか春の夕焼け空に、バラの花が一斉に咲いた気がした。

 それほど衝撃的な言葉だった。

 そう、私の一番望んでいたことは、私を好きでいてくれる人の中に居たいという事だったのだろう。

 自分で誘っておいて、いったい自分で何がしたいのか、よく分かっていなかったのに、その答えをくれたのが住之江部長だったことに驚く。

 そして、それが嬉しい。


「はい。これからも宜しくお願いします」


 そう言って頭を下げた。


 カタカタと音を立てて走り去って行く電車を目で追いかけていると、どこからか甘いバラの香りがしてきた気がした。


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