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青い夏の日⑯

「実は、今日は私の人生で最大の野心を持って来たんですよ。何だかわかります?」


 はじめて高橋さんが振り返り、そして悪戯っぽく笑った。

 私は高橋さんの言っている事が分からないで、何も答えられなくて首を傾ける。


「それは江角先輩を寝取って、鮎沢先輩から奪ってしまうこと。そして、それが叶わなかったら、甲本に体をやってキッパリと別れてドラムも吹奏楽部も辞めてしうこと」


 大人しそうな高橋さんから、思いもよらない言葉が出て驚いた顔をすると「大丈夫ですよ。私、鮎沢先輩みたいに“ねんね”じゃありませんから」と笑われた。


“ねんね”と言うのは子供の事――では“ねんね”ではない高橋さんは……。


「でも、どっちもやめました」


 フッと肩の息を降ろすような口調で高橋さんは言い、そして話を続けた。


「正直言うと、甲本の事そんなに好きではありませんでした。確かに音楽性は合っていたけど、一緒に居て楽しいのは甲本が江角先輩の友達だからです。いつも音楽と江角先輩の話をしていました。でも今夜、やっと江角先輩に失恋していることを認めてしまったんです。本当は、あの大会当日の私が風邪で寝ているホテルの部屋の通路で江角先輩が鮎沢先輩に掛けた言葉を聞いてしまったときに認めておくべきはずだったのに」


 大会当日は高橋さんの部屋にお見舞いに行った後、江角君に叱られた。

 自分の体調をもっと気遣う様にと。

 あの時はなにも気が付かなかったけれど、病人に聞こえていい内容ではなかったと思う。


「やっと甲本を好きになれると思いました。甲本はズッと私を好きでいてくれたのに――まったく調子の良い女ですね。でも、決して江角先輩の代わりじゃないです。私の、貝のように閉じていた心が開いたから分かったんです。私も甲本が好きだと言うこと。だって、この暑い夏に屋根に上って瓦を組む仕事でしょ。それだけでも大変なのに、私が九十九里(ここ)に行きたいって言うと早朝から休みもしないで三日分の仕事を一日で片付けて、こうして連れて行ってくれたのだから。その上、私のために電子ドラムまで買ってくれて。屹度、甲本は私が江角先輩を好きなことなんてズッと分かっていましたし、今日ここへ私が来る理由(わけ)も分っていたと思います。分かっていながら大切な時間を使ってくれていた。ここまでされて愛せない訳がないのに。甲本も恐らくこの旅行が別れを意味する事なんてお見通しです。それなのに私は愚かな女で、すべてが終わったあと真実に気が付くなんて……」


 階段の床に一滴の涙が落ちるのが見えて、私は高橋さんの肩を抱いて言った「今、泣いちゃ駄目」だと。

 高橋さんは不思議そうな顔で私を見ていた。


「その涙は、今までの事を甲本君に正直に話して“貴方が好きです”って告げるまで取っておきなさい」


 心の中から自然に言葉が出た。

 背の高い高橋さんが身を縮め、不安そうに顔を上げて私を見る。


「今更、許してもらえるでしょうか?」


 私は優しく微笑んで伝えた。


「高橋さんの好きな人は誰かしら」と。


 高橋さんは「甲本先輩です」と答えて私に抱きついて泣き出した。

 困った私が「だから、泣いちゃ駄目って」と言って背中を摩っていると「この涙だけは許して下さい」と嗚咽のなか小さく言った。

*大会当日、高橋さんの部屋を出た千春に江角君が掛けた言葉⇒(名古屋国際会議場⑩参照)

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