7
なんとか無事に大学に受かった春、あたしはまたコーヘーの家に向かっていた。
県外の大学に行くので準備に忙しくて、さすがにおばあちゃん家へのお泊りは止めにした。けど、三月中の日曜日に、一人でバスに乗って出かけた。
冬にカレンダーを見て泣いて、泣きながら眠って、それからしばらくは何も考えられなかった。
ほとんど機械的に勉強して、やることがあることのありがたさをなんとなく感じている、そんな感じだった。
学校では友達と普通に話して、笑って、冗談も言ったりして、何一つ変わらないような生活をしていたけど、そのつもりだったけど、ある日お母さんが言った。無理しなくてもいいのよ、って。
それは勉強のことだったかもしれないし、あたしの様子がどこかおかしくてそんなことを言ったのかもしれない。あたしはその時驚いてちゃんと訊かなかったから未だに判らない。でも、何故だかそのとき涙が出てきて、おばあちゃんの前で泣いたように泣いてしまった。お母さんは泣いているあたしをずっと抱きしめてくれてて、ようやく落ち着いた頃、ああ自分は無理をしてたんだなって思った。
結局お母さんには何も説明もせずに、ただありがとうとだけ伝えた。お母さんはちょっと寂しそうに微笑んで、いいのよ、とだけ応えた。
そこからは、完全に気持ちを切り替えて勉強に集中した。たまに思い出して涙ぐむことはあっても、やらなきゃいけないことがあることに気付いたから、すぐに落ち着いた。
とにかくまず、大学に受かること。そのために勉強すること。目標を定めてからずっと受験に備えた勉強はしていたけど、気持ちが緩まないように、最後の仕上げをするように、淡々と取り組んでいく。
それから、ちゃんとコーヘーに会おうって決めた。大学に受かったら、ちゃんと会って気持ちを伝えようって決めた。決めたというか、伝えなきゃいけないって気付いたのだ。あたしもコーヘーも、大切なことは何一つ言葉にしていない。コーヘーが言わない言葉を、あたしは勝手に解釈して、判ったつもりになっていた。あたしも何も言わずに何かを期待していた。それじゃダメなんだと気づいたから。だから、受験が終わって、大学に受かってることが判ってから、おばあちゃんにコーヘーの家の電話番号を聞いた。今度はちゃんと約束をして行こう、って思ってたから。
なのに、何故かコーヘーは電話に出なかった。いつかけても出なかった。お仕事が忙しいのかと思って、遅い時間にかけても出なかった。病院の電話番号を調べてそっちにかけたらよかったって気付いたのは、バスに乗ってからだ。今さら調べてかけても、今日は病院は休みだ。意味がない。自分のバカさ加減に呆れていたら、コーヘーの家の近くのバス停に着いてしまった。
ほんの十五分ほどの工程。たったこれだけの距離。もしかしたら高校よりも近いかもしれないこの場所に、おばあちゃんの家に行く以外の目的で来たのは初めてだった。自分一人で移動して、その近さに気付いて、あたしは何をしていたんだろうって思った。本当にバカだ。
バス停の前に立ったままバスを見送りながら携帯電話から電話をかける。でもやっぱり出ない。イマドキ留守番電話になってないって、どうなんだろう、とちょっと逆切れな気分だ。
仕方なくあたしは歩き出した。
縁側かなと覗くと誰もいなくて、今回は泊まりに来ないことを聞いているのかもしれないと考える。結局連絡もできなかったのだから、会えなくても仕方ないとは思いつつも、なんとなく会えるような気がしていた。四年間、一度も会えなかったことがなかったからそんな風に思ったのかもしれない。
もし居なかったら携帯電話の番号を書いたメモをポストの中に入れて帰ろう、なんて思いながらとにかく玄関へ向かう。雨戸は開いているから誰かいるんじゃないかと思うけど、春と夏に庭と縁側以外にコーヘーがいたことはないのでよく判らない。
玄関で少し迷ってから呼び鈴を押す。いつもの音が家の中で響いたのが聞こえてきて耳を澄ますと、「はーい」という男の人の声が聞こえた。コーヘーの声じゃないような気がする。他にもなんだかがやがやと人の気配がして、少し緊張して待っていると、三和土を歩く音がして戸が開いた。
出てきたのはコーヘーと同じくらいの年に見える眼鏡をかけた男の人だった。
その人はあたしを見ると少し目をみひらいた。
「あの」
「もしかして『みく』ちゃん?」
思わずあたしも目を見開いてしまう。
「え、あの…」
どうして知っているのか訊こうと思うのに言葉が出ない。
「今、浩平は出かけててね……あ、」
男の人は話しかけてあたしが戸惑っているのに気付いたように言葉を止めた。
「あれ」
体を動かして中が見えるようにしながら左手の親指でさしたのは、壁のカレンダーで。そこには毎冬見ては安心していた、あの言葉が書かれていた。
「すぐ帰ってくるから、上がって待ってる?」
あたしはカレンダーの文字を見たまま、首を横に振った。この期に及んで、コーヘーじゃない人の許可でコーヘーの家に上がるのは違う気がしたからだ。
「えーと、そしたら…」
男の人は困ってるみたいだったけど、あたしは何故だかカレンダーの文字から目が離せなくて、ただつったって、じっと見上げていた。その様子に気付いたらしく、苦笑した気配がした。
「修一ー? どうしたのー?」
女の人の声がしてようやくあたしはカレンダーから目を離した。
「あ、『みく』ちゃん!」
あたしを見るなりその人が叫ぶと、奥のほうから「え!」とか「お!?」とか声がして続けて足音も聞こえてきた。その足音に混じる、チャッチャッチャというリュウイチの爪の音も。
「おー、この子が!」
「ふむ」
「あら可愛い」
男の人が二人と、女の人が一人と出てきて、その足元を縫うようにリュウイチが来た、と思ったら、瞳を輝かせていて。
「あ、」
「リュウ!」
誰かが叫んだのが聞こえたけど、あたしは飛んでくるリュウイチの衝撃に備えるので精一杯だった…。
つくづく、カバンは肩にかけてて良かったなとか、スカートじゃなくて良かったなとか思った。
飛びついてきたリュウイチを一応キャッチしようと思ったのだ。でも、勢いが半端なくて、両肩を押さえるように両前足も伸ばされてて、やっぱりあたしは数歩下がってから尻もちをついて地面に寝転んでしまう。今回は芝生の上だったので、前回より痛くない。でも、リュウイチの興奮は前よりすごくて、顔じゅうを舐められていた。
……お化粧しなくてよかった…と、頭の片隅で考えながら、さてどうやって退かそうかと思った時、ふいに重みが消え舐められなくなった。
寝転んだまま薄目を開けると、リュウイチを抱っこしたコーヘーがいた。すごく困った顔をしていた。
「あ、浩平!」
「ええと」
「おかえり」とか「リュウがいきなり飛んで」とか、家のほうから声がするけど、コーヘーは黙ってリュウイチを抱っこしたまま玄関に向かおうとした。でもすぐに足を止めて振り返ると手を差し伸べてくれた。
あたしは内心少し驚きながらそっと手を伸ばしてその手に触れる。と、ぎゅっと握って引っ張り起こしてくれた。あたしが立ち上がるとちょっと間を置いて手は離されて、少し寂しい気持ちになる。でもコーヘーは「ちょっと待ってろ」と呟くように言って、くるりと向きを変えると玄関に向かった。
あたしはうなずいたけど、こっちを向いてないコーヘーには多分判らなかっただろうと思いながら、玄関の引き戸が閉められる音を聞きながら、乱れた髪を手櫛で整えたり、衣服についた枯草とかを払ったりしていた。
顔のべたべたは濡れタオルで拭きたいなと思ったところで、戸の開く音がして、コーヘーが手にタオルを持って現れた。何故かしっかりと戸を閉めてこちらにやってくる。
「悪かった」
いつかと同じように謝るので、あたしは笑いながらタオルを受け取って顔を拭いた。
迷って迷ってお化粧するのをやめて本当に良かった。本当は少しでもキレイになって伝えたかったけど、気合が入りすぎている自分が気恥ずかしくなってやめたのだ。
無造作にガシガシと拭いていると、コーヘーがかすかに笑う気配がした。
「みくは、変わらないな」
それは、子供のままのようだという意味に聞こえて軽くショックを受けたけど、あたしは不満そうに頬を膨らませてみせた。コーヘーの顔が、子供をからかうような調子じゃないように見えたからだ。
「変わったよ。四月から大学生だもん」
「そうだったな、おめでとうさん」
「ありがとう」
なんだか眩しそうにあたしを見るから、照れてしまう。
「また何かお祝いしなきゃな」
言いながら手を出された。首を傾げると、タオル、と言われ思わず渡してしまう。
コーヘーはそれを玄関脇に置いてあるプラスチックのバケツにかけてまた戻ってきた。
「ありがとう。そうだな、何にしようかな」
もしかしたら、貰えないかもしれない。そんなことを思いながら考えるふりをする。
考えるふりをして、実際考えていたことは、このあとどうやって告白しようか、ってことだった。
「あんまり高い物は無しな」
「えー、ケチ!」
いつものノリでそう返す。が、いつまで待ってもコーヘーが何も言わない。
ちょっと首を傾げて待ってみる。
と、いきなり、がしっと手首を握られた。
「ごめん、みく。ちょっとこっち」
「え」
歩き出すものだから、ほとんどひきずられるようにしてついて歩き出す。
その背後で、「おー」とか「きゃー」とかいう声が聞こえたので、チラっと振り返ると、細く開いた戸の隙間から何人か覗いているのが見えた。
そっちに気がとられてたら躓いて転びかけて、慌てて前を向いて体勢を整える。それに気づいてちょっと振り返ったコーヘーがバツの悪そうな顔をして少し歩調を緩めてくれた。
その後はコーヘーは振り返らずに松林に入っていって、さらにそれを抜けて砂浜に辿り着いて、ようやく立ち止まって、振り向かないまま手を離してくれた。
「今日、来るかもしれないって思ってたのに、みんなが来てしまって」
こちらを見ないまま、そんなことを話しだす。
あたしは海風で顔にかかる髪を左手で抑えながらコーヘーの背中を見ていた。
「一人、結婚するのがいて、その祝いに場所を提供しろって。断ったんだけど、押しかけてきて」
「あたし、今回はおばあちゃん家に泊まりに来てないよ?」
何をどう答えていいのか迷って、とりあえず「今日来るかもしれないと思って」に返答してみる。
「仕方ないから、そのまま待とうと思ったんだけど、買い物はジャンケンで負けたヤツがって言い出しやがって、家、提供してんのに! イヤだって言ったのにきいてもらえなくて。――あ」
あたしの言葉にようやく気付いて、コーヘーはようやく振り返ってくれた。
「それは、おふくろから聞いてた。――でも、来ると思ってた。来て欲しいって思ってた」
真剣な眼差しに、心臓が音を立てる。夏の時にはたかれた時みたいに。
「なあ、みく。俺、カンチガイしてないよな?」
急に不安そうな顔でそんなことを言う。耳が真っ赤だ。
あたしは、自分の顔が熱くなるを感じながら、コーヘーの目をまっすぐに見た。
「あのね、カレンダーが新しくなくてショックだった」
コーヘーの問いに直接答えなかったら、少し不満そうな顔をして、でも小さくうなずいた。
「おまえ、県外に出るからな。同じように書いていいか迷った」
「あれ、最初は、もう来るな、って意味だったでしょ?」
コーヘーはまたもや不満そうな顔をする。
「そりゃ、三十歳のオッサンがチューボーに手を出したら犯罪だろ」
「二十歳のおにーさんだって犯罪だよ」
あたしがそう言うと不機嫌な顔になる。
「そういう問題じゃない」
「毎年、毎年、傷付きながら安心してた」
そう言うと、少し表情を緩め、小さく息を吐いた。それから改めてあたしを見て。
「言っとくけど、ロリコンじゃないぞ」
なんのこだわりなのかそんなことを言って。
「なあ、みく。俺は、おまえが好きだ。多分、ふられたらたっぷり三年くらい落ち込むくらい好きだ。おまえが大学を卒業してからでいい。結婚しよう」
え。
なんかトンデモナイことを聞いた気がして思考が停止する。
ケッコン? ケッコンって何だっけ…?
「こんな三十超えたオッサンだけど、待ってて……え? おい、みく?」
ペタペタペタと頬を軽く叩かれて正気に戻った。
「けけけけ、ケッコン?!」
「そう、結婚」
「や、だって、早いよ。まだつきあってもないし」
そう言うと、地味に傷つくな、なんて呟いて。
「早いったって、四年後だ」
「そりゃそうだけど! こ、心の準備が…」
「この四年で付き合えばいい。遠距離恋愛になるが、どっちかってーと不利なのは俺のほうだ」
何の自慢のつもりなのかコーヘーは腕を組んで胸を張った。
「悪いが、オッサンは確約が欲しい。高校を卒業したばっかのおまえにはまだ先のことかもしれんが、俺にとっては結構深刻な問題だ」
あたしはちょっとだけ笑ってみせた。
「あたしだって不安だよ」
結婚の約束なんかで安心して離れて過ごせるほど、コーヘーのことを信じていいのかも判らない。だって、コーヘーはオトナで、あたしはコドモだから。
でも、結婚って言葉を出すくらいコーヘーも不安なのだとしたら、おんなじ気持ちだって思ってもいいってこと?
「なあ、みく。おまえは? 俺のこと、どう思ってる?」
あたしと同じで、言葉にしてもらわないと不安になるくらいに。
気が付くと、コーヘーの右手があたしの頬にふれていた。
……それなら、言葉にして伝えよう。気持ちを。
「――好き」
囁くようにして告げると、かがむようにしてコーヘーの顔が近づいてきて。
あたしはそっと目を閉じた。
END
「行っちゃったね」
細く開けた引き戸に、綾菜、千沙、三木、乃木灘の順に貼り付いて、遠ざかって行く二人の背中を見送ったあと、ぽつりと綾菜が言った。修一はすんすんと鼻泣きしているリュウイチを押さえている。よほど未来のことが好きなのだろう、手を離したらちょっとの隙間もこじ開けて飛び出てしまいそうな様子だ。
「うーん」
複雑な顔をした乃木灘を置いて、三人は家の中に入っていく。
仕方なく修一もリュウイチを抱き上げてついていくことにした。
「乃木灘?」
腕組みをしている唸っている友人に声をかける。
「うーん」
やはり、唸り声しか返さない。どうやら自分の娘と重ねているらしい友人に苦笑した。
「あらら…」
電話の向こうで驚いて言葉を失う友人に里恵は苦笑した。未来に浩平の家の電話番号を訊かれたことを伝えたのだ。
「私も、可津美になんて言ったらいいのか…。可津美はまだしも、信彦さんがねえ」
娘婿の顔を思い出す。未来が泊まりにくるようになる最初の頃、とんでもなく反対していたのだ。里恵自身も、孫が泊まりにくることは嬉しいが、娘が心配しているほどではないと思っていたので、無理をすることはないと伝えていた。二対一だったのに可津未は自分の意見を押し通し、結局、年三回泊まりに来ることを許した。それはそれで楽しい日々だったが、こういう結果を招くことになると、娘婿に申し訳なくも思える。
「自分の息子のことだけど、あんな子のどこが良かったのかしらねえ」
しみじみと靖美が言う。
「それはこっちの言葉よ。今ならやっと女らしくなってきたって言えるけど、四年前はまだ本当に子どもだったのに」
四年前から互いに惹かれあっていたのか、それとも、だんだんとそういう思いが積み重なっていったのか。
判らないものね、と笑い合う。
「あら、でも」
ふと、靖美が不思議そうな声を上げた。
「今日、あの子の家の方で友達の結婚祝いをするって話だったけど」
どうやら複数の女性が出入りしている、というウワサがなんとなく出ているらしいと耳にしてから、一応誰が来るのか連絡するようになったらしい。
「事前に未来ちゃんが連絡してるなら、何があっても承諾したりしないと思うんだけど」
「え? 電話番号合ってる?」
浩平が住んでいる家は、先代の高橋院長の家だ。浩平が引っ越す前も何かと使っていて電話は引いたままだと聞いていたから、まだ町内に電話帳が配られていた時代の電話番号を伝えたのだ。番号を言うと、合っていると靖美は言う。
「おかしいわね? でも、あの子が出かけるようなことはないだろうから、約束せずに未来ちゃんが来ても大丈夫よ」
あっけらかんと言う靖美は、浩平の気持ちに気付いていたようだ。里恵はますます娘婿のことが不憫に思えてため息をついた。
「あれ、電話線が抜けてる」
浩平の家の電話は、昔懐かしい黒電話だ。浩平の祖父が使っていたのをそのまま使い続けている。一応インターネットも使えるように工事はしてあるが、アナログ回線のままで使えた時代の話で、通信速度が遅いためあまり使っていない。一昔前ならいざしらず、多少の調べ事は携帯電話でできてしまうので、それほど困っていないらしい。
「あ、それねえ、リュウイチが抜いちゃうんだって」
綾菜が紙コップを用意しながら言う。
「ああ、それでたまに電話が繋がらないのか」
「なに、乃木灘、携帯電話のほうにかけないの?」
「うーん、気分によって?」
乃木灘はテーブルに並べられたご馳走を狙う猫たちに注意しながら、答える。
「まあ、浩平は、携帯電話不携帯だからな」
修一が言うと、乃木灘はそうそう、と調子よく頷いた。
「今はこっちかなーってほうに掛けるんだよ。一発で出たらアタリってことで」
「あ、それ判る」
同意したのは三木だ。
「でもなんでリュウイチはそんなの抜くんだ?」
百歩くらい譲って、浩平が電話にかまけてリュウイチと遊ばないというのなら、どこかで関連性を見つけて抜くのも判る。しかし、浩平はむしろ電話には無関心だ。
「なんかね、暇だといろんなものを引っこ抜いて遊ぶらしいよ」
「あ、そう言えば前に言ってたな。家じゅうのドアを開けられるようになって困ってるって」
修一が言うと、皆、部屋の隅で寝ているリュウイチへ視線を向けた。彼は、名前を呼ばれたせいか顔をあげてこちらを見ていた。
古い日本家屋とはいえ、多少の改装はしてある。引き戸だけでなく開き戸もあるから、丸い形のノブもついている。それらをすべて開けられるようになったというのだ。
「ボーダーコリー恐るべし…」
乃木灘が呟く。リュウイチは自分には関係のない話だと判断したようで、再び顎を前足に載せて目を閉じた。