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海辺の家に  作者: 今西薫
6/7

 高三の夏休みの終わり頃、貰い物の梨を持って会いに行った。

 その頃になると、おばあちゃんはもう、あたりまえのことのような顔をして、送り出してくれていた。

 多分、行ってもすぐ帰ってくるし、あたし自身が特に騒ぎ立てたりもしないから、心配するようなことはないと気づいていたのだろう。

 春と夏は縁側、冬だけ玄関の内までだったから、その日は最初から縁側を目指して行った。

 コーヘーは、縁側に座って、柱に背をあずけて空を見ているようだった。

「よお、受験生」

 あたしに気付いたコーヘーは、いつものように声をかけてきたけど、ちょっと様子が違うように感じた。

「梨、持ってきた」

 紙袋を少し持ち上げると、サンキュ、と笑顔で受け取ってくれる。

 その目が赤い、と気付いてしまってじっと見ていると、コーヘーは苦笑した。

「――ウサミがな、逝ってしまってな」

「え」

 言葉を失った。コーヘーにかける言葉を。

 あたし自身もウサミとは何度か会った。たまに会いに出てきてくれて、あたしの手からバナナとかリンゴとかを食べてくれていた。身近な人物の死と言えば母方の祖父……おばあちゃんの旦那さんくらいで、それも随分と子供の頃のことだったから、あたしは「死」というものを実感として判ってなかった。そのことに、今気付いた。

 めったに会えない犬ではあったけれど、この間まで存在していたものがいなくなる、という感覚を、その時初めて感じた。でも、それよりもきっと強い感情が、コーヘーの中にはあるのだろうと気づいて、どう声をかけていいのか判らなかった。

「昨日な。まあ、もう十七とか十八歳だから、覚悟はしてたんだけど。……やっぱキツイわ」

「――うん」

 あたしはただうなずいて、縁側に腰掛けた。

 しばらく黙って二人して空を見ていた。

 屋根と松林の間の空は狭かったけど、真っ青で、深い色で。ああ空が青いんだなあって、思っていた。



 コーヘーがぽつりぽつりと話してくれたことによると、ウサミはコーヘーが大学の時に拾ったのだそうだ。獣医さんの診立てで生後一年くらいと言われたそうで、ああそれで十四歳か十五歳とか、あいまいな言い方をしてたんだな、って気付いた。

 コーヘーは地元の大学の医学部に行ってて、自宅から通学してたから、ウサミはずっと家――高橋医院の自宅のほうにいたらしい。コーヘーのお父さんもお母さんも「ウサちゃん」と言呼んで可愛がってて、こっちの家に一人暮らしをすることにした時に連れて出ると言ったら、すごく反対された、とちょっと笑って話していた。

 あたしはただ頷いたり一緒に笑ったりしながら、そんな話を聞いていた。

 ひとしきり話したら、またしばらくコーヘーは黙って空を見て、それから、ぽん、と一瞬頭に手を載せられた。

「ありがとな」

 載せられたというより、はたかれた、というほうが正しいくらいの一瞬の接触に、あたしの心臓は音を立てたけど、それに気付かないふりをして、縁側から降りた。

「うん、じゃあね」

 振り返って、笑顔で言う。もしかしたら、目が赤くなっているかもしれない、と思いながらも、涙だけは必死でこらえた。

 コーヘーは気付かなかったのか気付かないふりをしてくれたのか、じゃあな、と言ってくれた。

 ウサミのことは悲しいけど、あたしが泣くのは今じゃないし、ここじゃない、って思っていた。



 コーヘーもあたしも、「また」という言葉を使ったことはない。

 約束をしたのは一度だけ。二回目に会った夏休み。ウサミが起きていたら会わせてくれる、という約束だけ。

 辞書の時は、もしかしたらおばあちゃん経由で手元に届くのかな、って思ったくらい、あたしたちの間に、次また会おう、という言葉は出てこない。

 それでも、いつも不安になりながら、いつまでこんなふうに会えるのかと思いながら、通い続けられたのは、毎年のカレンダーにちゃんと言葉が書かれていたからだ。

 最初に見た時、来るな、という意味で受け取ったあの言葉が、もしかしたら約束なのかもしれないって、思い始めていたのだろう。

 ――その冬、あたしはいつものように呼び鈴を押して、返事があってから玄関から入って、コーヘーが出てくるまでの間にいつものようにカレンダーに目を走らせて、心臓が凍りつくのを感じた。

 もうあと数日で新しい年がくるのに、カレンダーは今年のもののままだったのだ。

 コーヘーが出てきてその後ろにリュウイチとネズイチもいて、あたしは我に返った。ドクンドクンとイヤな音を立てる心臓に気付かれないように、いつものようにロールケーキを差し出すと、「受験生のくせに、余裕だな…」と、いつも通りにちょっと呆れたように言われた。

「受験生にも息抜きは必要なんだよ」

 その頃には、おばあちゃんに切れ端を味見して貰わなくても自信を持って渡せるロールケーキを作れるようになっていた。もちろん、ロールケーキだけ、だが。

 春は何も持たずに、夏は果物を、冬はロールケーキを持って行くのがなんとなく慣例になってしまっていた。だからあたしは、ごく当たり前にロールケーキを作って、いつものように持ってきた。

 大学受験を控えて、さすがに両親も、今年はおばあちゃん家のお泊りは止めにする?と訊いてきたけど、変わったことをするほうが怖いのと、夏のことがあったからなおさらコーヘーに会いたくて、来たのに。

 なんで、カレンダーが変わってないの?

 目の前がくらくらするような感じがしながらも、いつものようにちょこっと話をして、リュウイチを撫でて、ネズイチの診察を受けて、あたしはコーヘーの家を後にした。

 ゆっくり座ることのない冬は滞在時間が短い。

 でも、今日はその短さがありがたく思えた。

 コーヘーの家のカレンダーが変わるのは早い。冬はだいたい十二月の半ばを越えたあたりに行くのだけど、その頃には既に翌年のものに貼り替えられている。一度聞いたら、年末は大した予定がないから、早めに翌年のものを貼って一月の予定を書きこむのだと言っていた。

 今年は、いつもの冬より遅いくらいの訪問なのに。

 去年までは信じていたことが、ずっと続くと思っていたことが、そうではないことに気付いた瞬間だった。

 判っている「つもり」だった。そのことに気付いたのだ。

 歩きながら気付かないうちにぼろぼろ泣きだしたあたしは、おばあちゃん家に着いてもまだ泣き止むことができなくて、ずっと泣きっぱなしだった。

 おばあちゃんは何も訊いてこなくて、落ち着くようにとホットミルクを淹れてくれた。それは初めて会った日にコーヘーが淹れてくれたのと同じはちみつ入りのもので、よけいに涙が止まらなくなった。

 泣きながら、春と夏と冬の、どこかの休日に行けば会えると信じていたあたしは、会えなくなる日がくると判っていたつもりになっていたあたしは、どれくらバカだったんだと、ずっとずっと考えていた。

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