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高校一年の夏休み、コーヘーから辞書を貰った。
冬休みには、新しいカレンダーにちゃんと「この家に来るのに みくだけは はだしでよし!」と書かれてて安心した。
そしてまた春が来て、二年が経って、会えて嬉しい気持ちと、いつまでこの関係が続けられるのだろうという怖さが頭の中でぐるぐる回っていた。
あたしがコーヘーの家に行くのは、休みの中のたった一日なのに、会えなかったことはなくて、期待が膨らんでくる。期待が膨らんだ次の瞬間には、ただの偶然だから、っていう冷静な声が聞こえてきて、すぐに落ち込んでしまう。
偶然じゃないにしても、コーヘーにとってのあたしは、お母さんの友達の孫で、長期の休みの間に友達のいない場所に来て暇な子供で、同情してくれているのかもしれない。
だから、もし同情だとしても、コーヘーが結婚するとか、恋人が出来たとか、コーヘー自身がもう来るなってハッキリ言葉にされたら、行かないって決めていた。
なのにコーヘーは結婚する様子はなくて、恋人もいるのかいないのか判らない状態で。冬休みに行くと女物の靴があることがあったり、春休みや夏休みには障子の向こうで声がすることがあったりするけど、なんとなく全部違う人のような気がしていたし。もしかしたら、そう思いたいだけなのかもしれないし、あたしにはそういった気配を感じ取れないだけなのかもしれない、なんて思ったりもして、本当にぐるぐるしていた。
だからかもしれない。つい、口が滑ってしまったのだ。
「もしかして、コーヘーって男の人が好きなの?」
その時あたしはまたリュウイチとボール投げをして遊んでいたというか、リュウイチに遊び道具にされていたというか、とにかくボールを投げボールを投げを繰り返していた。そろそろ腕も疲れてきて息もあがっていた頃で、頭の中は別のこと――コーヘーは結婚しないのかなとか考えてて、ふっと思いついてしまったのだ。
丁度、ホットミルクと濡れタオルセットを持ってきたコーヘーの顔を見た瞬間、反射的に口から飛び出してしまったのだと思う。
コーヘーは一瞬固まったようだけど、すぐ心底イヤそうな顔になった。
それから深呼吸をして、
「そういうのを毛嫌いする気はないし否定もしないけど、俺は違う」
一瞬の硬直は図星にも思えたのだけど、まじめな顔で静かに否定する様子は、嘘ではないように思えたので信じることにした。
――じゃあ何故、結婚しないの?
口をついて出てしまいそうになる疑問を飲みこんで、「なら、よっぽど縁がないんだね」と軽く言ってみたら、小さくため息をつかれた。
「ああそうだね、って答えりゃ、このオコサマは満足するのかね」
苦虫を噛み潰したような顔をして言って、それから、とつけ足した。
「十五も年上のオトナを呼び捨てにするんじゃない」
一瞬意味が判らなかった。
「うわ、オジサンだ!」
慌てて出た言葉に、さらに機嫌の悪そうな顔になったコーヘーを見ながら、自分の発した言葉を思い出した。
――もしかして、コーヘーって…
頭の中で「コーヘーって」って部分がこだまする。一瞬で顔が熱くなった。
「あ、わ、あの…」
なんと弁明したら良いのか判らずあたふたする。
いつも心の中では「コーヘー」と呼んではいたが、実際にはどう呼んだらいいのか判らなくて、「ねえ」とか「あの」とかって言葉でごまかしていたのだ。会って話しをする時間はいつも短いので、案外、呼ばなくても会話は成り立ってしまう。
「ご、ごめんなさい。や、なんて呼んだらいいか迷ってて、心の中ではずっと呼んでて」
「ほー」
言わなくてもいいことがぽんぽんと口から飛び出て行くが、コーヘーの目は冷めていく。
あたしだって普段なら、年上の人にはちゃんと名字に「さん」をつけたりして呼んでいる。
「最初に会った時に、お兄さんって呼んでいいのかオジサンって呼んでいいか迷って…あ!」
「へー」
「わわわ」
ドツボにハマるってこういうことを言うのかな…。
なんだか悲しくなって上目づかいで様子を窺うと、コーヘーはふっと顔を逸らして、トラジを膝に載せた。
「聞いたか、トラジ。オジサンを呼び捨てにするジョシコーセーがこれだぞ。哀しいよな、いつからオトナって虐げられるようになったんだろうな。お前も可愛い可愛いって言われて調子に乗ってると、酷い目に合うから気をつけろよ」
猫に向かって話す姿にはなんだか哀愁がただよってる風で、つまるところ、からかわれていた。
「……悪かったわよ!」
「謝り方だって、コレだしな?」
「じゃあ、なんて呼んだらいいの」
ほとんど逆切れでそう言うと、コーヘーはふと動きを停めて考える様子になった。
その隙にトラジは逃げていき、少し離れたところに座って、迷惑そうな顔で毛づくろいを始める。
「浩平サマ、とか?」
にやりと笑って言う。
ほとんど反射で「バッカじゃないの?!」と言ってしまう。
「んじゃ、普通に高橋さん、で」
「タカハシサン」
「うんうん、ま、いいんじゃね?」
なんだか微妙な顔をしながらそんなことを言う。
「タカハシサン、タカハシサン、タカハシサン」
ヤケになって繰り返すと、コーヘーはさらに微妙な顔になった。
一体なにが不満なんだ、と思いつつ、
「タカハシサン、オジサン、オニーサン」
変化させていくと、顔をしかめた。
「……オジサンはやめてくれ」
ほとんど懇願するような調子で言うから、思わず吹き出すと、コーヘーも笑って、最後には、
「まあ、好きに呼べばいいわ」
と言った。
だから未だに心の中だけで、コーヘー、と呼んでいる。
「……乙女かよ」
乃木灘の感想がそれだった。
春と夏と冬、ある日曜日か休診の日を超えるまでは付き合いの悪い浩平だが、友人たちの宿泊は断ったりしない。それゆえに、浩平の友人たちは皆、一度は浩平と未来の会話を聞いていた。大抵の場合、飲み過ぎて寝過ごしたまま布団の中で漏れ聞こえる声が聞こえるくらいだが。
乃木灘の感想は、初めて目の当たりにした後のものだった。
「あれか? こんなオジサンじゃ相手にしてもらえないって悩んでるのか? それともさすがに年齢差でマズイって判ってるのか?」
乃木灘はやはりそこにこだわりがあるようだ、と千沙は思う。
「両方でしょ」
と答えたのは三木だ。
「両方ねえ…。おまえらの論でいけば、十五の年齢差はアリなわけだ。しかも、相手はすでに結婚可能な年齢だ。そしてどう見ても両想い。……あとは本人達次第だろう」
言いながらも乃木灘は納得していない様子で、三木は笑う。千沙は
「そんな簡単な問題じゃないでしょう、浩平からすると」
「そりゃそうだろう。親子ほど、とは言わんよ、十五歳差なら。でも、近い物があるのは判ってないわけじゃないだろう。……だから、本人達次第だって言ったんだ」
「あれでしょ、未来ちゃんが、県外の大学に行くからでしょ」
「そうなのか?」
三木の言葉を聞いて乃木灘は千沙に確認をする。
「綾菜情報では、そう」
「……そりゃ、心配だな」
その顔は、娘を県外で一人暮らしさせなきゃいけなくなった父親の顔で、三木は「違う違う、そっちじゃない」と笑いながら言った。
「多分、浩平は、未来ちゃんが県外に出たら、自分のことは忘れるだろうって思ってる」
三木はそんなふうに解説して、楽しそうに「見てて面白いよね」と続ける。
「そりゃ、あれか? バカなのか?」
「バカなんじゃないの?」
んじゃお先、と言い、コーヒー代をテーブルに置いて千沙が立ち上がった。
「ん? 平坂はなんか用事があるのか?」
「うん。今日はダンナとデート」
「ああ、じゃあ悪かったな、突然呼び出して」
申し訳なさそうに乃木灘は言うが、千沙はううん、と首を横に振った。
「浩平情報はデートの時間をずらしても知りたいから」
「……完全に楽しんでるな…」
「そりゃもう、あの浩平が、と思うと」
ふふふ、と笑って千沙は手を振った。
「じゃあまた何か進展があったら教えてねー。私も連絡するー」
二人して見送って、乃木灘はため息をついた。
「なんでこう、わざわざ難しいところを選ぶかね」
「それはさ」
三木はそこで言葉を切って吹き出した。
「恋、だからでしょ」
乃木灘は顔をしかめた。
「乙女の間違いだろ」