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冬休みもコーヘーに会いに行った。
ウサミに『今度来た時に起きてたら、会わせてやるな』って言葉があったから、ちょっとだけ気持ちを楽にして向かった。
冬だからか、縁側の雨戸が閉まってたから、まっすぐ玄関に向かって、戸を開けずに呼び鈴を押す。田舎では戸を勝手にあけて、こんにちはとか、ごめんくださいとか言うこともあるけど、コーヘーの家であたしはそんなことはできない。
両手でロールケーキを入れた紙袋を持って、返事があるかどうか、耳を澄ましてじっと待つ。
今回のロールケーキは最初から最後まで全部自分で作業した。前に会ってから何度も作っておばあちゃんのお墨付きを貰うまでになったから、今回は特に気合を入れて、おばあちゃんと同じように作った。
最初の頃、おばあちゃんはちょっと変な顔をしていた。なんか心配しているような感じだった。でもあたしは、ただ上達したいような顔をして教えてもらった。
それでもおばあちゃん家を出てくる時には、ちゃんとコーヘーの家に行くって言って出てきた。約束をしているの、と訊いたおばあちゃんに、約束はしてないからいなかったら高橋医院の家のほうに行ってみるって伝えた。
無謀なのは判っているけど、コーヘーとあたしとの間にそういう約束しちゃいけないような気がしていた。
しばらく待っていると足音が聞こえて、コーヘーが引き戸を開けた。そして、あたしを見て少し驚いた顔をした。
「受験生のくせに余裕だな」
「家の方針には逆らえないんだよ。……はい、これ」
紙袋を持ち上げる。
「ロールケーキ。……ウサミには会えそう?」
誰が作ったかなんて言うつもりはもちろんない。
「お、サンキュ。――あ、ちょっと待ってな。寒いから中入れ。ここまで連れてくるから」
スイカの時と同じくらいの気安さで受け取って、戸を開けたまま中に入っていく。玄関の中までで、家の中にはやっぱり入れてくれないらしい。
上り口には、踵の部分の折れたスニーカーと、女物のブーツ。様子を窺うように耳をすましていたら、話し声が聞こえてきた。
「誰ー?」
「おふくろの友達の孫。ウサミに会いに来たんだよ」
女の人の声は間延びしたような感じで、コーヘーのはそっけない感じだ。
上り框が高さが、うちの家とかおばあちゃん家とかと比べても高くて、古い家なんだなとか思ったり、壁に貼られたカレンダーがすでに来年のもので驚いてたら、どたどたと足音が聞こえてコーヘーが現れた。両手に茶色の犬を抱っこしている。立ち耳の、やわらかい表情をした中型くらいの犬だった。柴犬みたいだけど、柴犬より大きくて毛が短いような気がした。
「寒くないか?」
コーヘーの後ろからはリュウイチも、それからネズイチもついてきていた。
「……未だに春のことを忘れてもらえない…」
ショックだ、というふうに呟くと、黒猫はにゃあと鳴いて座り、リュウイチもそれに倣うように並んで座った。床の位置が高い分、猫は撫で易いけどリュウイチみたいな大きな犬は撫でにくい。ネズイチは頭を、リュウイチは胸のあたりを撫でてやる。
「こんにちは、リュウイチもネズイチも元気そうだね」
ネズイチは瞬きを一つして、しっぽをパタリと動かすと、立ち上がって去っていった。リュウイチはぶんぶんとふっている。
「相変わらずの犬猫タラシっぷりだな」
コーヘーは呟くと、よっこらしょとか言いながら、ウサミを抱っこしたまま床にそのまま腰を下した。
「まあそりゃな、裸足のチューボーが猫を誑しこんで熱出したってのは忘れがたい思い出だよな…」
しみじみと言いながらも、手はゆっくりとウサミの体を撫でていた。
ウサミはコーヘーの膝の上に伏せみたいな体勢で乗って、あたしのほうを見ていた。
茶色だけど、よく見るとあちこちに白い毛も混じっている。コーヘーが夏に、もうお婆ちゃんだって言ったのを思い出す。
「ウサミ、立てないの?」
「いや? 寒いからちょっと手助け」
「そっか。ありがとう。ごめんね、ウサミ。でも抱っこは嬉しそうだね」
そうっと鼻筋を撫でてみる。そこから耳の間の頭、後頭部、首、頬と移動して、親指でくすぐるように、耳の下あたりを撫でた。気持ちいいのかな、ウサミはちょっとだけ目を細めた。
「今、何歳?」
「十四か、十五だな」
「ふうん? 長生き、だよね?」
妙にはっきりしない返答にはつっこまず、訊いてみる。あたしの周りには、十歳より長生きしている犬はいない。
「そうだな、長生きなほうかな」
「そっか。――ウサミ、可愛いね」
子犬も子猫ももちろん可愛いなって思うんだけど、ウサミのほんわかした感じは、なんか違う可愛さを感じた。
「本当、犬タラシだなあ」
コーヘーは、くくく、と笑って、ウサミのお尻のあたりに視線を向けた。つられるようにそちらを見ると、ウサミがしっぽをゆらゆらと揺らしている。喜んでいるみたいに見えた。
「……このあいだ学校で、ウサギタラシの称号を貰っちゃったよ」
そういえば、と思い出してあんまりありがたくない称号のことを伝えると、コーヘーはさらに笑った。
「――ああ、動物タラシなんだな」
「全然嬉しくない……」
膨れてみせると顔だけで笑って、視線をあたしの後ろに向けた。
「夕方から雪になるって言ってたから、もう帰れ、受験生」
「おばあちゃん家まで近いもん、風邪なんか引かないよ」
「いや、おまえなら、このクソ寒い中、裸足になって風邪をひくかもしれん」
「もうその話は忘れようよ…」
うんざりした顔で言うと、コーヘーはにやりと笑う。
そして、よっこらしょと年寄りくさい掛け声をかけて立ち上がると、ウサミを縦抱きにした。そのまま下駄箱の上のペン立てから油性マジックを右手にとって、蓋を歯で噛んではずすと、カレンダーに向かう。書かれた文字は
この家に来るのに みくだけは はだしでよし!
というもので。
ちょっと心臓が凍ったけど、そんなことは気付かれないように顔をしかめてみせた。
「…それ、もしかして風邪をひけ、って言ってる?」
「いや、風邪はひかなくていいけど、靴を履かんでも許してやろうという、広い心の現れだな」
「……こじつけくさい…」
「まあ、とにかく病気になるな、受験生」
「りょーかいですよ」
受験生なのも、病気なんかしてられないのも本当なので、仕方なくうなずいておく。
それから笑ってみせて、一歩下がった。帰るよ、という合図だ。
コーヘーが少しほっとしたような顔をしたことには気づかないフリをした。
ついでに、カレンダーに書かれた言葉の意味にも。
そんなことばかり上手になっていくような気がする。
じゃあねって、コーヘーとウサミとリュウイチに手を振って、家を出た。
――裸足で来てもいいって言うくせに、風邪はひくな、って言う。
それって、もう来るなって意味?
戸を閉めるその瞬間だけ疑問を投げかけたけど、パタンと閉じた戸が疑問も返答も遮った気がした。
どんどん下がっていく気温に雪の気配を感じて、あたしはおばあちゃん家への道を急いだ。
「もうびっくりしちゃったよ。ジョシチューガクセーだよ、中学生!」
綾菜は興奮をどう伝えようかと考えつつ、テンション高めにそう言って、テーブルを何回か叩いて見せた。
「はいはい、落ち着け、まず料理を頼め」
向かい側に座る修一は大学の同期で浩平と同じ医者だ。ちなみに綾菜も医師をしている。少し前までは浩平が働いていた大学病院に勤務している。
「うん、じゃあ、これとこれとこれー」
チェーン店の居酒屋のメニューを適当に指す。どれもすごく食べたいものではないが、あって困るものでもない。とりあえずのビールはすでにあるけど、店員が来た時に追加を頼もう。
「ホタテとゴボウとピザね」
修一は店員を呼ぶボタンを押してメニューを開いたまま横に動かし、彩菜を見た。
「で? 浩平の家に女子中学生が来たって?」
なんだかんだ言いながらちゃんと食いついてくるところがエライ、と綾菜は思う。メガネの向こうの目は細められ、困った子を見るような顔をしているのはいただけないが。
「そう!」
ぱん、と再びテーブルを叩く。
「なんか、浩平のお母さんの友達のお孫さんらしいんだけど、手作りのロールケーキとか持ってきたんだよねー」
あの日、彩菜は飲み会の後の宿泊所として浩平の家を使っていた。昼過ぎまで寝て、ようやく目が覚めたのが、呼び鈴の音がした時で、ごそごそ這い出してみると、犬を抱いて部屋から出ようとしている浩平と会ったのだ。
耳を澄ましていると、何やら楽しそうな会話が聞こえてくる。友人として長い期間を過ごしているが、初めて聞くような声の調子に綾菜は驚いた。
『もう帰れ』なんて言ったくせにまだ少し話してようやく戻ってきた友人は、大切そうに抱っこした犬を寝床に下して、コタツの上に置いてあった紙袋を手に台所へ移動していった。
その瞬間、彩菜はピンと来た。
がばっと立ち上がり、ねえねえ何それ、さっき声がしてた女の子から貰ったの?見せて見せて、と大騒ぎする。
浩平は困ったような顔をして、ロールケーキだよ、と言った。そして春に熱を出した中学生を家まで送り届けたことを告げ、多分その時のお礼だと答えた。女の子のお祖母さんが、とても美味しいロールケーキを作るから、おそらくそれだろう、と。
食べたい食べたいと騒いで食べさせてもらったら、それはとても美味しいロールケーキだった。手作りと言われたら確かにそうだけど、売り物だと言われても信じてしまいそうなくらいの完成度の高さ。うっとりと余韻を味わっていたら、一口食べた浩平が手で口元を覆うようにして、「あー」と呻いていた。
「その瞬間、これは恋だと確信したね!」
一通りあったことを説明して、彩菜は胸を張った。
だが修一は可哀相な子を見るような目をしてため息をついた。
「…まあ、言いたいことは沢山あるけどさ、一つ大事なことを忘れてない? 浩平いくつだと思ってるのさ」
「同い年だからー、ハタチー?」
手を頬に当ててそんなふうに答える綾菜に修一はため息をつく。
「うんうん、俺も同い年だから三十歳って知ってるけどね、ハタチだって言い張るならそれでいいよ」
「わーい、やったー!」
「……じゃなくてさ、さすがに年齢差があり過ぎだろう?」
「修一って、こういう時に見捨てないでいてくれるから、大好きー。それよそれ!」
綾菜は身を乗り出す。
「多分、浩平は無自覚ね。結局私は夕方には帰ったんだけど、帰りにカレンダーが目に入ってね、そこに、『この家に来るのに みくだけは はだしでよし!』なんて書いてあるのよ。あれは、無意識に遠ざけようとしてるんだわ」
それを聞いて修一は少しほっとしたような顔になる。
「なんでそれで遠ざけようとしていることになるのかは判らないけど、それが本当なら少し安心だ」
「だってねだってね!」
そこで綾菜は浩平が言っていた言葉を披露する。――クソ寒い中裸足になって風邪をひく云々、だ。ついでにしっかり聞き出したそこまでの浩平と「みく」ちゃんとの馴初めも。
「なるほどねえ。そりゃ、無自覚かもしれないけど」
修一は友人を思い出す。大学時代からの付き合いだから、過去付き合っていた女性がどんな相手だったかも知っている。少なくともロリコンではなかったはずだ。だから俄かには綾菜の言葉は信じられなかったのだが、浩平の女の好みを知っているのは目の前の友人も同じで、その彼女が言うのだから、ある程度信用できるのかもしれない。
だが。
「おまえはそれでいいわけ?」
そう言うと、彩菜は一瞬驚いた顔をしてから、苦笑してみせた。
「あれを見ちゃったらね、応援したいなって思っちゃったのよ」