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その家は、海と住宅街を隔てる松林の近くにあった。
広くて何も植わってない庭に建っている家は、古い建物で、庭に面して縁側があった。
そこに住んでいるのがコーヘーで、他に住んでるのは、犬と猫だった。
あと、玄関の壁に大きな一枚のカレンダーに、
この家に来るのに みくだけは はだしでよし!
と書かれていた。
その日は、おばあちゃん家に泊まりにいってた時で、暇で暇でしかたなかった時だった。
おばあちゃん家は、我が家から十キロほど離れた町にあって、何年か前におじいちゃんに先立たれて一人で暮らしていた。お母さんのお母さん……つまり、お母さんの実家だ。
一人娘のお母さんは、心配で休みの度に顔を出していて、夏休みとか冬休みなんかの長期の休みの時には、あたしが数日泊まりに行くことになっていた。
だからあれは春休みのことだった。
よく泊まりにいくと言っても、知り合いがおばあちゃん以外にいるわけではないけど、朝と昼と夜の間は家にいて一緒にごはんを食べるけど、それ以外は自由に過ごしていた。本を読んだり、おばあちゃんに編み物や料理やお菓子作りを教えてもらったり、ごろごろテレビをみたり、ぼーっとしたり、海やそのへんをふらふら歩いたり。
あの日は裸足で歩けたくらいだから、少なくとも冬ではなかった。あたしが行くのは春と夏と冬しかないし。
ふらっと歩いて松林を抜けて砂浜に出て、波打ち際の桜貝を拾っていたら、油断して波が足にかかってしまってずぶ濡れになってしまった。スニーカーはたぷたぷで、ぐじゅぐじゅで、歩くと気持ち悪くて、春の日差しの暖かさに唆されて、あたしは、つい、靴を脱いでしまった。……これが失敗だった。
どうせ濡れたのだからと、裸足で冷たい波の中をじゃばじゃば歩いてたら(さすがにジーパンの裾は折って濡れないようにした)、そのうち痺れるように冷えてきて、はたと気づいた。あるのは、濡れた靴とくつしたで、ハンカチも持ってない。海水に浸かっている時は付いてない砂も、一歩砂地を歩きだせばついてくる。冷たいのを我慢して靴を履くとしても、砂がついたまま、というのはちょっとイヤだ。
少し考えて、そのまま歩くことにした。太陽にさらされて砂は温かい。歩いているうちに、足も乾いてくるし、温まるし、砂も落ちるだろうと思ったのだ。
その考えはだいたい合ってたけど、予想外だったのは、松林の地面の痛さと、アスファルト舗装の道の小石の痛さだ。それでもそのままおばあちゃん家まで裸足で歩いて帰ろうと思うくらいには、イケナイことをしているみたいでちょっとワクワクしていた。
だいたいの方向を考えながら道を曲がって歩いて居ると、腰くらいの高さの低い塀に猫が寝ていた。白地に茶ブチの美猫さんだ。
「にゃ」
挨拶をしてみると、目を開けてこちらを見た。そっと手を出してみると、立ち上がって地面に着地。あたしの足に体をこすりつけるようにしてくる。なかなか人懐っこい子のようだ。調子にのってしゃがんで撫でくりまわすとそのうち腹を撫でろと横になる。
「おー、ダイタンな子だねー」
ガシガシと撫でると気持ちよさそうに、今度はこっち、今度はあっち、と体をよじる。
「うむうむ。苦しゅうない、苦しゅうない」
そんなふうに真剣に撫でまわしてたので、人が近づいてきていることに気付かなかった。
「猫タラシがいる…」
突然の声にホントはすごく驚いたのだけど、急に動くと猫がびっくりすると思って我慢して、ゆっくり振り返った。両手にスーパーの袋を持っている男がいた。
「トラミがそこまでデレデレになるのは珍しい」
「この子、――あなたの猫さん?」
おじさん、と呼ぼうとして、もしかしてお兄さんなのかもしれないと考えなおして、迷った末、どちらもやめた。最近、ビミョーなお年頃の人が増えてなかなか大変なのだ。
「そ。寅年にうちに来た三番目だからトラミ。――おまえ、裸足って――ああ、濡れたのか。近くの子か? 見慣れないけど」
言いながらあたしの靴に気付いたようだった。少し難しい顔になる。
「おばあちゃん家に来てて」
「ああ、なるほど。――トラミをかまってくれたお礼に、お茶淹れるよ」
「え」
男はその低い塀に沿って歩いていって、塀が切れたところで中の拾い庭に入っていった。
裸足で外を歩くようなことをしても、知らない男にくっついて行くようなことが良くないことは判っている。困って立ち止まっていると、男は振り返った。
「家の中には入れないから。そっちの縁側。この塀は低いし、通りすがりの人にも見える。ついでに言えば俺は医者だ。この裏手にある高橋医院で働いてる。今日は休み。ご近所さんのウケもまあまあ」
まあまあ、という言葉に笑ってしまう。何故だかそれが信じられるような気がして、ついていくことにした。
男は高橋コーヘーと名乗った。漢字は判らない。タカハシは、高橋医院なら、高橋で合ってると思う。
あたしは、みく、とだけ名乗った。用心しているのがバレバレで、コーヘーは少し笑って、縁側に座るように言って、あたしの靴を持って家の中に入っていった。塀の切れ目は小さな柱が立っていて、実は門になっているようだった。そこからまっすぐ行ったところが玄関で、コーヘーが入っていったのはそっちだ。
あたしは、踏み台みたいな石に乗ってから縁側に座って、そのまま足をぷらぷらさせる。
なんにもない庭だった。
植木もなければ芝もない。
道との境界に背の低い塀があるだけで、道の向こうはすぐ松林だ。
なんていうか、ちょっと変わってる感じがした。
しばらく庭を眺めていたら、コーヘーがマグカップを持ってきた。
「ホットミルク、はちみつ入り。……で、みくは中学生?」
コーヘーはあたしにカップを渡すと自分のカップを床板の上に置いて、置きっぱなしのサンダルをつっかけて靴を犬走りの上に置いた。靴の中には丸めた新聞紙が詰まっている。それから縁側に上って腰を下すと胡坐をかいた。自分の分にはコーヒーが入っているようだった。
小さくうなずいて中学生だと肯定して、カップに口をつけると、牛乳そのものの甘さとはちみつのかおりが口の中に広がった。
「チューボーか。春休みにおばあちゃん家に遊びに?」
少し考えて首を横に振る。
「親の自己満足の手助け」
短く言うとコーヘーは吹き出した。
「春休みと夏休みと冬休みにはいつも来てるの。おばあちゃんに大変じゃない?って訊いたら全然って答えてくれたけど、おばあちゃん、気ままな一人暮らしなの。友達もいるし、自立しててカッコイイの。でもお母さんは心配してるの」
「まあ、娘さんとしては心配なんだろうな。みくのお祖母ちゃんて、いくつよ?」
訊かれて考えてみる。
「……六十五、くらいかな?」
「……わ、うちのおふくろと同じくらいかよ。まあ、トシヨリには見えんかもな。でも、そろそろあちこちにガタが来ててもおかしくない年齢だから、お母さんも心配してるんだろ?」
「……って、おばあちゃんも言って笑ってた」
「でも、みくは迷惑なんじゃないかって、思ってる」
肯くとコーヘーは笑った。
「ま、仕方ないわな」
そう言って、少し真剣な目であたしを見た。
「足、冷たくないか?」
訊かれて、足に意識を向けてみる。
「大丈夫、冷たくない」
ホットミルクは温かいし、お日さまもぽかぽかだ。
「ちょっと待ってな」
言うと立ち上がって障子を開けて奥に入っていく。入れ替わるように黒猫がやってきた。
黒猫は、じっとあたしを見上げると、なんだか当たり前のように膝の上に乗ってきて、丸くなった。
「お、ネズイチか。……ちょっと熱、測って」
子年の一番目、なのかなって、体温計を受け取りながら考える。
「熱、ないよ?」
「一応な」
何故だか、有無を言わせない調子に従ってしまう。
ごそごそと体温計を脇に挟むと、コーヘーはまた座った。
「猫さん、何匹いるの?」
「五匹。さっきのトラミと、こいつと、トラジと、イノイチ、イノジ。そのほかに、犬が二匹。リュウイチとウサミ」
「犬もいるの? ケンカしないの?」
「しないよ。だいたい、本気出したら猫のほうが強いし、うちの場合」
「へえ~」
ネズイチはいつの間にかゴロゴロ言っていた。
「本当に、猫タラシだな」
コーヘーがおかしそうに笑ったところで、体温計がピッと鳴った。
取り出すと、三十七度一分。
「あれ?」
手を出されたので渡しながら首を傾げた。
「こりゃあ、上がるな。ネズイチ、正解だ」
コーヘーは立ち上がった。
「リュウ!」
庭に向かって声を張ると、どこからともなく黒と白の犬が走ってきた。どこかで見たような犬種だ。
「留守番頼む。みく、家まで送る」
「え、いいよ」
「靴、まだ乾いてないだろ。あんなもん履いたら体が冷える」
ちょっと待ってな、と言ってまた障子を開けて中に入っていく。残されたあたしとリュウイチは目を見合わせた。留守番って言われた瞬間に、リュウイチはフセの姿勢になっている。
しばらくして、軽自動車がだだっ広い庭を走ってきた。
リュウイチの少し手前で停まって、助手席の後ろのドアを開けてくれる。裸足のまま乗り込むと、濡れた靴と靴下を別々のビニール袋に入れて、足元に置いてドアを閉めてくれた。
右とか左とかまっすぐとか言っているうちに、おばあちゃん家に着いた。
「山根さん家か」
コーヘーが呟いたような気がしたけど、その頃にはあたしはぼうっとしてて、よく覚えてなかった。
車が停まったらおばあちゃんが出てきて、コーヘーが挨拶してなんか話してて、気が付いたら着替えてお布団の中にいた。
家知られるんなら、名字言っとけばよかったって、寝る一瞬前にちょこっとだけ思った。
浩平はまっすぐ家に帰らずに、実家のほうに寄ることにした。といっても、実家の裏にある元祖父母の家を多少改築して一人暮らししてるだけで、しょっちゅう実家に寄るし、なにより仕事場でもある。だから珍しいわけではないのに、玄関から当たり前のように入ってくる息子を、彼の母は驚いた顔で見つめた。
「今日は誰も泊まらないの」
「泊まる方がめずらしいだろ」
イヤミもいいとこだ、と思いつつ、伝えておかねばならないことがあるのでさっさと話を変える。
「さっき、山根さんのお宅に、お孫さんを送って行ったんだよ」
「山根さん? さとちゃん?」
「そう。おふくろ友達だろ? 今、お孫さんが泊まりにきてるんだってさ。その子が裸足で歩いててうちの猫をかまってて」
「ああ、未来ちゃんね。確か今年中三よ」
「え、中三?!」
「ちょっと、まさかあんた手を出したんじゃないわよね?」
「ちがうよ、逆だよ! てっきり小学生かなって思ったんだけど、用心して中学生って訊いてよかったー」
子供はちょっとしたことで傷ついてしまってメンドクサイ。
「で、その未来ちゃんがどうしたの」
「なんか、海を歩いてて濡れて、そのまましばらく足濡らして歩いてたらしいんだけど、靴履くのがイヤだったみたいで裸足だったんだよ。で、トラミかまってて、見たら唇紫だし。ホットミルク飲ませて様子みてたんだけどなんか熱っぽい様子だったから熱計らせて三十七度あったから送ってきたとこ。一応山根さんには事情を説明して、葛根湯渡しておいたんで大丈夫だとは思うけどね」
「ああ、なるほどねえ。可津美ちゃんの心配も判るけど、友達もいないところに何日も放置されててもね、暇だわよね」
可津美というのが未来の母親の名前だ。浩平は未来から聞いた事情と合わせて考えて小さく肩をすくめた。