犬も食わないような話
「……かなくん、有り得ない」
「作ちゃんも有り得ないから」
両親が何故かリビングで睨み合っていた。
先に口を開いた母の片手には、マグカップが握られており、白い湯気が上がっている。
次に口を開いた父は、温和なはずが、珍しく険しい顔して新聞紙を握り締めていた。
一体何があったのか、未だに新婚気分でラブラブ、というわけではないが、こんな風に睨み合っているのを見るのは初めてだ。
飲み物を取りに来ただけなのだが、リビングと廊下の境界線で足を止め、首の後ろを摩る。
腰まで伸ばした長い髪に、表情筋の死んだ無表情で、黒シャツに白いパンツ姿の母は、正直に言って威圧的だ。
反して父は白シャツにレモン色のカーディガンで、グレーのパンツを履いており、眉を寄せるだけ。
大黒柱たる父よりも母の方が、うん、と首を捻っておく。
「えぇ、喧嘩してるの?珍しい」
「俺ら仕事しに来たんだけど」
「久し振りね、永遠。鍵はちゃんと閉めるようにした方が良いわ」
どうしたものか、と思っていると聞き覚えのある声が背後から響いた。
驚いて振り返った先には、母の幼馴染みが三人も揃っており、三者三様の反応をしている。
珍しいと言ったMIOさんは、短く切り揃えてられた赤い髪を揺らしながら笑い、仕事をしに来たと言うオミさんは、面倒そうに溜息を吐いていた。
文さんは、私の頭に手を置いて、鍵が開いていたことを教えてくれる。
「それで、あの二人は何で喧嘩してるの」
癖のある髪を掻き上げながらの文さんの問い掛けに、あぁ、と呟きながら視線を逸らす。
三人の登場に気付かない両親は、睨み合ったまま動かない。
二人に聞く気にもなれずに、分かりません、と首を振る他なかった。
すると、仕方ないわね、と納得した文さんとは別に、オミさんが足を踏み出す。
反射的に道を開ければ、来客用のスリッパでフローリングを叩き、両親に近付く。
そうして、二人が気付くよりも早く、二人の距離を離した。
ずるり、母の黒シャツが後ろから引き寄せられ、持っていたマグカップの中身が少量、フローリングに溢れるのが分かる。
二人の目が同じタイミングで開かれ、閉じられ、数回の瞬きをした。
「あー、オミくん?」
「オミくん?じゃねぇよ。お前、装丁の仕事依頼した癖に何してんだよ」
襟首を掴んだままの状態で、オミさんが母を見下ろしながら目を細める。
声も低いのに母はケロリとしており、表情を変えることなく壁に掛けられた時計を見ていた。
すると私の横からMIOさんが挙手をして、自分も仕事で来たことを告げる。
それに反応したのは母ではなく父だったが。
母と同じように時計を見ている。
二人共仕事が控えていたらしい。
「私は装丁じゃなくて、個展だけどね」
二人でやるから展覧会かな、と笑うMIOさん。
聞いてみると、オミさんは母の新しい小説の装丁をするらしく、MIOさんは父と絵と写真の展覧会をするらしい。
どれも聞いていなかった話なので、自然と瞬きの回数が増えてしまった。
私の頭に手を置いたままの文さんは、良い珈琲豆を手に入れたから届けに来たらしい。
その言葉に逆の手を見れば、パンパンに膨らんだ紙袋が収まっている。
「仕事前にアンタら、娘の前で恥ずかしくないの」
私の髪を梳きながらの言葉に、流石の母も眉を寄せ、無表情を崩した。
父も眉を下げて首を傾ける。
顔を見合わせた両親は何故か私を見て、ますますその顔を歪めていく。
「だって前髪切ったの嫌だって言う」
は、私と文さん達四人の声が重なった。
父以外の目が母に向けられ、持ち上げられた前髪に突き刺さる。
真っ黒なその前髪は、目に軽く掛かるか掛からないかのラインで切り揃えられ、右へと流されていた。
確かに普段顔を覆い隠すくらいには長い前髪だった母からすると、短くなっている。
しかし、だから何だというのだ。
これは、私以外も思ったことであろう。
流石のMIOさんも笑顔が消えている。
「作ちゃんの可愛い顔が露骨に出されるなんて……しかも女の子にとって髪の毛は命で……」
「もう女の子って歳じゃないわよ」
整った顔を歪めながら、鋭い指摘をした文さんは、深い深い溜息を落とす。
持っていた紙袋の中身が、ザラザラと音を立てる。
父は真剣で、母も多分真剣だが、私も文さんもオミさんもMIOさんも、何言ってんだコイツら、というのが正直な心情だ。
母は母で私達の表情の変化を見ていたはずなのに、ボクの髪はボクの意思で切る、なんて主張をしている。
それは決して間違いではないのだが、そんなことか、という気持ちが先走る私達にはどうでもいいことなのは言うまでもない。
言い合いを再開した両親を尻目に、私は当初の目的である飲み物を取りに行くことにする。
それに付いてきた文さんは、一緒に珈琲飲みましょう、と紙袋を持ち上げた。
合わせて、MIOさんとオミさんも自分もという意思を示す。
四人分のスリッパの音を響かせ、キッチンへ向かう間も、両親の犬も食わない口論が続けられる。
文さんが珈琲豆を挽くために器材を取り出している間に、マグカップを取り出した私。
「どんなボクでも好きって言ったくせに!」
「うわっ……」
母の言葉にマグカップが落ちる。
床にぶつかったマグカップは、粉々になって、オミさんが慌てて私に駆け寄ってくれた。
俺がやるから、という言葉と「好きだよ!」という父の意味不明な告白は同時。
私達四人は顔を見合わせて、同じように眉を寄せる。
全員の眉間にシワが深く刻まれて、キッチンから両親を見て「爆ぜればいいのに」と吐き捨てた。
皆、同じ気持ちだったので、何も言うことはない。
それ以降、両親の存在を目に入れることもなく、珈琲を用意する。
夫婦喧嘩は犬も食わない、誰かが呟いた言葉はキッチンに小さく響くのだった。