第56話
キッチンではうちの母親が口から噴き出してまき散らしたコーヒーをみんなそれぞれティッシュや雑巾、布巾でテーブルの上や下を無言で片づけているところだ。
うちの母親もあの炭酸コーヒーの味にびっくりしたのか目が点になって呆然と立ち尽くしている。
そんな呆然としているうちの母親が再び恐怖の表情に変わった。何事かと思えば美祢が普通のコーヒーをコップに注いでいたのだが、どうやら炭酸コーヒーは母親にトラウマを植え付けてしまったようだ。コーヒーを見た恐怖で震えるうちの母親に烏丸先輩が緑茶を差し出し落ち着かせている。美祢はというと拒否されたコーヒーを自分で飲むことにしたらしくリビングのテレビの前を陣取っている。
部室の時の炭酸コーヒーはみんなで笑いあって面白がったがうちの母親が思った以上にダイレクトな反応をして、さらに放心状態になってしまったので誰も笑えない状況になってしまっている。
そんな変な空気が漂う城野家のキッチンで一人淡々と文化祭の準備を進めているのは桃花先輩だ。ゲテモノ飲料の次はきちんとした料理を準備しているように見える。それはそれは手際よく進めている。
無言のキッチンで行われていた掃除はあっという間に終わったようで、逆にみんなが手持無沙汰になり始めていた。きっとこの変な空間では掃除をしている方がまだ心地いいのかもしれない。
美祢はテレビの前に座ったままずっとこちらの様子を眺めている。
美祢も気持ち悪いくらい黙ったままだ。
こういう時の美祢は余計なことを考えていることが多くて嫌な予感しかしない。過去の実績から見てもきっと変なことを考えなしに思いついて言い出すか、突然行動に移しかねない。
そして今回は後者のほうだった。
ゆらりとテレビの前から立ち上がると全員の視線を集めた。
全員が黙ったまま美祢の行動を見守る。
「おねーちゃん。ちょっとこれ貸してもらってもいい?」
そう言って美祢が指差したのは先程の炭酸コーヒーを生み出した悪魔の炭酸の機械だ。普通に使えばだだ炭酸を作るだけの機械なのだろうが旅行部はこれを悪魔の機械にしてしまった。
美祢はいったいこれで何をするつもりなのか? すでに炭酸コーヒーを作り出す実験は成功している。
「この中に飲み物を入れてセットすると炭酸になるの?」
「そ、そうですけど彩耶乃は何をするつもりなのかしら?」
桃花先輩の顔も若干ひきつっているように見えるので何か悪い予感はしているのだろう。
俺も先輩と同じようにこの状況だと嫌な予感しかしない。
その嫌な予感をさらに増長させたのが美祢の顔だ。もう嬉しさ爆発といった感じで緩みきったその顔だ。
「あのね! ちょっと思いついたの!」
その声はいつもよりも声が大きくて……大きいというよりも圧力があるような早口だった。やはりテンションが高いのだろう。そう言いながら美祢は冷蔵庫の中をのぞき始めた。
何故美祢がそんなにも嬉しそうなのかはわからないのだが、その嬉しそうな姿が怖い。
俺も含めてこの場にいる全員が美祢のことを不安な表情で見つめている。まさに固唾をのんで見守るという形だ。
美祢が冷蔵庫から取り出したのは牛乳だ。その牛乳を高々と掲げて満面の笑みのまま、いや満足そうな顔はパワーアップしているように見えた。
美祢と目が合ったのだけどあのニヤッとした顔をみて何がしたいのか何となくわかってしまってなぜか悲しくなった。いや、別に目が合ったからといって分かったわけじゃないのだけれど冷蔵庫から牛乳を取り出した時点で何となくは察しがついていた。
美祢はずっと嬉しそうにしながら桃花先輩に確認して、手際よくとはいかなくても順調に先輩の真似をしていた。そしてセットされたペットボトルの中で牛乳が炭酸になっていた。
「ねぇ、これって誰が味見するのよ?」
烏丸先輩から直球の質問だ。誰かが味見をする展開になるようだ。
「とりあえずゆかちゃんが味見をするのは決定ですわ。しかしゆかちゃんの味見はあまり当てにならないので……さて誰が味見しましょうかしら?」
桃花先輩は周りをゆっくりと見渡しながら喋っていた。一番怯えていたのは味見が確定していたゆかり先輩。だけどゆかり先輩はきっと『あっ美味しい!』とか言っちゃうんだろうな。
見渡していた桃花先輩の視点が一点に固定されているのに気が付いた。なるほどこれだったらみんな納得だろう。俺は一瞬でも『じゃあノブくんですわ』なんて言い出すんだろきっと、と思ってたので頭の中でそっと先輩のごめんなさいをした。
先輩にロックオンされていた人物の顔が満面の笑みからだんだん引きつっていくのが分かった。
引きつっていくということは作った本人もこれがヤバイ飲み物っていうのは理解しているようだ。
「ねぇ……おねぇちゃん……まじ?」
恐る恐る聞いているのだけれど桃花先輩は美祢を見つめたまま微動だにしない。視線はずっとロックオンしたままだ。
桃花先輩の視線の圧力に負けたのか、美祢がロボットのようなぎこちない動きでコップに炭酸牛乳を注ぎ始めた。
コップに注がれた白い液体からシュワシュワと泡立っているのが異様な光景に見える。これは先ほど冷蔵庫の中に入ってた時までは間違いなく牛乳だったものだ。
コップに炭酸牛乳を注ぎ終わった美祢は一息ついて桃花先輩を見つめた。桃花先輩はずっと美祢をロックオンしたまままだ。
観念したのか恐る恐るコップを口に持っていき炭酸牛乳を口に入れていく。半分ほど口の中に入れた後美祢が固まる。感想も何も言わずにただ無言で固まってしまった。
そしてそのまま口の中に入っていた炭酸牛乳を噴き出した。ものすごい勢いで。
うちの母親は腹を抱えて笑っているが旅行部メンバーは笑えない状況になっている。というかどうしてこうなったんだ?
そして一人で怯えているのはこの後飲むことが確定しているゆかり先輩だ。でもゆかり先輩は大丈夫だと思うんだけどな。
目に涙をためて桃花先輩を見つめている姿はどこかのCMに出ていた小型犬を思い出させる。
ゆかり先輩に気を取られていると美祢が再び炭酸牛乳をコップに注いでいる。コイツなんてことしてるんだ!
美祢のことだから誰かに無理やり飲ませるのだろうと考えた。そしてきっと俺の確率が高そうだと思い身構えると同じようにベガも身構えていた。
だが美祢は誰かに飲ませるようなことはしなかった。
そう、再び自分の口に運びやっぱり無言で固まった後にやっぱり噴き出した。
「あはははー」
高らかな笑いを挙げながら冷蔵庫に向かう。テーブルの上は美祢の噴き出した牛乳まみれだ。
今度は美祢が麦茶を炭酸にし始めた。
美祢が麦茶を炭酸にしてる途中にこっそりすみで炭酸牛乳を飲んでいるゆかり先輩が見えてしまった。怯えていたけど気にはなっていたのだろう。
「あれ? 美祢ちゃんそんなに噴き出すほど不味くないよ?」
みんなは知ってたような微妙な表情を浮かべる。うん。みんなゆかり先輩はそう言うだろうなって知ってましたよ。
その間に美祢は炭酸牛乳を完成させていた。
そして桃花先輩が牛乳を冷蔵庫から取り出した時のような顔をしている。きっとダメなことを思いいたのだろう。
「これですわ! わたくしたちは何でも炭酸屋をすることにしますわ! これで盛り上がること間違いなしですわ!」
一人で嬉しそうに拍手をしているのはゆかり先輩だ。ゆかり先輩は味音痴ですよね? もしかしてすごく低い確率でただ炭酸が好きなだけだったりしますか?
盛り上がってるゆかり先輩とは対照的に微妙なテンションになっていく旅行部の面々。
案の定いろんな炭酸を飲み、あまりの不味さに変な空気になる旅行部メンバーとうちの母親。というかなんでうちの母親はノリノリで味見に参加してるのか。人が不味そうにしているのを見ているときは腹を抱えて笑い、直後にゆかり先輩が同じものを飲み美味しいというのが一番のツボらしい。
そして地獄絵図となったうちの家のキッチン。牛乳の臭いって結構強烈で充満している。
今日一番平和だったのはきっと今現在も何も知らない日田先輩だろうな。
読んでいただきましてありがとうございます。
期間が開きすぎてしまってすみません。もういろいろあって9月はもうなんだこりゃーって感じになってました。いや、進行形でなってます。
文化祭の準備でどんだけ時間かかるんだよって感じですが文化祭の本番もいろいろ書きたいですはい。
ではまた次回。。。




