銭湯のおもひで
「あら、ナオちゃんいらっしゃい。よく来たわね。」
そう言って家のドアを開けて出迎えてくれたのは千恵子叔母さんだった。
おじいちゃん家といっても、田舎にあるような広々とした家ではなく、
築何年か分からないコンクリート壁の染みとひび割れが目立つ
古びた公営住宅の団地の一室におじいちゃんとその娘二人と三人でひっそりと暮らしている。
「お邪魔しまーす。」
「ささ、中に入って」と促され、すばやくかかとを跳ね上げ、靴を脱ぎ捨てる。
一メートルも満たない廊下を抜け、奥の部屋へ向かうと
もう一人のおばちゃんが掛け布団のないコタツに座りながらテレビを見ていた。
「キコおばちゃん、こんにちわー。」
「ナオちゃん、よく来たね~。」
隣に座って挨拶をすると嬉しそうな顔で頭を撫でてくれたのが
もう一人の叔母である清子叔母さんだった。
昔から身体が弱く、入院しているか、隣の部屋で寝ていることが多いのだけど、
今日は元気そうで少し安心した。
早速、机に置かれたお菓子に手を出すと、
ここの家主であるおじいちゃんがいないことに気づいた。
「モグモグ・・・あれ・・・?そういえば、おじいちゃんは?」
「ああ、おじいちゃんは今銭湯に行ってるよ~。ナオちゃんも後で入りにいっといで。」
「うん、わかったー!」
おじいちゃんの家に来ると楽しみはいくつかあるが、その一つが銭湯である。
古びた公営住宅とはいっても、部屋は台所入れて四つもあり、
実はガスのお風呂もついている。
ただ、物凄く小さいので腰の悪いおじいちゃんはもとより、
おばちゃん達も使っていない。そのせいもあり、皆、毎日銭湯通いをしている。
そのせいもあっておじいちゃんの家に泊まるたびに銭湯に行くのだが、
普段、家の狭い風呂で足を折り曲げながら浸かる狭いお船とは違い、
泳ぐことすら出来るお湯のプールは開放感のある格別な空間であり、
子供にとっては特別なアトラクションでもあった。
「あ、そうだ。お線香。」
畳から台所のフローリングを抜け、再びに畳の部屋に入る。
隣の部屋は六畳の和室の隅に置いてある座布団に座り、上を見上げる。
もう二年前になるだろうか、自分が小学校の入学する前に
亡くなったおばあちゃんの遺影が飾られていた。
仏壇の引き出しを開けるとそこにはいつもどおり、"青雲"の箱がしまってある。
一本だけ取り出してすぐ近くに置いてあった百円ライターを使って火をつけるも
なかなか火がつかずに悪戦苦闘する。
フリント式のライターは手が痛くなるので正直、好きではない。
最初はマッチを使っていたのだが、いつの間にかライターに変わっていた
小学生低学年でライターを扱うなんて正直どうかと思ったが、
この家では線香を一人で焚かなければいけないので
お線香を焚くために仕方なくライターの使い方も覚えた。
やっとついた、炎と線香の先を重ねる。
──1・2・3・・・
心の中で数えたタイミングと共に、線香の先が赤く燃え上がる。
左右に散らすように炎を落ち着かせると、ゆっくりと煙が舞い、
先っぽが緑を燃やすように染め上がる。
その様子を綺麗だなと思うと同時に煙が目と鼻を刺激し、
慌てて、香炉に突き刺す。
何度もやっていることとはいえ、やっぱり煙は苦手だ。
ゆっくりと手を合わせると、何に祈るか分からないが、
目を瞑って仏壇の前で沈黙を保つ。
正直、おばあちゃんのことは記憶がない。
ただ、唯一覚えている事は今自分が使っているランドセルは
おばあちゃんが小学校に入学する際にプレゼントしてくれたものであるということだけである。
「ふー・・・。はい、おしまい!」
「パン!パン!」と手をはたくと、慣れない正座を崩して、再び遺影をじーっと凝視する。
「うーん、やっぱり笑っているようにみえるなぁ~。」
孫が来て喜んでくれたのか、おばあちゃんの遺影は少し笑っているように見えた。
***
「いってきまぁーす!」
黄色のケロリン桶を抱えながら、軽快に扉を開けて外へ飛び出す。
持って行くものはとても少ない。
バスタオル、ハンドタオル、せっけん、そして替えのパンツ。
それと銭湯代の三百円は千恵子おばちゃんからバッチリもらって握りこんでいる。
団地から「ニュー松の湯」までは子供の足でも五分程度である。
大きな煙突を目印に軽快なステップで銭湯まで向かう。
銭湯のある通りは商店街でもあり、
綺麗に整備されたコンクリートの道路の側面には
八百屋、お肉屋、魚屋、ありとあらゆる商店が立ち並んでいる。
丁度、夕食時で買い物に来ているお客さんでごったがえしており、
車の通りも結構あるものの、買い物に来たおばちゃん達は
道路の中央を堂々と自転車で突っ走っているせいで
クラクションがそこらで鳴り響き、賑やかな雰囲気になっていた。
ここら一帯は下町に属するので高いビルがあるわけではないが、
やっぱり自分が住んでいる風景とは少し違う。
畑や田んぼがないのが大きな理由なせいもあるが、
やっぱり人通りが多いのが何よりも大きいのかも知れない。
そんな普段見ない景色を楽しみながら、あっと言う間に「ニュー松の湯」に着いた。
古びた中華料理やと怪しい質屋に挟まれているので
まったく迷うことはないものの、見た目は"ニュー"とは程遠く、看板もぼろい。
しかし、入り口近くには"ニュー"という名に相応しい張り紙があった。
「ニュー松の湯が新規オープン!」
「電子風呂」
「岩盤浴」
「水風呂」
「ジェット風呂」
「ミストサウナ」
「がお楽しみ頂けます!」
その文字を目にした瞬間、
おおよそ下町の銭湯には似つかわしくないハイテク要素ふんだんの名称にワクワクしながら、
「湯」と書かれた暖簾をくぐった。