戦その漆 真一、パンサーと話す
Z県立鮒津高等学校の英語教師である津野原那菜世は、養護教諭である笹翠茉莉に敵対心を抱いている。
それが故に、彼女に必要以上に接近していると思われる一年三組の赤井真一の行動は気がかりであった。
(赤井真一は、個人的に笹翠先生と付き合っているのかしら? ますます問題だわ)
那菜世の妄想はすでに暴走の域に達しており、茉莉と真一は道ならぬ恋に身をやつしている不埒な存在になっていた。
(職員会議にかけて、糾弾してあげるわ)
那菜世はニヤリとして廊下を歩き、職員室に向かった。
二時間目の英語の授業が終わり、真一はぐったりしていたが、思いを寄せている茉莉の頼みを成し遂げようと奮起し、クラスメートの男子達が絡んで来る前に教室を脱出していた。
(津野原先生、今日は妙に僕を指名して来たけど、何があったのだろう?)
真一は那菜世に茉莉との「逆援交」を疑われているとは夢にも思っていない。それどころか、
(まさか、津野原先生、僕に気があるのか?)
真一も、妄想を暴走させ始めていた。
(例えそうであろうと、僕は笹翠先生を裏切ったりしない)
すでに茉莉との交際を前提で妄想している時点で、真一の方が那菜世より重症であった。
そんな事を考えているうちに、真一は一年五組の教室の前に来ていた。
「赤井君」
すると、一人の女子が真一に声をかけて来た。
「はい?」
真一は声の主の方を見た。それは、ついさっき、真一が話をした村崎香織であった。
おかっぱで前髪パッツンで表情が暗い香織は、男子には人気はなく、女子には気味悪がられているが、実は目が大きくて可愛いのを真一は知っている。
そのため、妙に鼓動が速くなり、顔が火照って来た。
「私とお友達になってくれませんか?」
香織がもじもじしながら言ったので、真一は仰天してしまった。
「ええ?」
真一にはこう聞こえたのだ。
「赤井君、笹翠先生でもなく、津野原先生でもなく、私と付き合ってください」
真一の心は揺れ動いた。
彼の妄想世界の常識で考えると、一番現実的なのは、香織との交際なのだ。
いくら妄想世界でも、学校の先生と交際する事はできないという事に気づいた真一は、
「はい」
顔を紅潮させて応じた。すると、香織もその答えを想定していなかったのか、
「え? ホントに? ホントにホント?」
真一に詰め寄って顔を近づけて尋ねた。
「あ、ああ、ホントだよ」
真一は精一杯の笑顔で言った。
(笹翠先生、僕は村崎さんと交際します。ごめんなさい)
まだ半分以上は妄想世界に支配されている真一である。
「ありがとう。じゃあ、また放課後に保健室で」
香織はニコッとして、教室に戻って行った。
「ほ、保健室?」
いけない妄想をしそうになった真一は、同時に今何をしなければならないのかを思い出し、廊下を歩き出した。
一年六組の廊下に差しかかった頃、真一は一年七組の教室の前の廊下に項垂れて立っている長身の男子に気づいた。
(あれが、黒田パンサー君?)
写真よりも更に濃い顔に一瞬だが、尻込みしそうになった。だが、
(保健室で、村崎さんと再会するためにも!)
自分を奮い立たせるものが変わってしまっていたが、何とか勇気を振り絞って前進を続けた。
「黒田パンサー君、ですね?」
真一は項垂れたままの男子に声をかけた。
「はい?」
その男子は団栗眼をギョロッと動かして、真一を見た。
「ぼ、僕、一年三組の赤井真一って言います」
パンサーは真一が自分をいじめに来た訳ではないと理解できたのか、ホッとした表情になった。
「何でしょうか?」
無理に笑顔を作り、真一に尋ねる。真一はその濃い顔が繰り出すインパクトの強さに泣きそうになったが、
「保健の笹翠先生に頼まれて、伝えに来ました。放課後、保健室に行ってください。笹翠先生が用があるそうです」
どうにか頑張って言い切った。
「え? 笹翠先生が?」
パンサーにはその話の意味が理解できなかった。茉莉とは、昨日、ちょっとだけ話したのが初めてで、それ以外挨拶の他は言葉を交わした事がないからだ。
(何だろう? 一体何の用だろう? いじめられるのかな?)
パンサーは、茉莉と那菜世が男子生徒ばかりではなく、独身の男性教師達の人気を二分している事を知らない。
そして、真一のように茉莉を女性として意識してもいない。
何故なら、彼は生徒会長である明野明星美奈子に思いを寄せているからだ。
当然の事ながら、那菜世には何の感情もない。
「えっと、どういう事でしょうか?」
意味不明なので、パンサーは真一に理由を尋ねた。しかし、真一は、
「僕も何も知らないんです。とにかく、必ず保健室に行ってください。お願いします」
パンサーに頭を下げると、廊下を駆け戻って行った。
「どうすればいいの?」
パンサーは呆然としてその後ろ姿を見ていた。
そして、運命の放課後になった。
真一はクラスメートの男子達が絡みそうになったのを何とか振り切り、廊下を走った。
(村崎さん!)
彼はすでに香織と交際している自分を思い描いていた。症状は悪化していた。
保健室のドアを開けると、茉莉はいず、香織とパンサーが既に来ていた。
香織は部屋の隅っこで窓の外を眺めており、パンサーは香織の存在を聞かされていなかったので、彼女と反対側の部屋の隅っこで項垂れていた。
「あ、赤井君」
二人は同時に真一に気づき、彼を見た。そして、お互いに自分達が待っていたのが真一だと知り、顔を見合わせた。
「すみません、遅くなりました。ところで、笹翠先生は?」
真一はもう一度室内を見渡して、二人に尋ねた。
「私が来た時には、誰もいませんでした」
香織が真一に近づきながら言った。パンサーはまだ香織を警戒しているのか、その場に留まり、
「僕が来た時は、彼女がいただけでした」
「そうですか」
真一は首を傾げた。
(笹翠先生は、今日の放課後って言ったよな? どうしちゃったんだろう?)
その当の茉莉は、校長室にいた。
「笹翠先生、ある男子生徒と頻繁に保健室で会っているというのは、事実ですか?」
黒革張りのソファに、すだれハゲの校長と白髪頭の教頭、そして、那菜世が並んで座っており、その向かいのソファには茉莉が一人で座っている。
「話が生徒個人の事に及びそうでしたので、職員会議ではなく、ここでの聞き取り調査にしました。お答え願えますか?」
神経質そうな細面の教頭が甲高い声で質問した。
「はあ?」
何の事なのかわからない茉莉は、首を傾げて教頭を見た。