戦その壱 屈辱の日々
ボサボサ頭で風采の上がらない赤い縁の眼鏡をかけた小柄な男子は、そのギラついていた目を落ち着かせると、自分のクラスである一年三組の教室に帰って行った。
「おーい、赤井、宿題写しといてくれ」
クラスメートの陰険そのものの顔つきの男子がいきなり強引に肩を組んで来た。
「あ、うん」
赤縁眼鏡の男子、赤井真一は愛想笑いを無理にして、その男子のノートを受け取った。
彼は県立鮒津高校に優秀な成績で合格したのであるが、生来の気の弱さから、いじめっ子の格好の標的となり、毎日のように絡まれ、宿題を代わりにさせられたり、昼休みに購買に並ばされたり、犬の散歩に行かされたり、保育園の送り迎えを任されたりしていた。
「俺達のも頼むぜ、赤井」
更に別の男子がニヤリとして告げた。ふと自分の机の上を見ると、何冊ものノートが山積みにされている。
「数学の矢野、うるさいからさ。ちゃんと俺達の字を真似て、写しといてくれよな」
「あ、うん」
真一はまた歪な笑みを浮かべて、席に着いた。
数学の授業は二時間目にある。それまでに連中のノートに宿題を写すのは時間的に無理である。
一時間目の英語の授業中にこなそうにも、英語の担任の津野原那菜世は授業中、常に生徒の席の間を歩き回るので、不可能である。
だが、こなせなければ、問答無用で理不尽なペナルティを課せられてしまうのだ。
クラス担任に訴えようとした事もあったが、事なかれ主義の象徴のような教師である水森隆治は取り合ってもくれなかった。
しかも、それをいじめっ子連中に知られ、更に別枠でペナルティを課されてしまった。
彼らの幼い弟や妹の世話を押し付けられたのだ。
堪え切れなくなった真一は、思い余って、生徒会に直訴したのだが、
「生徒会は生徒個人の訴えを聞く場ではありません」
けんもほろろに却下された。
「どうしても聞いて欲しければ、役員になってください」
生徒会でも一番下っ端の第二書記の六等星太に鼻で笑われた。
下っ端と言っても、真一より成績は優秀であるので、真一は唇を噛み締めて我慢するしかなかった。
「あいたた……」
あまりにも強く歯軋りしたため、古傷が痛んだ。
真一は中学生の時、不良に絡まれて前歯を三本へし折られた事があるのだ。
前歯は差し歯になったが、それでも依然として疼く時がある。
歯を折られたのも痛かったが、それ以上痛かったのが、近所でも有名な藪の歯医者の治療だった。
だから、真一は未だに歯医者が苦手で、「はいしゃ」という音も苦手である。
(嫌な事を思い出してしまった)
真一は疼き出した前歯を押さえた。
「どうした、赤井? 具合が悪いのか? 保健室で休めよ」
先程の陰険な男子がニヤリとして言い、真一にノートの束を突き出し、
「津野原先生には俺から言っとくからさ」
右の口角を吊り上げ、陰険さを増した顔で言う。
「あ、うん」
真一は何の抵抗もせずにノートを受け取ると、追い出されるように教室を後にした。
「またなの、赤井君?」
保健室に入ると、妙に色っぽい唇とアンバランスな童顔の養護教諭の笹翠茉莉が言った。彼女は長い黒髪をポニーテールにし、オレンジ色のトレーナーに藍色のジーパンを履き、白衣を着ているカジュアルな装いの女性だ。
「あ、はい」
真一は紅潮した顔を俯かせて応じた。
彼が素直に保健室に来たのには理由がある。
茉莉に好意を寄せているからだ。もちろん、気弱な真一は茉莉には何も言っていない。
「仕方ないわね。ここを使っていいから」
茉莉は椅子から立ち上がり、自分の机を指し示した。
「あ、はい」
真一は茉莉が座っていた椅子に腰を下ろす。
(ああ、笹翠先生の温もりが……)
つい変態的な事を思った。
「コーヒー飲む?」
茉莉が部屋の隅にあるコーヒーメーカーに近づきながら尋ねる。真一はノートを開きながら、
「あ、はい」
「もう、それ以外に言葉を知らないの、赤井君?」
茉莉は呆れ顔で振り返り、腕組みをして真一を見た。
「あ、すみません……」
真一のリアクションに茉莉は肩を竦め、カップを二つ用意すると、淹れたてのコーヒーを注いだ。
「難しい事かも知れないけど、いつまでも今のままではダメよ、赤井君。嫌な事は嫌って言わないと」
茉莉はソーサーに載せたカップを運んできて、机の上に置いた。
「あ、はい。ありがとうございます」
真一は茉莉の顔が近いので、また顔を赤らめて言った。
そして、一時間目が終わる頃、真一の「仕事」も終了した。
「ご馳走様でした」
真一は茉莉に深々とお辞儀をして、保健室を出た。すると運悪く、英語の授業を終えて職員室に戻る那菜世に出くわした。
彼女は茉莉と違い、ボブカットにした栗色の髪で、楕円形の黒縁眼鏡をかけており、黒系のスーツというフォーマルな服装である。
「あら、赤井君、もう大丈夫なの? クラスの子の話だと、かなりつらそうだったって聞いたけど?」
那菜世は明らかに真一を疑っていた。彼女は真一がほぼ毎日のように保健室に行っているのを知っているのだ。
「あ、はい」
真一は慌ててノートの束を背中に回して隠した。那菜世も、真一がいじめられているらしい事を知ってはいたが、担任の水森を差し置いて行動をするのはどうかと思っているため、何も言わない。
「そう。ならよかった。次は数学の授業よね。矢野先生は厳しいから、注意するのよ」
那菜世に微笑まれ、真一はまた顔を赤らめた。
(でも、笹翠先生の方がタイプだ)
バカな事を考える真一である。那菜世は自分が茉莉と比べられているとは夢にも思っていないので、
「じゃあね」
そう言うと、廊下を歩いて行った。真一は会釈をして応じ、反対方向に歩き出した。
一年三組の教室のそばまで来た時、真一は仁王立ちで待っている女子に気づいた。
クラス委員の桜林里実佳である。
ショートカットの黒髪、やや釣り上がり気味の目、小さい小鼻、アヒル口の女子で、クラスの男子の憧れの存在だ。
但し、本人としては、生徒会役員になれなかった事が悔しいらしい。
「赤井君、また授業をサボったのね!?」
断定的な言い方で、里実佳は真一に詰め寄った。
「あ、いや……」
言い訳をしようと思ったが、弁論部に所属している里実佳に勝てるはずもないと判断し、口を噤んだ。
「津野原先生の授業ばかりサボるって、津野原先生に対する嫌がらせのつもりなの?」
里実佳は訝しそうな目で真一を見ている。それは否定しないといけないと思ったが、何か言うと何倍にもなって帰ってくる気がしたので、
「あ、うん……」
曖昧な言葉を発するだけにした。すると里実佳は自分がバカにされたとでも思ったのか、
「何よ、その態度は!? 確かに成績は貴方の方が上だろうけど、授業態度は最悪なんだから、反省してよね!」
プリプリしたままで、先に教室に入って行った。
「おい、できたのか、赤井?」
陰険な男子がニヤニヤしながら後ろの扉を開けて尋ねた。
「あ、うん」
真一は抱えていたノートを見せた。男子は下卑た笑みを浮かべ、
「さっすが、赤井! 優秀だねえ」
そう言うと、真一の手からノートを受け取り、教室に戻った。
「何している? チャイムはもう鳴ったんだぞ。いつまで休み時間のつもりだ、赤井?」
そこへ現れたのは、数学教師で生徒指導の担当でもある矢野新である。
「あ、はい」
真一は慌てて後ろの扉から中に入った。
バーコード禿げで、三段腹の体型の矢野は、ムスッとした顔でそれを見届けてから、前の扉を開き、教室に入った。