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気が弱くていつも利用されていた令嬢、洞窟に一人置き去りにされて婚約者も国も捨てることを決意する

掲載日:2026/04/11

 夜会の華やいだ雰囲気は、回廊をひとつ曲がるだけで届かなくなった。

 王城の中庭へ続く石の廊下は、ひどく静かだ。

 リゼットは胸元を押さえながら、早足で歩いていた。

 嫌な予感を抱きながら。

 騎士団長であり、婚約者でもあるクロードと並んで夜会へ出席していたはずなのに、気がつけば彼は席を外し、会場から消えてしまった。


「きっと、体調が悪くなったのね……」

 

 独り言で、自分を落ち着かせる。

 中庭へ出る扉の前まで来た時、ふいに人の気配がした。

 親しげな男女の笑い声だ。

 リゼットは足を止めた。

 開け放たれた扉の向こう、月に照らされた薔薇のアーチの陰に、二つの影が重なっている。

 男の背中には見覚えがあった。

 仕立てのいい黒の礼装に鍛えられた広い肩。

 白手袋を外した長い指も見えている。

 間違いない、クロードだ。

 では、彼の腕の中にいるのは誰だろう?

 淡い色のドレスを着た若い令嬢。

 先日も夜会で彼の近くにいた伯爵家の娘で名前は……セシルだ。


「……だめよ、クロード様。こんなところで」

「人目のない場所を選んだつもりだ」

「でも夜会の最中だし、なにより婚約者の彼女がいるでしょう……?」

「ああ、リゼットか」


 クロードは鼻で笑った。

 聞き慣れたその声が、あまりにも冷たくて、リゼットの脈拍が上昇していく。


「彼女は、気づいたところで何も言わない」

「それって……どういうことですの?」

「事を荒立てる度胸などないよ。昔からそういう女なんだ」


 月明かりの下で、クロードはセシルの頬に愛おしそうに指で触れた。

 慈しむような、優しい手つきだった。

 リゼットにはもう決して向けてはこない、柔らかな表情をしている。


「彼女の魔力は桁外れに多く、魔法の才も本物。王家への顔も利く。婚約者として置いておけば便利でなにかと使える。だからまだ、別れたくはない」

「まあ……ひどい方」

「そうかもな。でもそこに愛はない。すでに愛は別のところにある。わかるだろう?」

「……さあ、わかりませんわ」

「ずるいな、どうしても言わせたいのか?」

「言葉にしないと、伝わりませんことよ」

「本当に大事なのは君の方だよ、セシル」


 そのまま、クロードはセシルに口づけをした。

 彼女の方もそれに応えた。

 抱き合う二人の姿を目にしたリゼットの息が、止まりかける。

 目の前の光景を理解するまで、ほんの数秒かかった。

 それでも理解してしまえば、心の中で何かが崩れていく。

 恥ずかしいほど無垢に、彼を信じようとしていた自分がいたのだと、その時はじめてわかった。


 異性として好みではなくとも、せめて大切にはされているのではないか。

 忙しさの合間に言葉が足りないだけで、結婚すればきっと関係も変わるはず。

 そんな乙女のような期待はなにもかも、滑稽な勘違いだった。


 リゼットは咄嗟に身を引いた。

 靴音を立てたくなくて、呼吸すらしないようにして、柱の陰へ逃げ込む。

 足の震えが止まらない。喉が締まって辛い。

 肺を誰かに鷲掴みにされたように、うまく息が吸えなかった。

 問いただすべきなのだとわかっていた。

 婚約者なのだから、怒っていい。

 その権利だってあるはずだ。

 せめて、どういうことですか! と聞くくらい、してもいいはずなのに……。


 できなかった。

 もし逆に冷たい目で見られたら……

 開き直られたら……

 怒鳴られたら……

 もし面倒だと切り捨てられたら……

 もし見苦しいと言われたら……


 そんなネガティブな想像が頭を埋め尽くし、足を前へ出す力を奪っていく。

 結局、リゼットは一歩も踏み出せないまま、回廊の奥へと逃げた。


 ☆


 誰も使っていない小さなバルコニーは、夜風がひどく冷たく感じた。

 夜会の灯りが遠く、庭の噴水だけが静かに仕事をしている。

 リゼットは石の手すりに手をついて、呼吸を整えようとしたけれど、無理だった。

 涙が勝手に込み上げてくる。

 視界が滲み、薔薇の影も噴水の輪郭もぼやけて見えた。


「……なんなの……」


 弱々しい声が漏れ出た。

 泣いても意味はないと、頭ではわかっている。

 それでも頬を伝う涙は止まらない。

 クロードが自分を愛していないことは薄々わかっていた。

 二人きりでいても話題の大半は仕事のことばかり。

 彼が求めるのは、婚約者として並べて見栄えが良く、有能でなにを言っても反抗しない女だ。

 彼の好みの女は、さっきのセシルみたいに男に積極的で、開放的な面があるタイプ。

 リゼットのように身持ちが堅く、真面目な女とは相性が悪いのだろう。


 それでも、便利だから置いておくと、そんなふうに言われるとは思わなかった。

 心のどこかで、婚約者としての情くらいはあるはずだと期待していたのだ。

 けれど、最も悔しいのは裏切られたことじゃない。

 裏切られてもなお、なにも言えない自分の情けなさだ。


「……自分が嫌い……本当に嫌いっ…………」

 

 いつも人の目を気にして、誰かに嫌われないように神経を張り巡らしている。

 気が弱くて、人に強く主張ができない。

 魔法の実力はあっても、心が弱すぎた。

 リゼットはいい加減、泣き声をこらえようとして口元を押さえた——


「——リゼット嬢はこちらか」


 突然、後ろから声がした。

 びくっと肩を跳ねさせて振り返る。

 王家の近侍が二人、バルコニーの入口に立っていた。

 濃紺の制服に、王家の紋章入りの肩章が目立つ。

 彼らはリゼットの濡れた頬に一瞬だけ視線を走らせたが、それについてなにも言わなかった。


「陛下がお呼びです」

「へい、か……?」

「北の結界塔の術式に不具合が見つかりました。結界を維持する魔力が足りず、貴女の力が必要です」


 その言葉を聞いた途端、リゼットは涙を拭く暇もなく姿勢を正した。

 王の命である。断れるはずがない。


「いますぐですか?」

「はい。すでに皆様、お待ちです」


 胸の痛みも、泣きはらした顔も、ぜんぶ置き去りにするしかなかった。

 リゼットは冷え切った指で目元を押さえ、呼吸を整える。


「承知しました」


 そう答えた声は、思ったよりもずっといつも通りだった。


 ☆


 北の結界塔は王城の外縁——王都全体を覆う守護結界の一角を担う重要拠点だ。

 石造りの塔の内部には複雑な術式盤が何層にも張り巡らされ、普段なら王宮魔術師が複数人で管理している。

 だが今夜は、その中心部にある補助術式が妙な乱れを起こし、魔力の流れが不安定になっていた。

 特に維持するための魔力が欠乏しているらしい。

 王が自ら現場まで足を運ぶほどの緊急事態だった。

 リゼットが到着すると、小さなかんせいのようなものが上がる。


「来たな、リゼット」


 老王は重々しく頷いた。

 年老いてなお威厳ある顔つきだが、その眼差しは緊急事態でもどこか余裕があった。


「今宵も力を貸してもらう」

「……はい、陛下」


 今宵も。

 その一言に、リゼットは内心で笑いそうになった。

 泣いていたことなど、もう遠い昔のようだ。王にとっても、王宮魔術師たちにとっても、自分は困った時にいれば助かる者なのだろう。


「補助陣が三層目で絡まっております」

「修正を試みましたが失敗し……結果として魔力量が減っております」

「このままでは夜明け前に北区画の防壁が弱まるかと」


 口々に状況を説明され、リゼットは術式盤の前に立った。

 手で触れて直に魔力の流れを確認する。

 だいぶ、乱れている。

 しかも厄介な絡み方をしている。

 無理にほどけば主結界にまで負荷がかかる。慎重に、だが迅速に修復しなければならない。


「触媒を三つ。水晶ではなく白銀砂を」

「え?」

「早く。あと第二補助環の魔力を止めてください。いま流し続けると主軸が焼き切れます」

「は、はい!」


 普段はおどおどとしたリゼットが、術式の前に立つと変わる。

 声はまだ大きくなく、命令口調だってぎこちない。

 けれど判断は的確で、視線に迷いがない。

 複雑に絡んだ魔力の流れを正確に読み、最も危険な箇所から順番にほどいていく。

 その横顔を、年嵩の魔術師たちが半ば呆然と見守っていた。

 やがて、リゼットの足元に巨大な魔法陣が展開される。

 淡い蒼銀色の光が塔の内部を満たした。

 乱れていた魔力の糸が一本ずつ整列し、軋んでいた術式盤が静かに鳴動をやめる。

 空気に混じっていた焦げたような匂いも次第に消えていった。


「……収まりました」

「おお……!」


 誰もが息を呑む。

 結界塔の中心柱に灯る光が、安定した白へと戻っていた。

 夜明け前まで保てばよいどころか、これなら数ヶ月は問題ないだろう。


「見事だ、リゼット」

「さすがは規格外の魔力だな」

「王宮魔術師団でも手こずったものを……」


 王と術士たちから感嘆の声が上がる。

 けれどリゼットの指先は、痛みからわずかに痺れていた。

 高度な術式を一気に組み替えた反動で、体の奥が鈍く重い。

 頭も少し痛むし倦怠感もある。

 それでもリゼットは、いつものように微笑んだ。


「お役に立てて……よかったです」


 王は満足そうに頷く。


「今後も頼りにしておる」


 褒賞を与えるでもなく、休息を命じるでもなく。

 ただ、当然のようにそう告げた。

 リゼットはいつものように頭を下げる。


「ありがたき、お言葉にございます」


 塔を出る頃には、空が白み始めていた。

 一晩中泣いた目の熱も、術式を使い続けた疲労も、もはや区別がつかない。


 ☆


 屋敷へ戻ったのは明け方だった。

 

「お顔色が……。少しお休みくださいませ」


 侍女が顔を見るなりそう言ったが、リゼットは首を振った。

 眠ってしまえば、またなにもかも後回しにしそうだったからだ。

 自室の机に向かい、便箋を取り出す。

 窓の外では、朝日がゆっくりと庭に落ちていくところだった。

 ペン先を紙に置き、中々動かない。

 何度かためらってから、ようやく最初の一文を書き出した。



 クロード様

 突然このようなお手紙を差し上げる無礼をお許しください。



 そこまで書いただけで、胸が詰まった。

 本当はもっと簡潔でいいはずだ。

 婚約を解消したい、それだけを書けばいい。

 理由? そんなもの、セシル様と幸せになってくださいと書けばいい。

 けれどペンは止まり、余計な言葉ばかりが浮かんでくる。


 ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

 わたくしの至らなさゆえに。

 もしお怒りになられるようでしたら……。


 違う!

 謝りたいわけじゃない。

 悪いのは自分ではないはずだ。

 それでも長年染みついた癖はそう簡単には抜けない。

 誰かを不快にさせることが怖くて、気づけば相手の機嫌を窺う言葉ばかり並べてしまう。

 なんでこうも臆病なのだろう。

 そう自分を叱責したところで、十九年の人生をすぐに変えることなんてできない。

 何枚も紙を無駄にした末、ようやく一通を書き終えた。


 婚約を、解消していただきたく存じます。


 最後の一文を見つめながら、リゼットはしばらく動けなかった。

 これを渡せば、人生が大きく変わる。

 クロードは怒るだろうか。冷たく笑うだろうか。父は失望するだろうか。社交界で噂されるだろうか。自分が悪いと言われるかもしれない。

 多くの人に責められるかもしれない。

 それでも——このままではいけない。

 そう思って封をした。

 ドキドキしながら、子爵家の家紋入りの封蝋まで押した。


 そこまでしておきながら、リゼットは立ち上がれなかった。

 渡しに行こうと想像しただけで、心臓が痛いほど速く打つ。

 クロードの冷たい目が脳裏に浮かぶ。


「なにを勝手なことをっ」

「君にそんなことを決める権利があると思うのか!」

「俺は騎士団長だぞ。君は我が騎士団を敵に回すのか?」

 

 言われてもいない言葉が次々と胸を刺した。

 結局、手紙は机の引き出しにしまった。

 ひどく静かな動作だった。

 まるで、それが最初から決まっていたみたいに。


「……私、また……」


 そこで声は途切れた。

 結局、渡せない。

 いつものことなのに、どうしようもなく自分が惨めだった。


 ☆


 昼近くになって、屋敷に王宮からの使いが来た。

 王家の紋章入りの封書を見た瞬間、嫌な予感がした。

 昨夜の結界修復の件かと思ったが、違った。

 呼び出し先は王城の執務室で、差出人の名は第三王子フェリクスとなっている。

 経験から、ロクな用事ではない。

 でも断れるはずもなく、リゼットは再び馬車で王城へ向かった。

 第三王子フェリクスは、明るくて人懐こい笑みを浮かべる青年だった。

 親しみやすい顔立ちによく通る声、場を和ませる軽やかな物言いもする。

 社交界では気さくで聡明な王子として人気が高い。

 だがリゼットにとっては、頼みごとを断れない相手の一人でしかなかった。


「やあ、来てくれて助かるよリゼット!」

「……お呼びと伺いました」

「うん。実はね、北の山脈にある洞窟の調査へ行こうと思っててさ〜」


 執務室の机には地図が広げられていた。

 王都から数日ほど北へ離れた山岳地帯だ。

 最近、瘴気の濃度上昇と共に魔物の目撃報告が増え、簡易的な封鎖が敷かれている区域だ。

 リゼットは思わず顔を上げた。


「あの洞窟、ですか?」

「そう。実は古代遺構の可能性もあるらしくてね。以前から気になっていたんだ」

「ですが、まだ本格的な安全確認が……」

「だからこそ、君に来てほしい」


 フェリクスはにこやかに言った。


「結界、罠の解析、魔物退治。君がいれば格段に安全になる」

「ですが……」

「クロードも同行するよ」


 その名を聞いた瞬間、リゼットの喉がきつく詰まった。

 フェリクスは気づいていないのか、あるいは気づいていても意に介さないのか、そのまま続ける。


「騎士団からも最小限の護衛を出す予定だ。大人数だと機動力が落ちるし、やっぱり目立つからね」

「最小限?」

「うん、僕とクロード、優秀な近衛数名。それに君」


 嫌な感じがした。

 昨夜からろくに休んでいない。疲労感も酷い。

 しかも、できることならクロードの顔など見たくなかった。

 断るべきだ、と胸の奥が叫ぶ。

 そんな危険な場所に行きたくない、そう伝えろと。

 けれどフェリクスは朗らかに笑っている。

 王子の頼みだ。ここで渋れば、場の空気を悪くする。無能だと思われる。臆病だと失望される。今後の評価にも関わるかもしれない。

 リゼットは下唇を噛んだ。


「……私で、お役に立てるなら」

「うん、そう言ってくれると思ってた」


 あまりにもあっさり返されて、気持ちが沈んだ。

 王子にとっても、結局自分はそういう存在なのだ。

 頼めば断らない、便利で扱いやすい魔術師。

 そこへ、扉がノックされた。


「失礼します」


 最悪なことに、入ってきたのはクロードだった。

 黒い騎士服を着たその姿は、いつもどおり隙がない。

 昨夜見たあの横顔と同じ顔なのに、何事もなかったかのように平然としている。

 そのことが、かえってリゼットの心の傷を抉った。


「おや、ちょうどよかった。クロード、彼女も同行することに決まったよ」

「そうですか」


 クロードはリゼットを一瞥しただけで、特になんの感情も見せなかった。

 昨夜のことを知られているかもしれないなどと、少しも気にする様子はない。


「リゼット」


 低い声で名を呼ばれ、リゼットは反射的に体を向けてしまう。


「足手まといにはなるな」

「……っ」

「瘴気が濃く、視界が悪い場所だ。いつものように、体調がどうのと後から言われても困る」


 思わず、うつむいてしまう。

 いつものように。

 そんなこと、一度でも口にしただろうか。

 苦しくても、眠れなくても、頭が痛くても、リゼットはずっと、平気です……と言い続けてきたはずだ。

 それなのに彼の中では、自分は弱音を吐きかねない面倒な存在として処理されているらしい。


「クロード、そんな言い方はないだろう〜」


 フェリクスが笑い混じりにたしなめる。


「彼女が有能なのは君が一番よく知っているはずだ」

「ええ。有能だからこそ、期待しているのです」


 その言葉に温度はなかった。

 期待している?

 大切だからではなく、役に立つから。

 リゼットは見えないように拳を握りしめた。

 今朝、引き出しにしまった手紙の重みが、不意に思い出された。


「あ、あの……。昨夜の夜会、クロード様は途中からどこにいられたのですか?」

 

 勇気を出して、リゼットは尋ねた。

 クロードは一瞬眉をひそめたが、無表情で淡々と告げる。


「恩人と久しぶりに話していた」

「……セシル様と歩いているのを、お見かけしました」

 

 視点が定まらないながらもリゼットが伝えると、クロードは鋭い眼光で睨みつけた。


「彼女とはたまたま会って、少し会話をしただけだ。それとも世間話もせずに、目だけ合わせて場を離れるのが正しいとでも?」

 

 強い語調と一緒に圧力をかけてくると、リゼットはもう目を合わせることはできない。

 彼女が黙ったのを確認して、クロードは満足そうに鼻を鳴らした。


「出立は二日後だ。準備を怠らないように」

「……はい」

「返事はもっとはっきり」

「はい」


 自分でも嫌になるほど従順な返事だった。

 フェリクスはそんな二人を見て、どこか満足げに頷いた。


「君たちは本当に良い関係だね。ベストパートナーって感じだ。今回は、きっと面白い調査になるぞ」


 ベストパートナー。

 その薄っぺらい言葉に、リゼットは背筋が凍りつくような感覚を覚えた。

 そもそも面白いって、誰にとってのものだろう。

 少なくともリゼットにとっては、全てが地獄だった。


 ☆


 屋敷へ戻ったあと、リゼットはもう一度だけ引き出しを開けた。

 封をした婚約破棄の手紙が、そこにある。

 白い封筒は静かで、なにも主張しない。

 もう差し出してしまえばいい。それだけでいいのに、また動けなくなる。

 二日後には洞窟へ行く。

 その前に渡さなければ、一生渡せない気がした。

 けれど脳裏に浮かぶのは、先ほどのやり取りだった。

 面倒そうに、感情を押し殺した声で、今それを言うのか! と責められるに違いない。

 ——また、迷惑をかけるの?

 誰に言われたわけでもないのに、そんな声が聞こえる気がした。

 リゼットはゆっくりと封筒を引き出しへ戻した。

 カタッと小さく音がする。

 それがひどく情けなく響いた。

 窓の外では、夕暮れが庭を幻想的に染めていた。

 遠くで鐘が鳴っている。王都のどこかでは、人々が穏やかに食卓を囲んでいるのだろう。

 けれどリゼットの胸には、刺々しい不安だけが沈んでいた。


 二日後、北の洞窟へ行く。

 クロードと、フェリクスと。

 なにかが決定的に狂い始めている気がした。

 それなのにリゼットは、まだその流れから身を引くことができなかった。


 ☆


 北へ向かう道中、リゼットはほとんど口を開かなかった。

 馬車の中ではフェリクスが気軽に遺跡の話をし、クロードは必要な時だけ短く応じる。

 リゼットは求められれば結界の補強をし、休憩地点では瘴気避けの札を配置し、夜営では火の管理まで引き受けた。

 誰かに礼を言われれば小さく微笑み、次の頼みごとにも頷いた。

 それがいつもの役目だった。

 けれど胸の奥では、ずっとあの夜の言葉が反芻されていた。

 便利だから置いておく。

 その一言は、心のいちばん弱い部分に刺さったまま、抜けずにいる。

 そして三日目の昼過ぎ、一行は北の洞窟へ辿り着いた。


 ☆


 山の中腹に開いたその洞窟は、遠目にも異様だった。

 入口の周囲だけ木々が焦げたように黒ずみ、草がまだらに枯れている。

 岩肌には古い亀裂が走り、そこから滲むように淡い薄紫の瘴気が漂っていた。

 外の風は冷たいのに、洞窟の口から吹き出してくる空気だけが、ぬるく湿っている。


「……やはり、相当濃いですね」


 近衛の一人が顔をしかめた。

 対照的にフェリクスは洞窟を見上げ、楽しげに目を細める。


「面白い。報告より深刻そうだね」

「殿下、決して前に出すぎませんよう」


 クロードが低い声で忠告する。


「言われなくてもわかっているよ」


 そう答えながらも、フェリクスの声音には緊張よりも好奇心の方が強い。

 彼にとってこれは危険な任務であると同時に、退屈な王城を抜け出して得る刺激でもあるのだろう。

 リゼットは洞窟の入口に近づき、そっと手をかざした。

 空気の流れに混じって、ざらつくような魔力の感触が指先を撫でる。

 洞窟そのものが、巨大な生物みたいに脈打っている。

 嫌な気配だった。

 深部へ行けば行くほど、この瘴気は濃くなると予想できる。


「どうだ?」


 クロードの声に、リゼットは目を逸らしながら答える。


「……複数の術式反応があります。自然にできた洞窟では、ないかもしれません」

「造られたもの、である可能性もあると?」

「はい」

「罠か?」

「その可能性も高いです」


 二人の会話を聞いたフェリクスが愉悦する。


「やはり遺構か! 来た甲斐があったね」

「殿下」

「そんな顔をするなよ、クロード。リゼットがいるんだ。罠があるなら見抜いてくれるだろう?」

「いやしかし、リゼットといえど完璧ではありません」

「大丈夫さ。近衛兵だって優秀だし。行くよ」


 一行が中に入っていく。

 洞窟の中は、すぐに光を呑み込んだ。

 松明の火は頼りなく、湿った岩肌にぼんやり揺れる。

 足元はぬかるみ、ところどころに白い骨が転がっていた。

 獣のものだけではない。

 近衛たちの顔が少しずつ硬くなっていく。

 リゼットは先頭から二番目を歩きながら、周囲に薄い索敵の膜を張った。

 魔力の糸が闇の奥へと広がっていく。

 枝道、空洞、瘴気の溜まり、魔物の気配を探る。

 複雑な地形だったが、それ以上に恐ろしいのは、人の手が入ったような痕跡があちこちに残っていることだった。


「左手の先に空間の歪みがあります。そこは避けてください」

「了解」

「正面の足場、踏まないで。沈みます」

「……よくわかるものだな」


 近衛兵が息を呑む。

 リゼットは答えずに前を見た。

 そう、わかるからこそ……最も怖かった。

 この洞窟はあまりにも『出来すぎている』。

 侵入者を選び、誘い込み、試すような気配すらあった。


「リゼット、この洞窟について意見を述べろ」

「……引き返した方がよろしいと思います。もの凄く嫌な予感がします」

「具体的には?」

「ただの洞窟ではなく、広さも相当なものと判断します。どんな罠があるかわかりません」

「殿下、今回はここまでにしませんか?」

 

 さすがのクロードも、それを聞いて中止を促す。

 しかしフェリクスは首を横に振った。


「リゼットは臆病なところがあるからね。少し大げさに言ってるだけさ」

「無理をしない、というのも一つの手です」

「あー、クロード。これは言いたくなかったけど……君ってそれなりに色々目撃されてるよ?」

 

 含みのある言い方と、目つきだった。

 色々と、にリゼットは胸がチクリとした。

 セシルとのことか、あるいは他にも色々といるのか。


「ごほん……。人は嘘の噂話なども好きですからね。それより、先に進みましょう」

「確かにね!」 

 

 クロードが即座に意見を変えたことにフェリクスも満足そうにした。

 しばらく進むうちに、低位の魔物が何度か襲ってきた。

 黒い狼型の群れ、天井から落ちてくる毒蜘蛛、岩に擬態した甲殻獣など。

 だがリゼットが魔法を駆使して相手を翻弄し、その隙に近衛とクロードが仕留める。

 戦い自体は危なげなかった。

 むしろ、危なげがなさすぎた。

 これほど濃い瘴気の洞窟にしては、出てくる魔物が弱いのだ。

 まるで奥へ進ませるために、手加減されているように。

 その違和感が、リゼットの気分を重く沈ませる。


「止まってください」


 思わず声が出たのは、洞窟へ入ってから二時間ほど経った頃だった。

 一行の前に、大きな石扉が現れていた。

 自然物にしては整いすぎた壁面だ。

 扉の左右には古代文字が刻まれ、中央にはドス黒い魔石が埋め込まれている。

 その周囲だけ、空気が妙に冷たい。

 フェリクスが目を輝かせた。


「これは……!?」

「お待ちください」


 リゼットは扉の前に進み出て、息を詰めた。

 嫌な予感が、はっきりした形を持った。

 石扉の向こうから、複数の召喚陣の気配があるのだ。

 拘束術式、空間封鎖、開閉制御まで。

 いくつもの魔法が絡み合い、複雑に組まれている。

 練度、精度、技術も恐ろしいほどに高い。


「この部屋は罠です」


 リゼットは振り返った。


「かなり強力な……入ったら、閉じ込められる可能性があります」

「解除できるか?」


 クロードが問う。


「……時間がかかります。慎重に構造を見ないと」

「どれくらいだ」

「わかりません。でも、無理に触れば発動するかもしれません。推奨できません」


 フェリクスは扉を見つめたまま、興奮を抑えきれない声で言う。


「古代遺構にこういう仕掛けはつきものだ。逆に言えば、この先に宝がある証拠だろう!」

「殿下、危険すぎます」

「知ってる。だからこそ来たんだ。もし今回成功したら、僕は大きな権力を得る。そのとき、君たち全員を何段階も昇格させよう」

 

 これに真っ先に反応したのはクロードだった。


「何段階もというと……?」

「君はいま、ただの一騎士団長に過ぎない。総騎士団長、軍団長、騎士総帥など。まだまだ上がある」

 

 甘美な役職名に、クロードの目の色が明らかに変わった。

 先ほどの警戒心は薄れ、欲望に取り憑かれたように。

 リゼットの心臓が重く鳴る。

 ——やめてほしい。

 強く言わなければならない。

 役職や名誉など、命あってのことだ。

 ここで止めなければ、きっとよくないことが起こる。


「殿下、お願いです! ここは一度引き返して、もっと人員を——」

「大げさだな、リゼット」


 ここに来て、フェリクスが完全に寝返った。


「君がそこまで警戒するなら、なおさら見てみたい。大丈夫、俺たちは無策じゃない」

「ですが……!」

「開けるべきだ。俺はそう思う」

「ダメです。やめましょう」

「なら多数決としよう。進むべきと思うものは、手を挙げてほしい」

 

 フェリクスとクロードはもちろん、近衛兵もすべて手を挙げた。

 その瞬間、クロードがリゼットの肩を軽く押しのけた。


「あ……」

「下がれ。俺たちの進むべき道は決まった」


 リゼットは言葉を失った。

 クロードはもう、彼女の警告を真剣に聞く気などないのだ。

 フェリクスが石扉に手を触れる。


「いけません殿下!」


 叫んだ時には、もう遅かった。

 ゴゥゥ、と空気が震えた。

 扉の紋様が不気味な紫光を怪しく放ち、次の瞬間、石扉が内側へと重々しく開く。

 中から溢れ出した瘴気が一行を呑み込み、床に描かれた見えない術式が一斉に起動した。

 足元が激しく光る。


「いけないっ——」


 リゼットが結界を張るより早く、視界が歪んだ。強引な転移に似た力が全員を部屋の内側へ強制的に押し込み、直後に背後で石扉が轟音と共に閉まった。


 ☆


 広い石造りの部屋だった。

 天井は高く、壁には読めない古代文字がびっしりと刻まれている。

 床の半分以上を巨大な魔法陣が覆い、淡い紫の光が脈打っていた。

 部屋の隅、ちょうど対角線上の位置に、ひときわ大きな黒い魔石が据えられている。

 間も無く、空間が黒く裂けた。

 裂け目から、黒い狼型の魔物が這い出てくる。続いて、蜥蜴に似た魔物も。

 空中では羽虫の群れが耳障りな羽音を立てた。


「敵が来ます!」


 リゼットは咄嗟に広域防壁を展開した。

 透過性の高い青白い壁が前方に張られ、飛びかかってきた狼を弾き飛ばす。

 クロードと近衛たちが剣を抜き、フェリクスも素早く抜刀した。


「数は!?」

「……どんどん増えていきます!」


 答えたそばから、また裂け目が開いた。

 さらに二体、三体。

 倒しても倒しても、次の魔物が這い出してくる。

 リゼットは部屋全体の構造を読み取ろうと必死に視線を走らせた。

 召喚陣が床の下で循環し、あの黒い魔石が核になっている。

 扉の封鎖術式も、きっとそれと連動している。

 理解した瞬間、血の気が引いた。


「この部屋……!」

「なにかわかったか!」


 クロードが叫ぶ。


「部屋の隅の魔石に、誰かが触れ続けていないと扉が開きません!」

「なん、だと?」

「でも触れている間、その人はその場から動けない……! それに、しばらくこの召喚は止まりません」


 リゼットの発言に空気が凍った。

 近衛のひとりが舌打ちしながら魔物を斬り伏せる。


「じゃあ、誰かが残らなきゃ出られないってことかよ!」

「……そうなります」


 フェリクスが顔面蒼白になる。

 クロードの口元がヒクヒクしている。

 魔物は次々と湧き出し、じりじりと包囲を狭めてくる。

 このまま全員で留まれば、いずれ消耗して押し切られるのは目に見えていた。

 リゼットは生唾を飲み込む。

 嫌な予感が、形になって迫ってくる。


「リゼット」


 クロードが呼んだ。

 その声は不思議なほど落ち着いていた。


「君の魔力なら、しばらく持たせられるな」

「えっ?」

「俺たちが先に外へ出て、応援を呼ぶ」

「そんな……」


 魔物を焼き払った直後で、肺が熱い。

 耳鳴りがしている。それでもリゼットは、はっきり首を振った。


「だめです。扉の向こうの構造が読めません。外へ出られても、またここまで戻れる保証が——」

「だが、このままでは殿下が危険だ」


 冷たく遮られた。


「君なら時間を稼げるだろう」

「でも、一人でなんて……!」

「必ず助けを呼んで戻る」


 その一言が、重く落ちた。

 リゼットはクロードを見上げた。

 彼の目は真っ直ぐだった。

 そこに優しさがあるかどうかはわからなかった。

 ただ、いつものように、従うべき言葉として差し出されているだけの気もした。

 フェリクスも焦った声で言う。


「頼むよリゼット。ここで僕が倒れるわけにはいかない。一度外に出て、そこから解除法を探す」

「殿下……」

「君しか頼れる人がいないんだ」


 近衛たちもなにも言わない。

 否定しない。

 この場で残るのが誰か。

 その答えは、最初から決まっているみたいだった。

 規格外の魔力を持ち、支援に長けていて、従順で命令に逆らえない女。

 リゼット・オリヴィルド。

 脈拍が強く大きくなっていく。

 嫌だ。

 怖い。

 やめてほしい。

 そう言えばいいのに、言葉が上手く出ない。

 王子の焦り、近衛の視線、クロードの眼差し。そのすべてがリゼットを押し込める。


「リゼット。こんなときに言うことじゃないが──俺は君を愛している」

「っ!?」


 なんで?

 こんなときに、そんなことを言うのだろう。

 困惑するリゼットに畳みかけるように、クロードは真摯な様子で話す。


「知っての通り、俺は不器用だ。だから、上手く言えないことや変な行動もする。でもいつも、心の中の一番はお前だ。そこに嘘はない」

 

 嘘に決まっている。

 そうリゼットは反抗しようとしたが、完全に否定はできない。

 もしかしたら本当に、そうなのかもと思ってしまった。


「早くしろ!」


 魔物の爪を受け流しながら、近衛兵が叫ぶ。


「保たねえぞ!」


 差し迫る極限の中、リゼットは信じる気持ちを拾うことにした。

 ふらつく足で部屋の隅の魔石へ駆け寄る。


「魔鳥を使って、王都へ破滅の札の要請をしてください。それを床に貼れば、この術式自体を破壊できます」

「は、破滅の札……。貸してもらえるかな……」

 

 フェリクスが動揺するのも無理はない。

 破滅の札は禁忌的な破壊力を持つ。

 だが現状では、それしか打破の道がない。


「……わかった。やってみる。君が残ってくれるんだね?」

「札を持ってくること。また役割を交代してくれるのなら」

「任せて。魔鳥なら五時間、いや四時間で往復できる。外に出て使いを出したら戻ってきて、石を触る役を変える」

「それでは、私が残ります」


 言った瞬間、自分の声がひどく遠くに聞こえた。

 黒い魔石に手を触れる。

 途端に冷たい力が掌から腕へ食い込み、魔力そのものを釘で打たれたような感覚が走る。

 扉の封鎖術式が反応し、ゆっくりと石扉が開いた。

 クロードが一瞬だけ彼女を見た。


「殿下を外に送り届けたら、すぐに戻る」


 その言葉を残し、フェリクスと近衛たちが扉へ走る。

 最後にクロードが振り返ったが、その目に浮かんでいたのがなんだったのか、リゼットにはわからなかった。


 そして、全員が扉の向こうへ消えた。

 魔石から手は離せない。

 扉を閉めると声が通らず、彼らが戻ってきてもわからないからだ。

 扉は開いても、魔物は無限に湧き続ける。

 救援まで、一人で闘うしかなかった。


 ☆


 戦闘から三時間が過ぎようとしていた。

 王子が外へ出たのなら、王都へ急報が届くはずだ。

 魔鳥の飛行速度は非常に速い。

 また、札を運ぶくらいなら問題ない。

 殿下を外に送り、魔鳥を出した後は、フェリクスと近衛兵が戻ってくる。

 扉さえ開けておけば、彼らと後退しながら場を凌げるのだ。


 リゼットは片手を魔石に押しつけたまま、もう一方の手で魔法を放ち続けた。火球で焼き、氷槍で貫き、風刃で切り裂く。

 リゼットの魔力は常人より桁違いに多い。

 だが無限に襲ってくる敵を、動ける範囲を制限されたまま相手にするのは、想像以上に消耗が激しかった。

 さらに、三時間が過ぎた。

 それでも誰も来ない。

 おかしい……。

 そう疑念が湧き始める。

 さすがに、六時間もあれば魔鳥を出して戻ってこれるはずだ。


 魔物の死骸が足元に積み上がり、血と瘴気の臭いがより濃くなっていく。

 指先の感覚はとっくに麻痺し、肩から腕にかけて痺れが広がっていた。

 そこから、また三時間が過ぎた。

 その頃には、もう希望を支えるものがなにもなくなっていた。


「……どうして」


 押しつぶされた声が、口の隙間から漏れ出る。

 クロードは来ない。

 フェリクスも来ない。

 誰も来ない。

 そこでようやく、リゼットは確信した。

 きっと最初から、戻るつもりなどなかったのだ。

 あの場で一番都合よく置いていけるのが自分だっただけ。魔力が多く、時間を稼げて、文句を言わない。だから残された。

 それだけだった。

 そして本当はリゼットだって、それに薄々気づいていた。

 でも、1%の奇跡に賭けてしまった。

 愛してるの言葉を信じたのか、信じたかったのか。


「……ッ」


 喉の奥が熱くなる。

 悲しいのに、涙は出なかった。代わりに、胸の底から黒いものがせり上がってくる。

 どうして。

 どうしていつも、わたしばかりが差し出すの。

 どうして黙って従ってきたのに、こんなふうに捨てられるの。


 ──ふざけないで!


 魔物の爪がリゼットの肩を裂いた。血が派手に飛ぶ。

 痛みと同時に、心の糸がぷつりと切れた。


「……絶対に」


 リゼットは顔を上げた。

 灰青色の瞳の奥から、刻まれていた怯えが消えていく。

 代わりに満ちるのは、どす黒い怒りだった。自分でも恐ろしいほど濃くて熱い、生きたいという執念。


「絶対に、生き抜いてやる……!」


 その瞬間、彼女の中で長いあいだ押さえ込まれていた魔力が一気に噴き出した。

 リミッターが外れたのだ。

 ただでさえ強い魔力を持つ彼女は、潜在的に己を抑えつけていた。

 全開にすれば、異常が起きるかもしれないと脳が恐れていた。

 だがもう、その鎖は引きちぎられた。

 白銀の光が爆ぜる。

 空気が強烈に振動し、床の魔法陣が悲鳴を上げる。

 魔物たちが動きを止めた刹那、濁流のような魔力が室内を埋め尽くした。炎、氷、雷、風、あらゆる属性が荒れ狂っては融合し、押し寄せる魔物の群れを丸呑みにする。

 黒い影たちが砕け、燃え、ゴミのように消し飛ぶ。大波が去った後、そこには静寂が落ちた。

 リゼットは荒い息をつきながら、掌の下の魔石を見た。この部屋の核であり、壊さない限り召喚は続く。

 だが先ほどのリゼットでは、どんな魔法でも破壊できないほどの耐久力があった。

 でもいまは違う。


「こんなもの……」


 残った魔力を一気に叩き込む。

 ぱきっ、と高い音がした。

 魔石にひびが入り、やがて粉々に砕け散る。

 すると、クロードたちが出ていった扉が締まった。

 代わりに、部屋の奥の壁面が割れて、暗い通路が姿を現す。

 戻るのは許さないが、先へ進むことを許可する。

 そう言っているかのように。

 奥から流れてくる瘴気は、先ほどまでの部屋の比ではなかった。重く、濃く、肌を刺す。

 ここからが本当の魔境なのだと、直感した。

 リゼットは自分の血で汚れた袖を見下ろし、静かに息を吐いた。


「生きる」


 噛みすぎて血が滲んだ唇を指で拭い、彼女は闇の中へ足を踏み入れた。


 ☆


 地獄だった。

 昼も夜もない暗闇に、濁った地底水に、瘴気に満ちた空気が肺に負担をかける。

 襲いかかる魔物は強く、無策で眠れば死に繋がる。

 リゼットは戦い続けた。

 結界を張って仮眠を取り、反応があれば魔物を殺し、食べられるものを探し、水を浄化して、先に進む。

 服が裂けようと靴が壊れようと、歩みを止めなかった。


 泣くのは、すぐにやめた。

 助けを待つのも、じきにやめた。

 誰かを信じることは、完璧にやめた。

 必要なのは躊躇なく敵を殺すこと。

 必要なのは自分だけは絶対に死なないという執念だ。

 そうして、どれほどの時間が過ぎただろう。

 地底に季節はないが、毎日記録をつけていたのでわかる。

 二年間、彼女はそこで生き延びた。

 細かった身体には無駄のない筋肉がつき、白い肌にはいくつもの傷が残った。

 リゼットは回復魔法があまり得意ではない。

 そのため、優秀な治癒師にかからないと傷痕までは消せない。

 無論、ここではそんなもの期待できない。

 

 長かった髪は戦いの邪魔にならぬよう自分で切り揃え、目は据わって鋭くなった。

 かつて気弱だった令嬢の面影は、ほとんど失われていた。

 魔力もまた変質していた。

 本来から規格外だったそれは、極限状態で磨かれ、より凶悪に、より精密に研ぎ澄まされていく。

 いまのリゼットにとって、上位の魔物すら狩る対象でしかない。

 見つければ殺す。

 必要なら解体する。

 そして食う。

 ただ、それだけだ。

 それがリゼットにとって生きるということだ。


 ☆


 ある日、地下湖の近くで血の匂いがした。

 リゼットは足音を消して岩陰から覗き込み、そこで初めて『人間』を見た。

 銀髪の青年だった。

 長身で、見慣れない仕立ての外套をまとい、肩から腹にかけて深い傷を負っていた。

 血に濡れた剣を手にしていたが、足取りはふらついている。

 顔立ちも、この国の人間とは違って見えた。

 異国人だろうか。

 リゼットは無言で魔法陣を展開した。

 少しでも敵意を見せれば、即座に仕留めるつもりだった。相手が人間だろうと容赦しない。

 この洞窟に法はない。

 あるのは強者が生き残るというシンプルなルールだけ。

 それに、裏切るのはいつだって人間の方だ。

 青年も彼女に気づき、ぴたりと動きを止めた。


「****!? ********!」


 なにか、言語を話している。

 だが全く言葉がわからない。

 発音も発声も、リゼットのものとは全く違う。

 そして言語が異なるということは、彼はこの大陸の人間じゃないかもしれない。

 この大陸は方言こそあれど、どの国でも同じ言葉を話す。

 リゼットは冷たく言い放つ。


「近づかないで」

「……**? ******?」


 当然、お互い通じない。

 それでも青年は両手を上げ、敵意がないことを示したあと、自分の胸を指差した。


「アスト」


 さすがに名前だとわかった。

 次に彼はリゼットを指し、首を傾げる。


「……リゼット」


 短く名乗ると、アストはぱっと表情を明るくした。その無邪気さが、かえって信用できない。

 ただ一応、敵意だけは感じない。


「勝手について来たら殺すわ」


 吐き捨てて踵を返す。

 だがしばらくして背後から足音がした。

 振り向くと、アストがついてきていた。

 氷槍作り喉元へ突きつけても、彼は怯えながらも逃げなかった。

 代わりに革袋を差し出す。中には飲める水が入っていた。

 調べると毒はない。

 リゼットが少しだけ口にすると、アストはほっとしたように笑う。

 それが最初だった。


 言葉は通じない。

 それでも彼は勝手についてきて、危険な足場では先に立ち、寝床を作るときは風除けの位置を譲り、食べられるものを見つければ不器用に差し出してきた。

 魔法は使えないらしいが、剣の腕は相当なものだった。

 なにより、リゼットがどれだけ冷たくしても彼は気にしなかった。

 まるで、そんなことは大した問題ではないと言うように。


 ☆


 出会ってから二ヶ月が過ぎただろうか。

 時間が流れるうちに、リゼットはアストに簡単な言葉を教えた。


「ミズ」

「……みぃ……じゅ」

「ミズ」

「……ミィ……ズゥ……」

 

 彼が不器用なのではない。

 言語体系がおそらく、かなり離れている。

 お互いに、習得しにくい発音なのだ。

 一体、彼はどこから来て、なぜここにいるのだろう?

 リゼットの疑問は深まるばかりだ。


「ミ……ズゥ……」


 拙い発音に、最初は鬱陶しさしか感じなかった。

 けれど気づけば、その声が沈黙だらけの地底で、奇妙に心を落ち着かせるようになっていた。

 それでも魔境は容赦しない。

 深層を抜ける道を探していた頃、リゼットの身体に限界が来た。

 長年の疲労と瘴気の蓄積が一気に噴き出したのだ。

 寒気、頭痛、眩暈がリゼットを同時に襲う。

 立っているだけで視界が揺れる。


「リゼット?」


 アストが不安そうに名を呼ぶ。


「平気」


 短く返した直後、膝から力が抜けた。

 気づけば岩壁にもたれたまま倒れ込み、全身が熱に焼かれていた。息が苦しくなり、体に力が入らない。最悪だった。不運は重なり、そんな時に奥から重い咆哮が響く。

 間違いなく、上位種だ。

 角を持つ獅子のような巨体が、瘴気をまとって現れた。

 口の端から滴る汚い涎が石床を溶かしていく。

 リゼットは魔法を撃とうとした。だが集中力が散り、うまく発動できない。

 ……まずい。

 そう焦ったとき、アストが間髪を容れずに前へ出た。


「だめよ……!」


 だがアストは振り返らない。

 魔物が突進してくる。アストは横へ飛び、喉元を狙って剣を跳ね上げる。……浅い。爪が振るわれ、彼の脇腹が深く裂けた。血が垂れ落ちる。

 それでもアストは退かなかった。

 リゼットの前に立ち、何度攻撃されても、何度叩きつけられても、這うように立ち上がる。

 自分は盾だと主張するように。守るべきものを背に庇う騎士のようでもあった。


「もうやめて……アスト……」


 どうしてそこまでできるの。

 どうして逃げないの。

 どうして、私なんかを。

 朦朧とする意識の中、リゼットは取り乱す。

 彼がそうまで一生懸命になる動機がわからない。

 自分には価値なんてなく、病に倒れたいまは便利な道具にもならない。命をかける必要なんてないからだ。


 魔物が最後の一撃を振り下ろそうとした瞬間、アストは一か八かで身を投げ出すようにして軌道を逸らし、剣を喉奥へ突き立てた。

 咆哮が響き、巨体が暴れ、最後は崩れ落ちる。

 アストも力なく膝をついた。

 ぼろぼろだった。

 全身が傷だらけで、血に濡れている。今にも倒れそうなのに、それでも彼は振り返った。

 そして、ぎこちなく口を開く。


「……キミ……ブジ……ヨカッタ」


 たどたどしい、この国の言葉だった。

 そしてそこに、嘘や打算はなにもなかった。

 彼の純粋な笑顔を目の前にすると、リゼットの中で凍りついていたものが溶け出していく。

 もう長く泣いていなかった。

 泣く意味などないと思っていた。

 誰も信じないと決めていた。

 なのに。


「……っ、ぁ……」


 涙が落ちた。

 一粒落ちると、タガが外れたように止まらなくなった。

 嗚咽が込み上げ、全身が震える。アストは困ったように目を瞬かせ、それでもゆっくりと近づいてくる。リゼットは自分から、血だらけのその手を取った。

 温かかった。

 人ってこんなに温度があるんだ。

 知っているはずなのに、初めて知ったように感じた。


「……ありがとう」


 それは二年ぶりに、心から誰かへ向けた言葉だ。

 アストは少し照れたような表情を浮かべていた。

 その日を境に、リゼットは彼を完全に信じた。

 この先裏切られるなら、それが人生だと受け入れることにした。


 ☆


 それからさらに一ヶ月。

 二人は死線を越えながら、少しずつ地上へ近づいていった。リゼットは魔法で道を切り開き、アストは剣で彼女を守る。言葉での意思疎通はまだまだ拙いが、息はぴたりと合うようになっていた。

 そしてついに、その日を迎える。

 風が変わった。

 湿った地底の匂いに混じって、乾いた土の匂いがする。前方に白い光が見えた。眩しくて、目を細めるほどの光だ。

 ……出口だった。

 リゼットはしばらくその場に立ち尽くした。

 二年以上、見たことのなかった太陽の気配がそこにある。

 恋しかったはずなのに、いまは少し遠いもののように感じる。


「リゼット」


 隣でアストが名を呼ぶ。

 振り向くと、銀髪の青年は少したどたどしい口調で、それでも丁寧に言う。


「……オレ、いっしょ……リゼットとアスト」


 そして、片手を差し出した。

 まるで舞踏会で淑女を導く騎士のように。


「ドウゾ、デス」


 その言い方がおかしくて、でも胸が熱くなって、リゼットは腹から声を出して笑った。

 昔の彼女なら、こんなふうには笑えなかっただろう。

 愛想笑いや作り笑いばかりの日々。

 誰かの機嫌を窺うためではなく、自分の意思で楽しく笑うことは難しかった。

 だが今は違う。

 彼女はもう、都合よく使われるだけの令嬢ではない。

 暗闇の中で生き延び、怒りを力に変え、信じられる相棒を得た。

 差し出された手を、しっかり握る。


「ええ、行きましょう。私とアストで」


 二人は足並みを揃えて、一緒に出口へ踏み出した。

 洞窟を抜けた瞬間、陽光が降り注ぐ。

 眩しさに目を細めながら、リゼットは空を見上げた。

 青かった。

 どこまでも高く、澄んでいる。

 何気ない空なのに、この世界の宝物のように感じた。

 けれど——

 その空の下にある世界には、まだ清算していないものがある。

 クロード。

 フェリクス。

 近衛。

 リゼットを都合よく使い、裏切って暗闇へ置き去りにした者たち。

 胸の奥で燃えるものは、もう怒りだけではなかった。

 踏みにじられた自分の尊厳を取り戻すための、静かで確かな意志だ。

 奪われた人生を取り戻す。

 そして、もう二度と誰にも、自分の価値を決めさせない——

 リゼットは唇を引き結び、太陽の下にもう一歩を踏み出した。



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続き読みたいです。
気が弱くて自己肯定感低くて搾取されまくった人間が生まれ変わるには、自分の生殺与奪を丸ごと握って全身全霊で生きあがくぐらいの状況にならなきゃだめなんでしょうね 面白かったです が、起承転結の転で終わっ…
これは未完ということですか? それともここで完結ですか?
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