ゆきともも
1999年、7の月。世界は混沌に覆われた。
宇宙から降り注ぐ流星群。各地に現れた異界と通じる門。地球へとなだれ込む、異世界の存在たち。
後に『異界事変』と呼ばれるそれにより、あわや世界の終焉かと危ぶまれたものの、地球人は思いの外すんなりと新たな世界に順応した。
異界の理を喜んで受け入れ、未知の技術を貪欲に吸収し、むしろ『異界事変』以前と比べると人類は元気ハツラツになった。
あの日から、二十余年。異界技術と地球科学が融合した異界科学の台頭によって。
この世界は――トンチキとなった。
◇ ◇ ◇
日本が、令和という新たな年号を得てから、はや数年。
過去の『異界事変』よりも後に生まれた世代の若者は、あの当時の、世界中を巻き込んだ大パニックが嘘だったかのように、平穏な日々に身を浸していた。
そして、ここにもまた。
二人の平凡な少女たちが、平和で、平穏で、少しだけ不思議な朝を過ごしていた。
「もも、一生のお願い、数学の宿題コピらせてっ! 今日の数学、スージー先生だからヤバいんだよー」
異立、ひのき湯中学校。
ここは、日本の『ひのき風呂』に感動した異界の名士が理事長となって設立された、ごく一般的な中学校だ。名物は校庭に設置されたひのき造りの足湯である。
そのひのき湯中学校、二学年A組の教室で朝から騒いでいる少女の名は、北風ゆき。
肩下肩甲骨まで伸ばした黒髪と、頭上でウサギ耳のように結んだヘンテコリボンがチャームポイントの、ごく普通の愉快な中学二年生だ。
一方、そのゆきの一つ後ろの席で『一生のお願い攻撃』を受けているのは、すっぱりと綺麗にそろえられたボブ――昔で言うおかっぱに近い髪型をした、眠たげなまなざしの少女、春日もも。
朝から元気なゆきとは対照的にぼんやりとした雰囲気のももだが、中身はしっかり者の真面目な中学二年生である。
揃いのセーラー服に身を包む二人は、子供の頃からずっと同じクラスが続いている親友同士であり、まさに打てば響くような間柄の幼なじみだった。
「数学だけ! 数学だけ! ちょこっとだけ!」
「えー、嫌だよ。ゆきちゃん、こないだも私の宿題を一生のお願い使ってコピったじゃん」
「それはほら、あのあと私って一回ぽっくり逝ったから、今は次の一生なんだよ」
「もっと一生を大切にしなよ」
教室にはすでに他の生徒たちも着席し、各々が席の近いクラスメイトと雑談に興じたり、一人でスマホを覗いたり、あるいは机に伏し居眠りを始めたりと、好き好きに時間を過ごしている。朝のチャイムは鳴ったが、担任が入ってくるまでは休み時間なのだ。
ゆきは背後の席についたももを振り返り、断られてもめげずに数学の宿題をコピらせてくれと懇願していた。
この学校は、ひのき湯に代表されるようなアナログ文化を大事にする校風のもと、授業でも紙媒体のノートを使用している。過去に使われていたシンプルな紙のノートと違い、破れても紙が再生し、勉強中に集中できる香りが漂う機能のついた実に優れものの最新ノートだ。しかも、お腹がすいたら非常食にもなるのだから脱帽ものだ。
しかし。いかにそれが最先端のノートだとしても、アナログはアナログだ。ノートの内容をデジタル化するのは簡単だが、ノートにゼロから宿題を記入していくのはボタンひとつとはいかないため、ゆきは必死なのだ。
「ほら、ゆきちゃん。先生が来たみたいだよ」
「とほほー」
しかし、残念なことに。
ゆきの願いもむなしく、教室の扉ががらりと開く。いかにも真面目そうな、眼鏡に七三分けのまだ若い担任教師が到着し、朝の雑談時間は終了を遂げてしまった。
担任が室内へと入ってくると、生徒たちは雑談をやめて前方を向き直る。
スーツに七三、そして眼鏡という、いかにも真面目な三点セットを揃えた担任だが、実は見た目ほど堅苦しい担任ではなく、生徒たちの人望も厚い。教師を無視して雑談を続ける生徒も、いまの所はいない。
――だが。
その朝の担任の様子は、なんだかいつもと少しだけ違った。
担任は、教卓の後ろに立ち。デジタル機能が豊富に登載された多機能メガネをくいっと指であげてから、無言で生徒たちへと視線を向ける。そして、数秒言葉を選んでから、口を開く。
担任教諭の声は、僅かに、緊張したように。震えていた。
「……みなさん。今日はお知らせがあります」
いったい何事かと、クラス全員の視線が担任に集中する。
教師のメガネの脇についている充電ランプが赤色に点滅しているのが気になるが、さすがにここで口を挟む生徒はいない。
「えー……数学の、スージー先生が前々から心臓を悪くしていたことはご存じかと思いますが、昨日――自宅で、お亡くなりになりました」
数人の生徒たちが、息を飲む声。
そして――室内に、沈黙が訪れる。
数学のスージー先生は、高齢の女性教諭だった。彼女が心臓に病気を患っていたことは、生徒たちも知っている。
けれど、つい数日前には三角形のいかにも厳しそうなとんがりメガネを光らせながら、きびきびと授業を行い、全員に大量の宿題を与えて絶望させたばかりなのだ。今日もまた、彼女の容赦のない授業を受けるために覚悟を決めていたのだ。
だというのに。
唐突に「先生が亡くなった」などと言われても、生徒たちは、すぐには反応できない。
廊下からは、別なクラスの教員が生徒を叱りつける声や、遅刻者に警告を発する校内ポリスのサイレン音が響いてくるが、二年A組は静かだった。
だが、担任教師が次に発した続く言葉で、教室内の沈黙は破られる。
教室内に、生徒たちの悲しみの慟哭が、響きわたることとなる。
「なので、本日からは、AIスージー先生が数学の担当になります」
沈黙――。
そして、沈黙から数秒あけて。
「えーっ!?」
「せっ先生、質問です! AIはシグマ社ですか? セイウン社ですか?」
「シグマ社のAIスージー先生です。合理性には定評がありますから安心してください」
「うわーっ!!」
「ひええ」
クラス中が、絶望の悲鳴をあげる。
それも当然であろう。ただでさえ厳しかったスージー先生が、よりによってシグマ社AIになってしまったのだから。
シグマ社製の教育AIは、その妥協のない合理的な思考回路のお陰で大人たちからは信頼が厚い反面、生徒たちからすれば罰ゲームのようなものなのだ。今までシグマ社AIに泣かされてきた学生の数は、きっと星の数ほどいるに違いない。
「ひい、もうお終いだあ……もも、お願い……宿題を、宿題を、恵んでください……」
ゆきも、例に漏れずに絶望に叩き落とされた生徒である。
よりによってAIスージー先生の初授業から宿題を忘れてしまっているのだ。このままでは合理的なAIスージー先生による合理的な処罰が合理的に課せられることは間違いなく、数日間は合理的な泣きべそをかいて過ごすことになるだろう。
「はあ……もう、しょうがないなあ。でも、タダで見せるのは嫌だよ?」
「やった! もも、大好き、愛してる! ちゅーしてあげる!」
「それはいらない」
「じゃあ、べらぼうラーメンバー奢るよ!」
「んー、だったら豚骨味を三本ね」
「えー、高くつくなあ……」
未だざわめきの止まぬ教室の中で。
幼なじみ二人、ゆきとももの宿題取り引きは『べらぼうラーメンバー』豚骨味三本で交渉成立したのだった。
◇ ◇ ◇
――その日の放課後。
「やっぱり、べらぼうラーメンバーはべらぼうにおいしいなあ♪」
ゆきとももの二人は、賑わう商店街を歩いていた。
『異界事変』以前は活気の薄れていた商店街だったらしいのだが、『異界事変』後に生まれたゆきたちが見てきた商店街は、大体が無駄に大賑わいで活気に満ちた場所だった。
今日も、有線ラジオで最新の音楽チャートの陽気な歌を流しながら、店先でおっちゃんたちがダンスに興じている。
ゆきはこの日、数学の授業直前にどうにか宿題を写し終えてスージー先生に提出できたので、合理的な処罰を受けずに済みご機嫌だ。
商店街の食品店で、ももとの約束の品である『べらぼうラーメンバー』の豚骨味を購入し、店を出ていきなり袋を手順通りにあけて、先っぽの吸引口からラーメンをずるずると啜りはじめた。
「ゆきちゃん、それ私が奢ってもらったやつだよね? なんで自分で食べてるの?」
「なんか、お腹すいちゃって」
「……まあ、いいけどさ」
もちろん、ももが奢ってもらったはずのものなので、共に歩くももも一緒にラーメンを啜っている。お行儀としては褒められないが、放課後の歩きラーメンは学生の特権だ。
歩きながらでも、それどころか運動中でも片手でラーメンを味わえるこの商品は、数年前に発売してからは中高生にも大人気のヒット商品となった。
販売元には異界出身者が多く雇用されており、ときおり地球上ではまず考えられない突飛な味のラーメンバーを売り出すので、話題性も満点だ。
「それにしても、シグマ社のAIって厳しすぎない? ただでさえ厳しかったスージー先生が、ロボットみたいになっちゃったね」
「まあ、実際そうだしね。思考回路が本物以上に合理的だから、言動が非合理的なゆきちゃんはシグマ社AIと相性が悪いよね」
スージー先生がロボットみたい。それは言い得て妙な事実であった。
AIスージー先生は今までのスージー先生が事前に用意していたものであり、彼女の人格や記憶、そして思考パターンが移植されている。けれど、それは決して本人そのものではないのだ。
特にシグマ社製のAIは合理性を重視するように調整されており、そしてなによりそのボディは機械製なので、比喩でもなんでもなく、スージー先生は本当にロボットになってしまったと言えるだろう。
授業を受けるだけならばまだしも、人間味という意味では、今までとはもう、別人だ。
「スージー先生さあ、生き返らないのかなあ」
「……難しいんじゃないかな。もう何回も手術してて、心臓あたりはかなりのつぎはぎだったみたいだよ」
「心臓まるごと交換とかじゃ無理なのかな」
「難しいよ。あの年齢じゃ身体が心臓交換にもう耐えられないよ」
「そっか……スージー先生、生き返らないんだ」
「うん、残念だけどね」
ゆきは、スージー先生のことは嫌いではなかった。
厳しくて、昔のアニメの意地悪家庭教師みたいな人だったけれど。でも一度だけ、放課後に残って宿題を終わらせたゆきに、彼女は内緒でご褒美のキャンディをくれたのだ。
塩おにぎり味というわけのわからないキャンディだったけれど、あのとき夕陽を眺めながら舐めたキャンディの味は、ゆきにとっては忘れがたい、しょっぱい味だった。
「なんか、寂しいね」
「うん、そうだね」
びゅうと、風が吹き抜ける。ゆきの頭上を飾る、うさぎ耳のようなヘンテコリボンが風になびく。
店先に立てられた、内臓マッサージ店の旗がパタパタと揺れている。
先日まで存在していたはずの、生身のスージー先生を思いながらすする『べらぼうラーメンバー』は。
どこか寂しくて。やっぱり、しょっぱい味だった。
◇ ◇ ◇
「――ねえ、気分を切り替えてさ! 今日も『異界ダンジョン屋』行かない?」
「また? ゆきちゃんってホント、異界ダンジョン好きだよね」
道のりで、ゆきは駅の方向を指さして提案をする。
このまま真っ直ぐ帰ってもいいのだが、ここから駅側に少し回り道をするだけで行きつけの店の前に出られるはずだ。
ゆきはしんみりした空気が好きではない。このまま帰って家でもしんみりするくらいならば、お小遣いを消費してでも、明るい気分で家に帰りたいのだ。ありがたいことに二人とも、門限まではあと3時間くらいは余裕がある。
そこで白羽の矢が立ったのが『異界ダンジョン屋』である。
異界ダンジョン。
それは、北風ゆきが愛してやまない、なんだかアナログ感が付き纏う、夢とワクワク、そして一攫千金が混ざり合った、ブームの過ぎた冒険の舞台だ。
中学生になってから、毎週――とは言わないまでも、ゆきはかなりの頻度で通っている。
ゆきは『異界ダンジョン屋』にドはまり中の、常連少女なのだった。




